かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

ビートルズ三昧

2016年06月25日 | The Beatles

今日は、ビートルズ三昧。

三昧というだけあって、まさに三本立て。



最初は、パルコ3で、時限開店しているGet Back さん。
原宿に店を持っていた時は、よく行っていたが、通販専門になってからは、サイトを時々覗くぐらいで、すっかり、ご無沙汰している。
何年振りかで、店を見にいったが、マニアから見ると、目新しいものは、少ない。
読んでない本が、あったので、1冊ゲット。



渋谷から、中野での、ロバート・ウィテカー写真展へ。



なかなか立派な看板。



今日から、9月までやっているが、今日、オープニング・イベントがあった。



3階が、写真展会場。
正直、見たことがある写真群ということで、目新しいものはない。
メモラビアも展示されているが、すごいというものはない。
ビートルズ初心者向けの展示と言える。
綺麗に、展示されている。

1階が、グッズ売り場。
広くて、充実しているが、これも、Let It Be の通販で売っているものが基本。
ビートルズのサインも売っているが、とんでもない値段。
一点ものも若干あり、見たことがないジョンに関連するリバプールの写真集があったので、1冊ゲット。

そして、目当てのイベント会場は、2階。



最初は、キャバーンクラブの、音楽プロデューサー兼ミュージシャンの、ジョン・キーツさんのアコースティックコンサート。
繊細というより、迫力のある歌い振りで、自然と、ジョンの、曲が多くなる。
リズムギター的奏法ながら、ストロベリーフィールズなど、ややこしい曲も、ちょっとアレンジを加えて、心地よく聞かせてくれる。
10曲ぐらい、30分ぐらいだったろうか。
キャバーンクラブから、直接サウンドを届けてくれたという感じで、よかった。



そのあとは、やはりリバプールのビートルズストーリーの、館長さんの、ご挨拶。
正統派の、ビートルズと、リバプールへの思いのこもったご挨拶だった。



第3部は、お目当の、ジョンの妹である、ジュリア・ベアードさんの、トークセッション。

冒頭は、リバプールの話。

リバプールが、イギリスの中でも、人気の観光都市であることと、キャバーンクラブが、バッキンガム宮殿より、人気があることを知った。
リバプールに、行ったことある人は?と、質問したら、半分以上行ったことがあるということで、ビートルズファンは、かなり行っている人が、多いようだ。
毎年8月に行われるビートルズフェスだが、2017年は、サージェントペパー50周年ということで、特に盛大に行われるとのこと。

そして、ジョンの思い出話だが、流石深い。
ビートルズ関連の本に出てくる前の、聞いたことない話が、たくさん、飛び出した。
父親が違うし、ジョンは、ミミおばさんのところにあずけられていたから、あまり接点はないのかなと思っていたのだが、とんでもない。

実母のジュリアは、音楽好きで、バンジョーの弾き方をまず、ジョンに教えたし、バンドを組むようになって、練習場所を提供したのも、ジュリアだったという。
それだけに、ジュリアが若くして事故死したことの、ジョンのショックは、相当大きかったはずだ。
スキッフルバンドの写真に出てくる、ベースの、仕組みが、わからなかったのだが、下は、お茶の輸送に使う茶箱で、それに、モップの柄を立てて、紐をはるのだそうだ。
洗濯板が出てくるのは、ご案内の通りだが、指ぬきのようなものを使って、音を出すとのこと。

ポールと出会ってからは、ポールも、ジョンの家に、入り浸りだったという。
最初、キャバーンクラブに出た時は、全然だめだったそうで、それは、キャバーンクラブが、元々ジャズクラブだったからという。
ポールと出会った教会でのフェストの、ステージで、ロックが演奏されたのも、初めてだったという。
彼らの音楽は、当時から最先端だったということだ。

1964年のクリスマスに、ジョンに、妹といっしょにコンサートに招待され、ステージの脇で見るよう言われていたのに、客席前方で、見ようとしたら、コンサートが、始まるやいなや、群衆が、前に押し寄せてきて、恐ろしい目にあったという。
ジョンの言うことを最初から聞いていたら怖い目に合わなかったという話。

ビートルズとエルビスのアセテート盤は、必ず送られてきていたそうで、聞いたものも、聞かなかったものも、あったが、引越しを重ねる中で、無くなったものも多いそう。
当時は、まだ、メモラビアが注目されておらず、残念なことをしたということだった。
本類は、茶箱に入って、ほとんど残っているという。

Q&Aでは、、ジョンの亡くなる数週間前、おばさんの話をしたのが、最後だったこと、やはり、シンシアが亡くなる数ヶ月前に、電話で長話したが、全然元気だったことが、明かされた。
ジュリアという曲があるが、親戚には、ジュリアがたくさんいて、どのジュリアのことかはわからないが、大好きな歌だという。もちろん、一番は母親だろうが。

