朝が早いものだから靄が立ち込めている。
露が降りてきているな。
所謂、高塚式ではない。在地墓制である地下式横穴墓であろう。
左が干珠、右が満珠である。干珠の左側に白い塔が見え、その足元に見える森が櫛崎である。
この海域に源氏の軍船800余艘が集結していた。緒戦は平家側(西から東への流れ)からの潮流で源氏を圧していたのである。源氏はこの攻撃に耐えに耐えたであろう。潮流が変わるまで。
牧ノ原古墳群(宮崎県)
ご存じの様に宮崎平野部に展開する古墳群はあまりにも有名である。内陸部に関して言えば大淀川上流域の都城盆地の牧ノ原古墳群(高城町)塚原古墳群(高崎町)に限定されて存在する。前方後円墳1号、3号、6号を含み円墳10基が所在する。ただね、見ることが出来るものとそうでないものとがあるのでマナー、ルールを守って見学を。
当該ブログの記事は令和2年(2020)10月22日から29日までである。
この地図画面左の上になるが、田野浦と言う地名がある。その沖の波穏やかな海域に平家の軍船800余艘が集結していた。平家の大将は平知盛である。
一方源氏がたは大将の源義経は既に長門国を抑えていたので櫛崎の沖合に集結していたと言われている。
向うに見える二つの小さな島がお判りになるだろうか。小さな方が干珠で、もう一方が満珠である。
源氏の軍船が集結したのはこの干珠、満珠の辺りである。
登ること10分足らずである・・・きつい、脊柱管狭窄症を患ってからと言うもの運動なんてままならないからな。日頃から引き籠っているので身体が言うことを聞かない。引き籠っているといっても古墳には行くし【自転車で古墳探訪(無謀な行動)】当然買い物にも行くけどね。
関門橋が架かる最も狭い個所である。ここで源平合戦があったというのだが、軍船1300艘がひしめき合ったとは到底思えないのは賢明なる読者諸氏も既にご理解しているであろう。
この海域でもない。