街道を歩く

今まで歩いた街道、町並み、これから歩く街道、町並みを散文的に紹介

豊後森駅構内

2006-05-27 00:28:56 | 街道関連
豊後森駅構内に滑り込む、上り「湯布院の森号」。このあと2分位で、下り「湯布院の森号」が進入してくる。上りと下りでは車両のタイプに違いがある。モスグリーンに違いはないし、満席であることにも違いは無い。久大線が単線であるため、ここ豊後森駅で交換する。上下が並ぶのは見ごたえがある。しかし、残念だったことは、それを写す角度であった。東から写したため西日が射し、逆光となってしまい、色が映えなかったことだ。携帯で写したためである。ただ使い方が判らなかったのであろう。やはり一眼レフを持っていけばよかったのかと、至極残念である。これは次の機会にとっておこう。何十年も前ならば、ここを蒸気機関車が頻繁に走っていたであろう。ただ、ここから2キロほど北にいった森中央の公園内に蒸気機関車が静態保存されてある。C11かC56だったか型式は憶えてないけれど、地球を何十周もしている。このような言葉で表現されるのは、蒸気機関車ぐらいではないのか。世界中でSLが走っていたのだが、汽笛は、やはり日本が最高だ。そういえば、SLの宝庫である中国も時代の波なのだろう、SLが消えるそうだ。電気、ディーゼルと機関車はあるけれど、やはり、力強さを象徴するのはSLであり、人間の苦労する姿とオーバーラップさせるのもSLである。豊後森駅構内にあるターンテーブルと機関庫をうまく利用して、蒸気機関車を生き返らせてもらいたいとつくづく思うのは私だけではないであろう。(写真:西日を浴びる「湯布院の森号」
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

声が届いたのかな?

2006-05-24 00:19:48 | 街道関連
毎日新聞5月23日夕刊によると、豊後森駅構内にある機関庫とターンテーブルが、町民の方々の手で保存されることが確実になった旨の記事が一面に掲載された。町がこれにより、少しでも賑やかになればよい。玖珠町は、筑後街道にあり、久留米、日田、高塚地蔵、天瀬、湯布院、別府、大分の所謂、久大ライン上にある。少し北へ行けば、童謡の町、森中央があり、城下町の佇まいが残っている。この点と点を結び、面となるように、文化財を活かしていただきたいと思う次第である。南へ目を移せば、世界一のカルデラを持つ、阿蘇山がある。玖珠町の東西を流れる玖珠川も、安全に遊ぶことができるようにならないものか。川で子供の遊ぶ姿を見ることが出来ないのは寂しい。自然の宝庫であり、拠点ともなれる町である。この地の利を活かして元気な町になってもらいたいものだ。(写真:新聞記事)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朽ち果ててゆく

2006-05-19 00:12:02 | 街道関連
また、豊後森を訪ねた。日之影からの帰り道である。国鉄の時代はここから肥後小国まで、宮原線が山間を蛇のように這うように走っていた。また、九州最高地点の駅、阿蘇釣駅があった。そして北里柴三郎をご存知であろう。北里駅もあった。温泉好きの方ならばご存知の宝泉寺温泉の入り口に当然のように宝泉寺駅もあった。ここが廃線になって四半世紀になるであろう。起点である豊後森駅構内には機関庫とターンテーブルがある。文化財として残そうとする声が上がっているようだが、その話は聞こえてきそうに無いほど無残な姿を晒している。昔日の繁栄を物悲しく語っているように朽ち果てるままに佇んでいる。その横を、「湯布院の森号」が上りと下りがすれ違っていくのである。ホームの向こうには西日を浴びた鯉幟が大きく口を開けて垂れ下がっている。過去と現代と未来とが豊後森駅構内にあった。(写真:機関庫)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出(続き)

2006-05-15 00:20:40 | 自転車
残念ながら高千穂鉄道は二度と走ることは無い。日之影駅の構内は道床が洗われてしまい、線路と枕木が浮いていた。線路は錆付き、ポイントには土が詰まっていた。駅舎は待合所とお土産屋が同居している。バス停も在るのだが、バスは走るのだろうか、一台もすれ違っていない。この先どの様になっていくのだろうか。高千穂鉄道にある最も高い橋梁を活かして観光用に往復させるなど出来ないものか。国鉄の時代では延岡から高森へ、高森から熊本へと、九州横断鉄道が計画されていたのだがそれも断念されたのである。その頃の記念としてディスカバージャパンのスタンプを掲載しておこう。鉄道ファンならよくご存知なものである。(写真:日之影駅のスタンプ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出(続き)

2006-05-12 00:54:18 | 自転車
今回、思い出の地は悲惨でした。過年の大雨による災害で、高千穂鉄道が各箇所で寸断されており、鉄橋は流され、道床は洗われ、流木が引っ掛かったままの鉄橋、線路は赤錆が浮いたまま、二度と汽車が走ることは無いのである。それなのになぜか信号は空しく赤色を灯したままであった。五ヶ瀬川沿いの道も同様である。あちこちで全面通行止めになっていた。そこに住んでいる人たちは、度ごとにバイパスまで駆け上がらなければならないのである。思い出の道を走ることが出来ず、何の変哲も無い道を走らなければならないのは苦痛である。しかも五ヶ瀬川も見えず、人の生活も見えない。この様な道を道とは言うまい。只一つ、日之影での光景が救われたものになった。五ヶ瀬川に注いでいる日之影川に差し渡した鯉のぼりであった。霧を含んだ風の中に泳いでいる姿だったのだ。(写真:日之影川を泳ぐ鯉のぼり)P.S 私が自転車で訪れたとき、台風14号、この被害も台風14号であることを付け加えておこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出(続き)

2006-05-11 01:28:05 | 自転車
大学生の時、自転車で小倉から九州一周に出た。昭和49年(1974)8月18日(日曜日)に高森から高千穂を抜け、日向に出る予定であったが、この前夜から台風14号にみまわれ、強風と豪雨の中を走ることになってしまった。この時代は当然のことながらバイパスなどと言うものは無く五ヶ瀬川沿いの道を下るしかないのである。車は殆ど走ることなく、私の自転車一台のみが台風の中を走っていた。これにより体がどんどん冷えていく。さらに雨、風が激しくなってくる。だんだんと心細くなっている自分がわかる。それでも細い道を下っていると突然、街並みが現れたのである。ここが日之影であった。とある旅館の看板が目に入ってきたので迷うことなく飛び込んだ。昼間の時間ではあったのだけれど、女将さんは事情を察してくれ、快く受け入れてくれたのだった。「体が冷えてるだろうからすぐ風呂に入りなさい」といってくれた。ここは日之影温泉でもあるので、風呂場目指して飛んでいった。冷たい身体に心地よい暖かさが身体に沁みた。風呂の横には五ヶ瀬川、空には頭を押さえるほどの黒雲がのしかかっている。それでも私の心は安堵の気持ちで満たされていたのである。この地には私のこの様な思いでがあるのである。(写真:昭和49年の日之影)写真を比べてみてもらいたい。30数年前と殆ど変わってないのがお判りになるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出

2006-05-10 02:37:35 | 自転車
東京の知り合いがゴールデンウイークを利用して帰ってきました。どこかに行きたいというので付き合うことにしました。当初の予定は西都原古墳群ということでしたが、遠すぎるので日之影ということになりました。ここは彼の希望ということでなく、私の思い出の場所だったのでここにきまりました。真夜中12:30出発、午前5:30到着。彼はここで一寝入り。私はと言うと当然のように散策です。とは言っても20分もあれば一巡りしてしまうほどの街なのです。澄んだ空気がとても気持ちよく、五ヶ瀬川の川面を吹き抜けていく風がさらに心地よくしてくれます。一昔前なら五ヶ瀬川沿いを走っていたのですが、バイパスが出来てからというもの、脚下に五ヶ瀬川が奔っていることもわかりません。延岡から高千穂まで何も目につかないといっていいほど何の変哲の無い道を走らなければなりません。何故なのか、それは続きとしておきましょう。(写真:日之影)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする