ラディッシュを添えて、おろししょうがとおろしにんにくに醤油を垂らして、それに漬けて食べる。
まあビールは横にあるけどね。
こうしてひとしきり腹に入れて何か判らんが、またひとしきり話をして第二波の連中は引き上げて行く。
我輩に無言の圧力をかける第一波の連中は余裕のよっちゃんだ。
それから夕方になると第一波の目が刺さるんだ。
後円部墳頂には4基の埋葬施設があり、その全てに武器が副葬されている。特に主体部は目を見張るものがある。相当な有力者だったようだ。大和連合に組して後ろ盾が出来たことによってもこの地方の盟主になったことだろう。
4基すべてが男性のようで、兄弟、親子の関係にあったろうな。
第一波の子たちであり、物怖じしない子もいる。本日、北部九州が梅雨明けした。例年、平年に比べても遅かったのである。太平洋高気圧が張り出して来るのかと思えばそうでもないが、移動性高気圧のような感じだぞ。梅雨前線は黄海、渤海の方に移動していった。
こうして安心、安全だと判るとこの調子である。
なんか言っているんだろうか・・・「いつも同じ物しかねーな」「うるさい、文句言わずに食えよ」と言ったところかな。
この説明を読むと・・副葬品が凄いぞ。「宋書倭国伝」によると421年に倭王讃(賛)が遣使を送っている。
恐らくはその前後に大和連合に組み込まれたのであろうが、説明文には首長としているが、一国の王に相応しい者の墓である。
多摩川流域の世田谷区にある。五世紀初頭に築造されたものとする。テラスが設けられていて前方部は一段築盛で、後円部が三段築盛・・・均整がとれていないようにも思えるが・・全長82mである。周濠までを含めると104mもある。
ここには副葬品については書かれていないな。
この二羽が金網の上にとまってこちらをじっと見つめて(と言うよりは睨みつけると言ったほうが正確かな)我輩に無言の圧力をかけるのである。それに耐えかねて餌をやる。我輩がそこから離れるのを確認するや否や・・この状況である。
第一波はこの三羽のようだ。
この様子を遠巻きにして見ていた第二波がバタバタとやって来るのである。
案内図の真ん中より左上に野毛大塚古墳の名前が見える。
御覧の様に帆立貝式の前方後円墳である。しかも造出部をも持つ。周濠に囲まれているのだが、周堤があるのかないのかな。5世紀中頃に築造されている。5世紀と言えば賢明なる読者諸氏ならば頭をよぎるだろうな。そう、倭の五王の時代で、関東地方まで大和連合に組み込んでいっていたようだ。讃(賛)[421年 宋に遣使を開始する]、珍、済、興、武である。
我輩の気配を感じて一斉に飛び立っていったが・・・この子は物怖じしないのか・・鈍感か
おー、今のうちに独り占めだ。この後段差のある方に移動するんだが・・・ぷっ、こけてやんの。
なんだかな、鳥獣戯画を思い出したぞ。
綺麗なんだが・・やはり亡き父の朝顔が・・・と言っても今ではもう無理だがな。
空を覆いつくすように・・カラス山椒は元気だぞ。左の枝を上半分位落とさねばならん。ごめんね。