長岳寺は、前回も訪れた。
神社が多い山之辺の道で、珍しく残された立派なお寺だ。
永久寺が、たぶんもっと立派だったのだろうが、廃仏毀釈の中で、今は跡形もない。
石神神宮に、拝殿が移築されていたり、藤田美術館に、仏画が残されたりする。
印象深かったのは、黒光りする仏様だったが、いい季節で、地獄絵が、特別公開されていて、たまたま、お坊さんが、地獄絵の説明をしてくれていた。
全部は、お聞きできなかったが、昔は、こうやって、仏教の教えが、浸透していったのだろう。
至るところに、歴史を感じさせるものが遺されている。
庫裏も、内部が、公開されている。
庭は、小さいが、よく手入れされている。
近くに、天理市トレイルセンターがある。
山の辺の道の、ちょうど中間ぐらいで、資料もあるし、休憩もできる。
トレイルセンターは、前にも寄ったのだが、この看板はなかった。
天皇陵が、所狭しと並んでいるのがわかる。
堺の古墳群より古いが、既に、古墳の巨大化が始まっていたことが、わかる。
ここから道は、古墳の合い間を、抜けていく。
前回は、古墳を、一周しながら行ったが、今回は、拝むだけ。
一周するだけでも、沢山あるし、たいへん。
大和三山の内の、二山が見えた。
香久山と畝傍山かな。
途中に、神籬の碑をみつけたが、ここで神祭りをしたという。
箸墓、纏向も近い。
纒向諸学校昭和16年卒業生一同様が建立した説明板があったので、ちょっと長くなるが、興味深い内容であり、載せておきたい。
『神籬(ひもろぎ)について
この1画の小字名である「ヒモロギ」は、神祭りの施設で神霊の降臨する依代(よりしろ)であった「神籬」に由来すると考えられる。
「日本書紀」の崇神天皇6年条に、豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこ)をして天照大神(あまてらすおおみかみ)を「倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭る。依りて磯堅城(しかたき)のの神籬を立つ。」とあり、神籬が神祭りの古い形式であったことが分かる。
この場所に神籬を設け神霊をお迎えして、神祭りが執り行われたのであろう。
一帯は、邪馬臺国の有力候補地である纒向遺跡に含まれ、倭笠縫邑と伝承される檜原神社にも近く、古代祭祀を考える上で、注目される』
三輪山も、近づいて来た。
前回は、歩くのに夢中だったから、周りの景色は、目にはいらなかった。