古墳に近づくにつれ、この氷雨の中で身体が縮こまっているにも関わらず心がうきうきしている。我ながら不思議である。
田川地方で最大最古とあるが、そのわりに整備されているわけではない。近くで働いている人達が知らないというのは歴史文化が大事にされていないのではないかと思ってしまうのである。まあ何度も言うようだが興味がなければ知る良しも無かろう。
位登古墳は古墳時代前期とされてあり350年頃と思っていただければよいであろう。この地域はセスドノといい、猫迫といい、興味深い古墳が存在している。それがいったい何を意味するのか。
さて、今回で999回目 京の五条の橋の上 弁慶が仁王立ちしている。あと一本で千本になる。ご存知のようにそこに現れたのが牛若丸。弁慶は九仞の功を一簣に虧いたのである。現在はそのようなことはないのでまだまだ続くのである。
たまたま今年最後の日に999回目が、そして、新年1月1日には1000回目が記されることになるのである。
道標はこの様にして建てられている。氷雨そぼ降る中近くに整体院があったので古墳の場所を尋ねに入った。セスドノを尋ねたときも整体院だったが、ここもそこも周りに人が全くいなかったのである。セスドノのときは誰も知らなかったのだがここの人は古墳の所在は知っていた。と言うより、古墳かどうかは知らないが、恐らくはあそこではないかというくらいの知識だったのである。実際興味が無ければ隣にあったところで知る由も無いのはしかたのないことである。
恐らくここにあるであろう場所に行ってみた。「おー、古墳じゃないか」「あー、古墳ですね」二人で又ハモってしまったのである。当然のように看板が立てられているが、これは無くても一見して判る。これが位登古墳である。前方後円墳で、今は後円部を見ている。
現地に行ってはみたものの、ここら辺りだろうと見当をつけては行ったのだが狭い道と住宅街で判らなかったのである。そこでまずはと整骨院で場所を尋ねたところ全く知らないと言われてしまった。付近にあるのはあるのだが全然知らないとはがっくりだった。興味が無ければむりもなかろうが。気分を入れ替えて付近の公民館で聞いてみた。この辺りだろうと教えては頂いたが、どうも道が入り組んでいて、聞くと見るとは大違いなのだ。この付近じゃあないかとまた見当をつけて行ってみた。それがこの写真である。一見すると古墳に見えるし、ただ土を捨てているかのようにも見える。また、周囲を柵で囲っているため中に入って確認することすら出来ない。二人でハモッテしまった。「これ古墳か」「どうも古墳らしくないな」「違うんじゃあないか」
やはり違っていたのである。セスドノ古墳は我々の背後100mにあったのである。これは帰ってグーグルアースで確認をした。しかしながら、猫迫1号古墳がセスドノ古墳の近くにあると後で判った事なのだが恐らくそれであろう。整備以前だからこのままなのかもしれん。改めて再訪することにした。
気を取り直して位登古墳に向った。この古墳も所在を知らぬ。そこで見当をつけて住宅街に入り込んだ。するとこれを見つけたのである。
南猪膝及山田ヲ圣テ大隈ニ至ル(秋月街道) 西筑前高倉ヲ圣テ飯塚ニ至ル(猪膝街道)と掘られてある。昔からここに建てられてあってここは十字路だったのだろうか。
土の表面をまるで彫刻するかのように掘り進めて行く。腰は痛めるだろうし、忍耐が必要だろうな。短気な性格では出来ないことかもしれん。
よほどの遺跡でなければ記録だけしか残らない。恐らくここもそのようになるのであろう。掘り進めている彼らの向うには道路の高架部が迫ってきている。当然といっていいほどもう二度と日の目を見ることはないのである。
前回奈良時代の大型建物跡の説明会があったが、訪れたときは既に埋め戻された後であった。
P.S.馬鹿者がくだらないコメントを入れている。一人よがりで人を無視して自己満足に浸ろうとするような馬鹿者は【馬に蹴られて■んじまえ】【豆腐の角で頭を打って■んじまえ】とまあ、あまりに情けない。