先日院展を見たが、その時、そもそも岡倉天心ってどういう人だっけと思い、「岡倉天心物語」を読んだ。この本は、元々神奈川新聞、福井新聞に連載されていたぐらいだから、読みやすい。
開港直後の1862年に横浜に誕生し、親が横浜で外国人相手の貿易商をやっていたため、日本語よりも先に英語を覚えたという。当時は、ヘボン式で有名なヘボンや、フェリスを創立してたメアリーエディーキディや、横浜海岸協会を建てた宣教師のジェームスバラが横浜にいた。まさに西洋文明が日本に初めてもたらされた時期だ。
その後英米文学に熱を上げたが、フェノロサと出会い、日本の美術の再発見?復興に取り組んだというのが、あらましなのだが、その人生は、まさに波乱万丈であり、当時としては、画期的なことだが、アメリカ(ボストン美術館の東洋部を立ち上げ)、ヨーロッパ、インド(アジャンタ石窟の壁画を見て、法隆寺金色堂の壁画との関連を指摘した)、中国(清)を旅し、各地の文化を見聞し、また日本の文化を紹介し、まさに、東西文化の架け橋、近代日本の最初のインターナショナルパーソン(国際人)と言っても過言ではないということがわかった。彼がいなかったら、印象派の絵もずいぶん違っていたかもしれない。当時の日本美術の大スポンサーであった原三渓や、インドの詩人タゴールや、もちろん日本の美術史に名を残す横山大観や、狩野芳崖や、下村観山、菱田春草などとも行動を共にしている。敦煌の壁画剥がしや仏像持ち去りで悪名高いウォーナーとも親交があった。
東京芸大立ち上げ、院展の立ち上げ等日本の美術界における功績を挙げたら切りがないが、日本の古来の芸術を、信仰の対象から、美術館に納まる芸術に変えたという点には、賛否両論あろう。でも、彼がいなかったら、日本画の世界、日本の芸術の世界は、破壊され無くなっていたか、10歩も100歩も遅れていたことは、間違いない。
写真は、横浜市開港記念開館前に立つ”岡倉天心生誕の地”の碑です。