北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

ワインの錬金術

2006-11-23 22:42:08 | Weblog
 札幌の朝は5センチの積雪で、今冬一番の雪となりました。もっとも、まだ日中が暖かければ融けてしまう程度の雪ではあります。

 今日は支笏湖周辺へドライブです。

【現代の錬金術】
 今日はドライブの一日だったのですが、その最初の目的地は金の鉱山でした。

 そこは明治以来の金の鉱山で、昨年まで道内でただ一カ所残った採掘現場だったのですが、地震の後に地下の坑道に水が出るようになり、採掘を諦めてしまったのだそうです。

 金の鉱脈というのは、岩盤の裂け目に地下から温泉が湧き出して、そこに石英質の岩が成長することで金を含んだ鉱脈になるのだそうです。

 昔の金山衆と呼ばれた一団は、そうした金の鉱脈が沢筋などに露出したところを探して、その鉱脈に沿って彫り込んだということなのだとか。目利きが見ると、お宝のありかがすぐにわかるのです。

 さて、水没の結果金の採掘を諦めている鉱山ですが、せっかくの施設をインフラとして何かに使えないものかと考えた会社の社長さんが思いついたのが、「この坑道をワインセラーに使えないか」というものでした。

 金の坑道は、夏でも冬でも中の温度が10℃前後で、湿度が70%程度と、季節によって余り変化しないのが特徴なのだそうで、その条件がワインの貯蔵には最適なのだそうです。

 ある知人を介してそんなお話を聞いたので、今日はこの鉱山の社長さんに案内してもらい、その現場を見せてもらうことにしたのです。

 待ち合わせをして道案内をしてもらった現場は、国道から少し入ったところにありました。こんなところで金が採れていたなんて。

 ヘルメットと合羽を借りて、中へ入ってみると、今日の外は厳しい寒さだったのに、坑内はほんわか暖かです。気温は9℃で湿度は75%でした。

「この坑道が、マイ・ワイン・セラーにどうかと思っているんです」とはこの会社の社長さん。
「マイ・ワイン・セラー…ですか?」

「そう、子供の誕生日だとか結婚記念の年だとか、記念になる年のワインを買って、ここに有料で保存して差し上げるんですよ。一度に何本かロットで保存されると、10年、20年後に瓶熟成されたワインを楽しめるというわけです」
「なるほど、子供の生まれた年のワインを買い貯めておいて、成人式に20年もののワインとして飲んだり、結婚式に振る舞うとかいうわけですね」

「もちろん、そういう楽しみ方もできますし、それ以外でもご自分で買い求めたワインをここで貯蔵してあげられます。坑道のスペースは広いですから、いくらでもスペースを使うことができますよ。できればレストランなども開きたいと思っていて、マイ・ワインで食事を楽しめるなんて面白いと思いませんか?」
「レストランまでやるとなると、表の道路の交通量や周辺環境の魅力にも影響されると思いますが、金や銀の採れた鉱山で熟成されたワインというのはここにしかない、独特の可能性を秘めていますね」

「私達も、明治以来これまで金や銀を採掘してきたこの鉱山の歴史や施設がもったいないように思っているんです」
「最近は産業観光などという言葉も出てきたくらいですからね。なるほど、少し勉強してみますよ」

 全て道内産のブドウからできたワインが、金銀の鉱山で熟成されてその価値を増すというのはなんとも面白いではありませんか。北海道の歴史ならではの話題がそこにあるのですから、これを上手に活かしたいものです。

「ところで社長さん、原料の鉱石から金はどれくらい採れるものなのですか?」
「優良なもので、原石1トンから金が40グラムくらいですね。それくらい採れると、商売になるという感じですよ。もっとも、国内の精錬は九州でしか行われていないので、原石を採取しては苫小牧で船を一艘チャーターして、ピストンで苫小牧まで運び、そこから九州まで運んで商売にしていましたけどね」

「なるほどねえ」
「ところで、金は、最近は携帯電話などの精密機械に電気の伝導率が良いと言うことで随分使われているんです。携帯電話1トンから金がどれくらい採れると思いますか?」

「ううむ、原石の半分の20グラムくらいですか?」
「それがなんと、原石の10倍の400グラムも採れるんだそうです。ですからいまでは使い古しの携帯電話の争奪戦だそうですよ。時代も変わったものです」

 さて、ワインが金を生む錬金術は成功するでしょうか。これもまた面白そうです。

 ドライブの最後は、支笏湖と同じ水位の秘湯丸駒温泉でリラックスです。
 
コメント (2)
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【番外編】「発信スキル」のご意見へのお答え

2006-11-23 22:32:10 | Weblog
 「発信するスキル」でこちらから問いかけをしたところ、日頃から意識の高い方からはいくつかの反応が返ってきました。

 コメントでお返しできる分量ではなかったので、本編にてお答えしたいと思います。ご意見ありがとうございました。長文ご容赦です。
 
【Hiroさんからのご意見について】
 「…しかし、何分浅学非才の身で質問の組み立てを考えている内に早々打ち切られたり、今日は良い質問を考えたぞと思えば質問の時間が取られなかったり、うまくいかないものです。最初の質問は中々出しにくいものでもありますので、主催者側は「やらせ」でなくて、一つ二つ口火を切る質問を頼んでおくと、そこを切り口に活発な意見交換が始まるケースが良くあります。参加者、主催者両方の立場で意識したいと思います」

 Hiroさん、ありがとうございます。一度や二度のすれ違いにめげず、その一瞬、一瞬が勝負だと思いましょう。

 主催者の側が誰か口火を切るサクラを用意するというのは今流行の「ヤラセ」とは意味が違って、聴衆に優しい現実的な良策だと思います。榛村さんが市長当時は、まず自分から率先して口火を切る質問をしていましたよね。あれこそが実践者としての姿であって、今の私にとってもお手本になっているのです。

 最初の質問をするのは恥ずかしい、ということですが、私は逆に、とにかくやり続けてみることで「あいつは一番に質問をする奴だ、と思われる」という型を作ってしまうのが良いと思っています。

 一番に手を挙げることを繰り返していれば、いつしか「ああ、またあいつか」と、思われるようになることでしょう。もっともそのデメリットは、どうしても手を挙げられずにいると「あれ?あいつは今日はどうしたんだ?」と思われることでしょうか。まあ、それくらいはご愛敬でしょうがね。


【yashiyashiさんからのご質問について】

************【yashiyashiさんからの質問】****************
こんばんは
小学校の3年生を担任しております。
子供たちには、いつも考えを持たないこと考えないことは恥ずかしいこと、そして伝えないことはとてももったいないと話しています。だから、自分のクラスでは手を挙げない子は一人もいません。時にはありますが・・・。

 というわけで自分も講演(人数が数百人いると尻込みしますがあまりにも目立つので恥ずかしさが・・・。)や授業を見させて頂いた時は、必ず礼儀として意見を述べさせていただきます。それがせめてもの礼儀だと考えます。

 子供にもそうしていますし、後輩にもそう伝えて話せ話せとせきたてます。だから自分もそうするのです。

 このような子供に育てているつもりですが将来どうなるかは未知数です。ただ、礼儀とか相手の気持ちとか考えることの大切さは学級経営の土台としてもっていますし、忘れることはありません。
 ただ、講演した後、質問がでないと寂しい限りですがそれを求めるとなるとまた違う気もするのです。

 子供たちにはそのように伝え自分もしますが、求める物ではない気がします。質問していただければさいわいですぐらいでしょうか。
 もう一つ言えることは、自分もそんな教育は受けていませんが、自分の学校で教えられました。ある先輩からです。大人になろうがなるまいがそういうことが大切であることを伝えていくことが必要なのだと思います。

 では、質問させていただきます。

 毎日のブログをこれだけの量、そして質を保ちながら続けていく秘訣をお聞かせ下さい。
 よろしくお願いします。

************【以上、yashiyashiさんからの質問】****************

 yashiyashiさん、今晩は。コメントご参加をありがとうございます。

 ご意見を読んでいて、yashiyashiさんの人生に立ち向かう姿、生き方のマインドはまさに私のものと同じだと感じました。良き先輩に恵まれて、そのよろしき薫陶を受け、自分のものとして実践し、それをご自身の学級経営の土台とされておられるご様子も立派です。
  
 こういう先生に日々見守られている子供達は幸せですね。今はその価値が本当には分かってはいないかも知れませんが。(苦笑) 
 さて、私が人生の師匠榛村さんから教わった大事なことの一つは、「大事なことは何回でも言うことだ」ということです。

 一度や二度言ったことがあるのでは不十分、「前にも言ったよね」は禁句、「まだ分からないのか」が当たり前、なのです。

 しかし「伝えたい大事なこと」も、同じ表現で言い続けると刺激も薄れますから、どうやって手を変え品を変えて、メッセージを発し続けるか、ということが重要なポイントです。

 間違うことが当たり前の子供達に、「間違うことは恥ではない。何度も間違うことでやっと間違えなくなるんだ。今の大人もみんなそうやって大きくなってきたんだ」と正直に言ってしまいましょう。
 そして、「そのかわり、いつかは同じ間違いをしなくなるようにならなくちゃな」です。

 さて、「ブログを高い質で続けられる秘訣を教えてください」という質問を受けましたが、大変核心を突いた質問です。

 答えのその1は、まず「続けることを覚悟すること」です。最初にこのようなブログ形式の情報発信を始めた時は、続けられるかどうかが分からなかったので、公表をせずに9ヶ月ほど書いてみる練習をしました。

 9ヶ月とにかく続けてみて、なんとか日々続けることだけはできそうだ、と確信できたときから公開をして、それ以来多少の空白はあるものの、続いています。続けるという覚悟が今は自分のなかにあるということでしょう。

 答えその2の「質と量」のうち、量は、多すぎると思っているのですが、「一行ごとに一行空ける」というパソコン画面ならではの書き方で読んでくれている皆さんに疲れを与えないように工夫しています。

 「質が高い」と評価してくださってありがとうございます。質の善し悪しは自分では分かりませんが、幸いにして、職業柄や自分の性格として人に会う機会が多いので、そこから自分の知らない実に多くの良い情報が得られます。

 ですからそんな良いお話しを自分だけのものにしておくのはもったいないことです。特に、良い話の中から、読んだ人が元気になって、心がふかふかに耕され、善の種が落ちた時にすぐに芽が出るようになってほしいと願っています。

 いつまでも読むに値すると思われるように祈りながらこれからも書き続けますよ。


【kawaさんからのご意見について】 

************【kawaさんからの意見】****************

 現在小学校5年生の担任をしている教員です。
 講演会後や授業を見させて頂いたあとに質問するということは、いろいろな面で大変意味のあることだと考えています。

 一つは、わからないことを教えて頂ける。
 二つは、それが他の人にとってもプラスになる。
 三つは、講演してくださった方へのお礼の気持ちを伝えられる。
 四つは、質問上手への道が開ける。
 まだまだありそうです。

 こんなにいいことばかりの「質問」なのに、参会者はどうして質問しないのでしょうか・・・。「日本人としての奥ゆかしさ」、質問の準備無く講演を聴く、「自分が質問しなくてもだれかがしてくれる」という責任逃れ、など理由はいろいろあると思いますが、私の頭をよぎるのは、「こんな質問したら、講師の先生、他の人がどう思うかな・・・」という「値踏みされることへの恐怖」です。

 「質問したい」「でもできない」「えーい、だめでもともと、質問だ!」そんな葛藤を繰り返しております。

************【以上、kawaさんからのご意見】****************

 kawaさん、ご意見をありがとうございます。

 私は人に会う機会が多いのですが、かつて大勢の人と会っている時に「きっとみんな僕の名前を覚えていなくて、思い出すのに苦労しているんだろうな」と分かっていながらどうすることもできずにいました。

 それがあるときに「もう自分がバカだと思われても良い」と覚悟をしました。そしてその時からひときわ大きな名札をつくり、人の集まる会合の時にはそれをつけることができるようになりました。

 それまでは恥ずかしかったのですが、知らない人に話しかけることも平気になりました。自分なりにさんざん悩んだ後の覚悟でしたから、なんとかやれています。
 
 最近、「武士道」という言葉をよく聞くようになりましたが、武士とは切腹することも含めて、武士として振る舞う覚悟のできた人種だと思うのです。

 現代社会に生きる私達に求められる振る舞いとはなにか、を考えて、自分の中で修練を積んで、その期待に少しでも応えられるように覚悟すること。 

 覚悟すること一つ取っても習練が必要で、ある日突然できるようになるなどということはないのだと思います。

 人生にはそうありたいと思わせる、見習うべきお手本が必要で、先生という存在は子供達にとって最も身近なお手本ですね。

 そんなメッセージを発し続けてくださいね。

コメント (4)
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