最後に、著作本に、サインをいただいた。
英語も分かりやすく、話もまとまっており、聡明な方という印象だった。



中野から、また渋谷に、戻って、星加ルミ子さんの、トークショー6回シリーズの、最終回へ。
今日の、ゲストは、写真家の、長谷部宏さん。
本名は、やすひろ?さんだが、外国人にも分かりやすい名前ということで、星加さんが、命名したのだとという。
それにしても、名コンビ。
漫才のようだ。ボケは、コーさん。

コーさんは、元々、映画雑誌の専属カメラマンだったが、独立して、パリに住んでいた時に、日本から、カメラマンを連れて行くと、コストがかかるということで、最初の、突撃取材のカメラマンになった。
その後、立場はフリーだったが、シンコーミュージックの実質専属カメラマンになった。
映画スターを撮影してきた経験が生きたという。
確かに、限られた時間内に、あれだけの、名ショットを残した腕は、ただ者ではない。
彼曰く、コーさんの技術と、星加さんのキャラの合わせ技という。

秘話もたくさん。
来日時は、、いつ取材許可が下りるかわからず、ずっとホテルで待機。
であるから、部屋の中以外の写真は、コーさん以外のカメラマンが撮ったもの。
コンサートの写真がないと、記事にならないから、コンサートの写真を撮ろうとしら、許可がおりず、結局、スタンドから、隠し撮りしたのだと言う。
誰かが騒いで、警官が、そちらに気を取られた隙に撮ったいうから、本格的な、隠し撮り。
堂々と掲載された。
ビートルズ側の事前検閲は一切なかったという。
信頼されていたということかもしれない。
会場では、三島由紀夫さんと話したというが、仲代達矢さんと一緒で、仲代達矢さんは、何とコーさんの親戚だと言う!

公演後、星加さんは、プロモーターの、永島さんに謝りに行ったという。
永島さんは、エプスタインに言われた通り、取材を全て拒否したのに、ミュージックライフが、堂々と取材したため、立場を無くしていた。
終わったこととして、快く、許していただいたそうだ。

シカゴでは、星加さんが、エレベーター前で、倒れていると連絡を受け、コーさんが、まだ、販売時間前の、ワインをバーでもらって来て、気付け薬として飲ませたという。

最後のキャンドルスティックパークでの、コンサートでは、コーさんには、プレスパスが供給されず、星加さんのパスを使って、勝手に、スタンドで、写真を、撮りまくったという。
星加さんは、ずっとステージ脇にいたから、パスはいらなかった。
その後の打ち上げパーティ時に、星加さんにカメラを預けて、大失敗した話は、星加さんからも聞いた。

フールオンザヒルの録音に立ち会った事件では、オノヨーコさんを隠し撮り。
後から、ヨーコさんに、出会った直後の、記念写真として、欲しいと言われ、贈呈したという。
当時は、日本人とは気づかず、インド人か、中国人と思ったらしい。
日本人とわかったのは、帰国後の報道から。

オノヨーコさんと、星加さんの話がまた出た。
郡山のコンサートの時、オノヨーコさんとのインタビューがあり、その頃、仲は修復していたのだが、大島渚さんをインタビューアーにしたところ、明治時代の預言者の話など、ちんぷんかんぷんな内容になり、たいへんなことになったという。
星加さん曰く、最近のヨーコさんは、まともになったとのこと。

コーさんは、星加さんからは、自分も入れた写真を撮ってといつも言われていたが、星加さんに言わせると、自分が入っていないと、自分の取材とわからないからということだった。
それは、そうかもしれない。

とにかく、目から鱗の、逸話の数々。
コーさんの、日本のロック人気に対する貢献の大きさを、改めて実感。

一番好きな写真は?との、質問に、フールオンザヒルを作っている時の、ジョンとポールとの答えだった。
これには、皆納得。
コーさんは、この時初めて、彼らの才能を、感じたという。
それまでは、たまたま人気が出たグループのイメージだった。

トークショー後、コーさんの、ビートルズの写真集に、サインをいただいた。
楽しい話を、ありがとう、コーさん。

星加さんのトークショーを、さらに、6回やることが、決まったという。
スケジュールが、許せば、また、お邪魔したい。
そう言えば、またリンゴが、来そうなことを行っていたが、もし、実現すれば、そちらも、マストだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Music Life ザ・ビートルズ日本公演1966

