街道を歩く

今まで歩いた街道、町並み、これから歩く街道、町並みを散文的に紹介

リクエスト

2008-10-31 09:34:42 | 自転車

 昨日より鮮明な写真を載せた。うーんと頷ける写真ではないかな。

 ご覧のように同じ場所である。人っ子一人通らず車一台も走らない。我道を行くの心境ではあるが、この道なりでは無理だったことは言うまでもない。
 素晴しい日本海の光景を堪能していただけたであろうか。
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戸畑支部のリクエストにお答えして

2008-10-30 12:17:32 | 自転車

 昭和50年(1975)8月20日(水)大山桝水原に立っている。伯耆大山駅から大山寺を経岡山県境まで。12:52~16:18~19:18 自転車にとっては山道と言えるほどの坂道を登った。御歳二十二 柔道参段 絶好調 体力は余りある とは言うもののやはり厳しかったが、写真を見るに平気そうな顔をしている この日は飯も食えずに真っ暗闇の中、岡山県境の看板の下(標高1000メートル余)で野宿



 昭和50年(1975)8月24日(日)兵庫県竹野海岸 城之崎の隣町
天気晴朗なれど波高し 怒涛の日本海を見る 飛沫ではなく波そのものが道を洗うのである。道は弧を描き入江に向う 入れば出、出れば入る 登れば下り、下れば登る 遠くを見た途端に覚悟を決めた しかし、こんなにも素晴しい光景を目の当たりにするとは思ってもみなかった 城之崎にて一泊
 追伸 写真をスキャンしたものの画素数が大きいため(1メガ以上になる)掲載できずデジカメで撮影した カラーでない白黒の良さを解っていただけたであろうか 8月16日7:30スタート9月1日16:40ゴール 目的 福井県境
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中津街道(余録) コメントに返事

2008-10-30 10:08:39 | 中津街道
<この場所は、覚えております、ただ校庭の裏庭にひっそりと
おられるのが、かわいそうではありませんか。
香春の小学校は校門の横に、おられましたね、そうするとここはあとで動かしたかもしれませんが、街道筋側におられるということは、その昔、校門はこちら側にあったのではと思ったりしてしまいます。
やはり街道は金さんとの遭遇率が高くて楽しいですね。
最後に、以前若かりし頃の自転車ねた、もう有りませんか?>
 秋月街道を歩き、香春で発見したのにも関わらずついぞ思い出せなかった。言われてみて「あっそうか」と。いやおはずかしいことで。再度妻と二人で11月5日に行き、学校側に頼んでちゃんとした写真を撮らせてもらうつもりでいる。そして汐湯だ。さて、若かりし頃の自転車ネタはたくさんありますよ。35年も前ですが。

<歩きの中で今まで見えなかったモノが見えたり、聞こえなかったモノが聞こえたり、五感が揺さぶられるようで・・・。私も歩くことが好きです。1歩の素晴らしさを実感しています。>
 ご高覧有難うございます。人の移動手段は足です。そこで体全体を耳にし、或いは目として自らを心から揺さぶる。そのことができるのはやはり歩くことでしかないと思っております。母と一緒に行ったときなどは人の家の庭まで覗いてあの花がどうだこうだと言っておりました。一人より二人、二人より三人、人数が多ければそれだけ目も耳も多くなるわけで、多岐にわたる要因が五感を激しく揺さぶるでしょう。私のブログはマイナーではありますがご高覧していただけることに感謝しております。一つでも心に残るようなブログを作ることを心がけたいと思います。

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中津街道(余録)

2008-10-29 10:16:48 | 中津街道

 帰路に着く。極力中津街道を北上することにした。当然のように道狭く離合もままならぬが、普段の生活道路であるから殆どと言っていいくらいに車は通っていない。軒先を掠めつつも母に説明をし、運転を続けた。
 宇島の街道を行き、かねてより目をつけていたところで止めた。それがこの写真である。少々判り辛さもあるであろうが、今では殆どと言っていいくらいに希少なものである。小学校の片隅で、木々と小さな倉庫に挟まれた格好でそれは立っている。ある程度の年齢の方ならもうお判りであろう。そう「金さん」。
 薪を背中に背負い本を読んでいる姿と言えば、「遊び人の金さん」ではなく勤勉な「金さん」二宮金次郎である。台座には二宮尊徳先生とあるが、この像はまだ少年なので金次郎が正しい。
 母も珍しさのなか、母が通った小学校を思い出したのである。そのころは全国の小学校にあった。私が通った小学校にもまだあった。それがいつの間にか消滅した。何故なのか理由は判らぬ。勤勉を奨励し、勤勉の象徴とも言うべき物言わぬこの像は物も言わずに田舎の小学校の片隅に残されている。


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中津街道(余録)

2008-10-29 08:50:47 | 中津街道

 本殿横から潜り戸から古木立の中を行く。すると本殿裏に出、小さな堤の上の小道に出る。左手に内宮(みすみが池)が拡がる。池面には真薦(マコモ)であろうかあちこちに見ることが出来る。この真薦を刈って「枕」とし、それを神の御験とするのである。
 池は杜に囲まれ神域を際立たせているようだ。しかし、この池は自然にあるものではない。ということは人工池なのである。堤は古代中国から伝わった版築工法で、この地に住み着いた人々の面影を垣間見ることが出来る。
 この平野で農業を中心にして生きてきた人々が如何に水を確保し、如何に水を大切にしてきたかがこの薦神社でより鮮明になるのではなかろうか。
 また、巴は「水」を表していると言われるのだが、それも頷けるのではなかろうか。
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中津街道(余録)

2008-10-29 08:01:21 | 中津街道

 目の前に楼門が聳える。頭でっかちであるが優美な姿である。それでも全体が落ち着いて見えるのは面白い。全体は丹色なのだが、黄色が目立つのがわかる。
 この楼門をくぐって本殿正面に行くことは出来ない。これから左に折れて回り込まなければならない。回り込んで右手に本殿三殿があるのだが、その前にある拝殿でその殆どを見ることが出来ないので、少し興醒めであるのは残念である。
 拝殿には大きな提灯が掛けられている。この左に回って見ると、二人驚いたものがあった。それは薦神社の「紋」である。これが一つ巴なのだ。普通八幡といえば三つ巴であるがそれが一つなのである。やはり薦神社が宇佐神宮の先祖なのだろうと思ったのである。
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中津街道(余録)

2008-10-28 08:41:59 | 中津街道

 本殿へと向う。正面に大木がある。楠木である。周囲に金網を廻らせて根元を踏ませないようにしているものと思われる。中に標柱が立てられているのだが昭和44年とクスノキの片仮名しか読み取れない。恐らく天然記念物かと思われるが定かではない。


 大きさを比較するため小さな母に立ってもらった。楠木から見ると母などは蟻の様であろう。私とても同じだ。写真にも納まらずに悠然と立っている。7,800年以上は言うに及ばずと言ったところであろう。すばらしく見応えのある楠木である。
 神域を一歩外に踏み外している理由はわからぬが、こうして迎えてくれる薦神社の神聖さを表しているかのようである。
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中津街道(余録)

2008-10-27 10:00:23 | 中津街道

 どこかで見た風景かと思われるだろう。が、ここはあの宇佐神宮の呉橋ではない。中津大貞にある薦神社である。この神社は宇佐八幡の先祖である。

 この屋根のついた橋はこの神社の御神体である三角池から流れ出る小川に架けられている。修理、修復などした様子など見受けられず床板などは穴が開いている。
 呉橋は大分県有形文化財なのだがその先祖は見るに耐えない。どこの文化財でもないのであろう。悲しいことである。
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中津街道(おまけ)

2008-10-27 09:37:00 | 中津街道
 <男湯が、左。女湯が右。の理由は、多分陰陽五行説からではないでしょうか?

陰陽で、男女を現すと、男が陽、女が陰、左が陰、右が陽、
偶数が陰、奇数が陽、丸が陽、角が陰と言った具合になる為、
即ち、陰と陽のプラス マイナスで、陽の男が、左の陰の風呂、陰の女が右の陽の風呂と思われます。

 萩の毛利家(殿様の御墓)も偶数、奇数とお寺が分かれていますし、偶数(殿様)のお寺(墓石)は、四角、奇数(殿様)のお寺(墓石)は、丸ですよ。 >
 
 早速のお説有難うございます。万物は陰陽二気によって生じ、火、水、木、金、土の五行の消長によって天変地異や人事の吉凶を説く、とする。七五三という数字は象徴的である。

 説は面白く思える。プラスマイナスを打ち消すという考えに辿り着いた昔の人は粋人であったかもしれん。


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中津街道(余録)

2008-10-26 01:38:39 | 中津街道

 デジカメのバッテリーが途中で切れてしまったため携帯のカメラで撮らざるを得なくなった。残念である。確認しておけばよかったと悔やまれる。
 綱敷天満境内で牛と一緒に丑年の母を写した。来年年女である。齢84になる。
 雨は降らぬが雨雲が水平線まで降りてきているようだ。この浜に菅原道真が上陸したのであろう。対岸は山口県防府である。何故防府なのか。そこにも菅公ゆかりの防府天満宮がある。大宰府に左遷されるときにこの地から九州に渡ったのである。それを偲ぶよすがもないが、唯一この地に残されているのであり、母の祖先がもらった名前が残っているのである。1100年という時が経ってもなお、母の話を聞くとその場面が映像のように頭に浮かぶのである。私がそうである様に母もまた母や祖母から聞いたのである。
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