さて東海道を野次喜多しよう。と言ってもほんの少しなのだが。それでもなぜかよし歩こうなどと思ってしまう。しかし母との道中なのでそうも行かず断念する。それでも母の体力の許す限り歩くことが出来た。
道幅は当時と変わらないらしく狭い。この近辺には面影は残ってはいないが、それらしくは見えるのにはありがたかった。途中道をそれて天井川の土手に登った。
道幅は当時と変わらないらしく狭い。この近辺には面影は残ってはいないが、それらしくは見えるのにはありがたかった。途中道をそれて天井川の土手に登った。
草津宿脇本陣(青色の幟が立っている)である。本陣前から写している。ほんの目と鼻の先にある。土産物屋で、少なからず草津の歴史資料も見せている。道路はアスファルトの舗装ではなくそれなりに見せている。
以前、阿武郡奈古を紹介したが、奈古と比較して趣が全く異なっているのがお判りだろうか。ここ草津は肩を寄せ合って建物がひしめき合っているが、奈古は土地を潤沢に利用しているのである。それで閑静さが現れるとともに落ち着きが見られる。片や草津は隙間も無いほどに、と言うよりは一つの壁で隣り合った状態で建物が続くのでなんとなく落ち着きが無く、気忙しさを感じてしまう。やはり宿場町の忙しさが街道筋に現れているようだ。(写真:道の向うははるか遠く京へ上る)
以前、阿武郡奈古を紹介したが、奈古と比較して趣が全く異なっているのがお判りだろうか。ここ草津は肩を寄せ合って建物がひしめき合っているが、奈古は土地を潤沢に利用しているのである。それで閑静さが現れるとともに落ち着きが見られる。片や草津は隙間も無いほどに、と言うよりは一つの壁で隣り合った状態で建物が続くのでなんとなく落ち着きが無く、気忙しさを感じてしまう。やはり宿場町の忙しさが街道筋に現れているようだ。(写真:道の向うははるか遠く京へ上る)
写真は本陣である。大きな宿場町であれば殆どと言っていいほど存在する。もう少し先に進むと今度は左側に脇本陣がある。母と二人でこの界隈を散策する。
この時季、菊の大輪をあちこちで見ることが出来る。丁寧に育てられている様子がよくわかる。
この時季、菊の大輪をあちこちで見ることが出来る。丁寧に育てられている様子がよくわかる。
トンネルの手前に昭和30年代のような建物がある。アーケードに面しているので日が当たらずに、より古さを感じさせる。この中山道にはその当時を偲ばせる建物は無い。それでもここが街道であったのだということは雰囲気でわかる。
さて、目の前はトンネルだ。ここが所謂特異な地形であって、九州には見られないのである。何故トンネルなのか。この上を川が流れているからであって、天井川と言う。普通であれば川には橋が架かってそれで渡る。ところがここはトンネルで潜り抜けるのである。鉄路もそうである。弟が言ったのだが、「汽車から見えただろ」当然のように彼らはそこに何があるのかを知っている。当然のように我々はただのトンネルとしか思わない。まさか上に川があるなどとは想像だにしないのである。この天井川を潜る。上に被さってくるものが無い。青天井である。
さて、目の前はトンネルだ。ここが所謂特異な地形であって、九州には見られないのである。何故トンネルなのか。この上を川が流れているからであって、天井川と言う。普通であれば川には橋が架かってそれで渡る。ところがここはトンネルで潜り抜けるのである。鉄路もそうである。弟が言ったのだが、「汽車から見えただろ」当然のように彼らはそこに何があるのかを知っている。当然のように我々はただのトンネルとしか思わない。まさか上に川があるなどとは想像だにしないのである。この天井川を潜る。上に被さってくるものが無い。青天井である。
草津駅に立つ。草津と言っても温泉ではない。ここ草津宿は東海道と中山道の追分である。中山道はこの先北国街道とも別れていく。また、地形的にも特異な川がある。それは後でお話しすることにして草津宿を垣間見てみよう。
この草津駅は二階部分に改札口があり、駅前はペデストリアンデッキとなっている。駅頭に立つとすぐ目に入ってくる石碑があり、ここが草津宿だとすぐわかる。
日差しは眩しいが、少し肌寒い。まあゆるゆると歩いてみよう。地上に降り、アーケードが右に伸び、今は中山道である。
アーケード街は10時前とあって人が少ない。すると後ろからも前からも車が我が物顔で狭いアーケードの下を駆け抜けていくのである。危なかしくて自由に歩くことができない。こんなことでいいのか。と不平を言いつつ進んでいくと正面にトンネルが見えた。
この草津駅は二階部分に改札口があり、駅前はペデストリアンデッキとなっている。駅頭に立つとすぐ目に入ってくる石碑があり、ここが草津宿だとすぐわかる。
日差しは眩しいが、少し肌寒い。まあゆるゆると歩いてみよう。地上に降り、アーケードが右に伸び、今は中山道である。
アーケード街は10時前とあって人が少ない。すると後ろからも前からも車が我が物顔で狭いアーケードの下を駆け抜けていくのである。危なかしくて自由に歩くことができない。こんなことでいいのか。と不平を言いつつ進んでいくと正面にトンネルが見えた。
滋賀県がまだまだ続く。翌日は野洲に歩いて行こうと考えていたのだが、母も来ると言うので断念した。それでも電車で二駅目に草津宿があると義妹が言うのでそれではと言うことで母と出かけた。歩くことには変わりは無いが、距離的には母への負担は軽いだろうと思ったわけである。
家を出て周りを見渡すと、庭先に花を綺麗に咲かせている家があった。あまりに綺麗だったので写真を撮らせていただいた。
すると母が祖母の思い出の花を見つけたのだ。家人に分けていただきたいと申し出た所、壱も弐も無く快諾していただけた。ただ、今から出かけるので帰りがけに寄る旨を告げ別れた。
これは朝から縁起がいい。ましてや母の祖母の花だ。やはり何かの縁がある。そのような話をしつつ二人で駅に向かった。
家を出て周りを見渡すと、庭先に花を綺麗に咲かせている家があった。あまりに綺麗だったので写真を撮らせていただいた。
すると母が祖母の思い出の花を見つけたのだ。家人に分けていただきたいと申し出た所、壱も弐も無く快諾していただけた。ただ、今から出かけるので帰りがけに寄る旨を告げ別れた。
これは朝から縁起がいい。ましてや母の祖母の花だ。やはり何かの縁がある。そのような話をしつつ二人で駅に向かった。
さて、そろそろ弟の顔を見に行かねばならん。本来の目的はそれである。行って母の安心する顔を見なければならん。弟夫婦も待っていることだし。と言いながらも母はお土産を買いたいと言う。何を買うのか尋ねてみると、丁稚羊羹がいいと言う。私は気付かなかったのだが、母はバスの中からその店に目をつけていたのだった。まだ歩くのである。母が先頭に立って歩き出した。おっ、まだまだ元気が出るじゃないか。私はと言うと母のペースに合わせたために疲れがどっと出ている。まあ仕方が無い。歩いていると道しるべが建っている。写真である。左京街道とある。好い言葉の響きだ。京都と言うより京のほうが落ち着く。それを横目に見ながら店へと歩いた。