いつもの父なら自分の指定席に座って「おっ」で、「またな」ぐらいの挨拶で済んでいるのだが、今日は今までと全然違うのである。「おー、見送りに来たか。いつもと違うな」と思った。
そして翌日となり、父が逝ってしまった。私が聞いた最後の言葉は「メイファーツ」である。
「どうしようもない」「しかたがない」と言う意味である。
私には「鉄、俺が死ぬのはどうしようもない。しかたがないな」と言いたかったのかもしれないと思った。父が逝ってしまうのは止めようも無くどうしようもなく、仕方が無いことなのだ。
何も言わずあっというまに逝ってしまった父。子供の頃はあまりにも私に厳しく、それで父を憎んだこともあるけれども、最愛の父をこんなにも早く亡くそうとは今でも信じられないことなのである。
母が白内障の手術をしたため、その術後通院で送り迎えをした。家に戻ってしばらくの間両親と親子の会話をしたのである。別に他愛の無いことである。それまでは父にはなんら異常は無い。帰る段になって父は母を押しのけるようにして玄関まで私を見送りに出てきたのである。
恥ずかしかったのか「鉄、雨は降ってないか」と私に問う。「ん。少し降っとるようだね」と二人並んで空を見上げたのである。小さな雨が少しばかり落ちていた。
そのとき我々の後ろから母が「お父さん小さくなったね」と驚いたように言った。我々は聞いたと同時に母のほうを返り見た。まるでシンクロでもしているかのように仕草も同じであった。
確かに父は以前より小さくなった。「腰を曲げてるせいよ」と私は父の腰の辺りを軽く叩いた。父は母に向かって「メイファーツ」と言った。「おっ、中国語か」と頭のなかで判断した。私は父に「発音が悪いな」と言いながら「じゃあね」と言って別れたのであるが、帰路に着く車中で「ん、いつもとちがうな」と、ふと思ったのである。
恥ずかしかったのか「鉄、雨は降ってないか」と私に問う。「ん。少し降っとるようだね」と二人並んで空を見上げたのである。小さな雨が少しばかり落ちていた。
そのとき我々の後ろから母が「お父さん小さくなったね」と驚いたように言った。我々は聞いたと同時に母のほうを返り見た。まるでシンクロでもしているかのように仕草も同じであった。
確かに父は以前より小さくなった。「腰を曲げてるせいよ」と私は父の腰の辺りを軽く叩いた。父は母に向かって「メイファーツ」と言った。「おっ、中国語か」と頭のなかで判断した。私は父に「発音が悪いな」と言いながら「じゃあね」と言って別れたのであるが、帰路に着く車中で「ん、いつもとちがうな」と、ふと思ったのである。
私はただそこに立ちすくみ、父の顔をみつめ、こらえることもできずに溢れ出て来る涙で顔をくしゃくしゃにしていた。泣くことを嫌っていた父のことを思い出し、恥ずかしくて顔を下にし、歯を食いしばっては見たものの止めどなく溢れてくる涙はどうしようもなかったのである。
人間の死を止めることはできない。どうしようもない。まさかこの様なことが目の前で起こるなど考えたこともなかった。
考えることが必要になるような、本当に死にそうな父ではなかったのだ。
既に逝ってしまった父との対面となってしまったが、この前日父との最後となる会話をしているのだが、今思えばそれはあまりにも意味深な言葉であった。
「没法子」中国語である。
人間の死を止めることはできない。どうしようもない。まさかこの様なことが目の前で起こるなど考えたこともなかった。
考えることが必要になるような、本当に死にそうな父ではなかったのだ。
既に逝ってしまった父との対面となってしまったが、この前日父との最後となる会話をしているのだが、今思えばそれはあまりにも意味深な言葉であった。
「没法子」中国語である。
家に着き母を残して(母は父が死ぬなんてこれぽっちも思ってもいないので)義兄と病院へ向かった。倒れてからかれこれ一時間が経とうとしている。倒れたときには既に脈も無く、呼吸もしていなかったとのこだったので、それが小一時間も経っている。だから病院側の話を聞くまでもなく終わったのだなと確信したのだった。それを身体では受け止めることが出来なかった。
遺体となった父との対面のとき、左足が少しはみ出ていたのでその親指に触った。父の温もりはなくただ冷たくなった父がベッドの上で左腕をブランと下げたまま、顔は入れ歯を外していたので口をすぼめたままで横たわっていた。声をかけても二度と返事をしない父がそこにいるのだった。だが、死顔は清々しかった。
苦しむこともなくあっと言う間も無く逝ってしまったのであろう。
遺体となった父との対面のとき、左足が少しはみ出ていたのでその親指に触った。父の温もりはなくただ冷たくなった父がベッドの上で左腕をブランと下げたまま、顔は入れ歯を外していたので口をすぼめたままで横たわっていた。声をかけても二度と返事をしない父がそこにいるのだった。だが、死顔は清々しかった。
苦しむこともなくあっと言う間も無く逝ってしまったのであろう。
世の中で何が悲しいと言って身内のものが亡くなる事ほど悲しい出来事は無いであろう。これは人として生まれれば自然に、又、必然的に時と場所を選ばずに迎えねばならないことである。
6月23日土曜日午後6時30分頃、父親の死に直面したのである。
午後5時38分母からの電話で「お父さんが倒れたので直ぐ来て」というものだった。もどかしく服を着、家に向かった。道路は大変な渋滞で前に進まない。このときである私の頭の中に「もうだめなようだ」と誰かが話しかけてくるのである。そんなことはあるものかと否定はするのだが、果たして私もそう思ってしまったのである。
家に向かう途中、対向車線を救急車が走ってくる。家の方向からだったのでこれと確信した。すれ違い様振り返って見る。当然のことに中は見えないのだが、そこに父が横たわっているのをはっきりと見た。「くそっ」
[写真:父が好きだった朝顔]
6月23日土曜日午後6時30分頃、父親の死に直面したのである。
午後5時38分母からの電話で「お父さんが倒れたので直ぐ来て」というものだった。もどかしく服を着、家に向かった。道路は大変な渋滞で前に進まない。このときである私の頭の中に「もうだめなようだ」と誰かが話しかけてくるのである。そんなことはあるものかと否定はするのだが、果たして私もそう思ってしまったのである。
家に向かう途中、対向車線を救急車が走ってくる。家の方向からだったのでこれと確信した。すれ違い様振り返って見る。当然のことに中は見えないのだが、そこに父が横たわっているのをはっきりと見た。「くそっ」
[写真:父が好きだった朝顔]