2016年06月24日 | The Beatles



イギリスがEU離脱することになった。
戦後ずっと続いてきた、グローバル化、EU統合の方向が今後変わっていくのか、どれだけ、経済的な影響があるのか、イギリスが分裂するのか、まだ影響はわからないが、何か、さびしい。

ついに、大御所ミュージックライフさんの特別号も出た。
久しぶりの総力特集で、読み応えあり。
写真も充実しているし、インタビューも充実。
驚いたのは、正攻法で、申し込んで、3回も、公演を見た方のインタビュー。
一般人では、最多ではないか。
今は、切り絵作家をされているとのことで、ビートルズのアルバムのジャケットをモチーフにした作品も作られているようだ。
この方も、来日公演で、人生が変わった人に一人だろう。

今回は、 なかなか載らないポールのシェーの写真も載っていた。
カメラ目線じゃないところが、なかなか掲載されない原因かな。

最後は、日本盤特集。
これは、たぶん他の資料とかぶるが、綺麗にまとまっているから、まぁいいか。

ビートルズ来日公演関連の本としては、一番、ジェネラルな本。
初級者、中級者にお勧め。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

All You Need Is Love

2016年06月23日 | The Beatles



予約していた豪華本が届いた。
今更という感じもあるが、立派な本。
1000部限定とあるが、これは、そのうち968番。
初版であることは、各所で強調されているので、そう売れるとは、当初から思っていないのだろう。
確かに高い。

見たことがない写真が満載。
かつ、当時のサイケなデザインが、あふれていて、アート的にもハイレベル。
写真集というより、アートと捉えた方が、いいかもしれない。

著者は、ポールスケレットさんと、サイモンワイツマンさんだが、名コンビのようで、ハチャメチャなようで、当時の雰囲気をよく現している。
著者のサイン付き。

この衛星放送は、まさに49年前の6月25日に行われた。
来日公演の1年後だ。
私は、小3だったわけだが、まだ朝早く起きれなくて、日本からの中継で、竹が写っていた記憶のみがある。
定かではないのだが、当時の中継を、通しで見れたら確認できるだろう。
アビーロードスタジオからの中継は、日本の真夜中だったろう。
私が見た時には、ビートルズの生演奏の放送は、既に終わっていたことになる。

亡くなる寸前のブライアンエプスタインも、たくさん写っている。
自分の手から離れつつあるビートルズをどういう気持ちで、見守っていたのだろうか。
先入観からかもしれないが、表情が、やや暗い。

ジョージがトランペットを吹いてたり、ジョンがアコーディオンを弾いていたり。
ジミヘン、ブライアンジョーンズなど、若くして亡くなったミュージシャンの写真多数。
各国で、シングル盤とした発売された時の、ジャケットも多数。

アート的にも、記録的にも、すばらしい逸品。
値段を考えれば、当然、マニア向けだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビートルズ 復活祭スペシャル

2016年06月22日 | The Beatles



今日は、六本木EXシアターで行われたビートルズ復活祭スペシャルに、行ってきた。
ファンクラブ設立50周年お祝いイベントのようなもので、復活祭の名は、かってこの名で、ビートルズシネクラブ時代に、映画の撮影会を中心とした催しが、行われていたことによる。
1ミュージシャンのファンクラブが、50年続くというのは、驚嘆に値する。
彼らの音楽の素晴らしさが、図抜けていることもあるが、運営しているスタッフにも、敬意を、表したい。
ポールが、現役で、元気なおかげも、あるだろう。



去年キャバーンクラブで見たキャバーンビートルズの出演が、セッションズ中止の煽りを食って、キャンセルになり、心配したが、盛況。
最後は、ほぼ満席だった。
グッズ売り場も盛況で、来日50周年記念特製Tシャツを、ゲット。



リンゴ、オリビア(故ジョージの奥様)、ジャイルズ(故マーチンの息子)の、花。 本人たちが、どれほど、認識しているかは、不明だが。
ヨーコ、ポールの花はないのか、と突っ込むのは、やめておこう。



会場は、もちろんビートルズファンばかりで、愛と平和にあふれている?
席も、前から、3列目で、最高。
ほぼ、かぶりつき。

構成は、3部構成で、第1部は、30年前の復活祭で、放映された映画の、リマスター映像の放映。
コンサートの映像は、1回目と2回目のものが、残されているが、そこから、数曲と、関係者へのインタビュー。
インタビュー自体も、30年前の物だから、今となっては貴重。
チョースケさんのが、おもしろかったが、永島さんの、エプスタインとの交渉の話などが資料としては貴重だろう。
加山さんの話は、その後の座談会で、高島さんから、早速、記憶違いとして、指摘されてたけど。
20年経った時点でも、記憶違いが、既にあったことがわかる。

第2部は、当時の関係者の座談会。
横尾さんは、骨折とかで、ドタキャンだった。
前も、そういうことがあったが、仮病じゃないよね。

当時の関係者と言っても、最年少の倉林さんは、同い年。
何と、小2で、武道館に行ってる!
叔父が、読売勤務で、券が4枚あり、兄と行こうとしてたところに、加えてもらったのだという。
記憶は、ほとんどないが、警官が、やたら多くて怖かったのと、嬌声が、うるさかった記憶のみあるとのこと。
そんなもんだろう。
テレビ朝日に入って、今は、会場の、EXシアターの支配人を、やってる。

1名を除いて、武道館に、実際行かれているが、音が、聞こえた人と、聞こえなかった人と半々。
席によって差が、あったのかもしれない。
言えるのは、当時、PAシステムがなくて、アンプの音そのもので、ドラムに至っては、生音しかなかったことだ。
それでは、聞こえにくかったのも、もっともだ。

行けなかったかわぐちかいじさんは、尾道で、テレビを、かじりつきで見て、オープンリールの、、テープレコーダーで、録音したという。
彼の漫画は、ネットでの評判が悪く、読んでいないのだが、ビートルズの絵を描く権利が認められず、当初の構想通りには、描けなかったということだ。
その辺、もっと緩やかでもいいんじゃないかな。
LOVEがOKなのだから。

石坂敬一さんは、体が、お悪いようだったが、ビートルズへの思いは、人一倍。
私自身、混乱していたのだが、我々が、よく知ってる石坂さんは、お父さんで、親子で、東芝EMIの専務をやられたということを初めて知った。

宮本幸一さんも、武道館公演に行って、人生が変わった人の1人。
その影響から、放送界で、活躍することになった。

高島弘之さんは、その石坂さんのお父さんと、加山さんと、3人で、ビートルズに会いに、ホテルに行ったのだという。
最初、ジョンがいなくて、後ろからこっそり近づいてきて、加山さんを、後ろから、羽交締めにしたという。
星加さんの話にも共通する、ジョンのいたずら好きな側面が、現れている。

第3部は、トライセラの和田さんと。お馴染みラブサイケデリコの、コンサート。
バックバンドも見たことがあるなと思っていたら、ジョンレノンスーパーライブの、トリビュートバンドの面々だった。
全部で、20曲ぐらいだっただろうか。
原曲に近いアレンジのものと、かなり編曲してあるものとがあったが、とにかく上手い!
テクニックが、最上級の上に、ビートルズの曲を、完全に、自分のものにしている!
否が応でも、盛り上がる。
NHKでも、放送されるし、行けないが来週の名古屋でも、演奏するそうだ。
今月は、自分の曲を歌う機会がなく、ビートルズの歌ばかりとのことだった。

ということで、盛り上がるか、ちょっと心配だったが、大盛況の内に、幕を閉じた。
行って良かった!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビートルズと日本

2016年06月21日 | The Beatles



本書は、実は、まだ全部読んではいない。
ただ、ビートルズ来日50周年が近づいてきて、行事も目白押しなので、取り急ぎ、ご報告。

まぁ、正直マニアック。ビートルズマニア以外には、Too Much だろう。
ビートルズファンには、是非一冊という、凝り様。
新聞100年分、週刊誌6400冊から分析したというから、看板に偽りなければ、これ以上の資料は出ないということだろう。

パラパラめくると、来日時だけではなく、1962年から、1970年に、日本で、報道されたニュースを、時系列で、掲載してある。
正直、これでモレがないかと言われると、検証の手段はないのだが、知ってる限りのニュースは載っている。

最初の記事は、1962年4月20日に、日本で、マイボニーが出ていたということ。
ほとんど売れることなく、廃盤になったとあるが、現物は確認されておらず、真偽は不明。
6/6に、船村徹氏がオーディションを見学との記事もあるが、これも真偽不明。。
1963年になって、糸居五郎氏が、オンエアしたとあるが、この辺が、本当のところ?

一方で、最後は、1970年12月、クリスマスのイベントの記事だ。
既に、ポールが脱退声明を出した後であり、過去のグループを、総括するような内容だったらしい。
ちょっと戻ると、何と、同じ1970年の12月4日に、仙台の日の出劇場で、イエローサブマリンがロードショーだったという。
こんなに遅いロードショー?
この時期、仙台に住んでいたが、レットイットビーの看板ばかり印象に残っている。
本書によると、レットイットビーの方が、封切りが早かったという。

今から40年以上の話で、何でもありの時代だった。
私は、とても、劇場で、放映できるような質ではない映画を何度も見た。

やや厚い本だが、まずは、一読したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする