北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

つい観てしまう「あいのり」

2006-11-27 23:10:30 | Weblog
 そろそろ年末が近づいて、お酒を飲む機会が増えてきました。酒は飲んでも飲まれるな。毒になるか薬になるかも自分次第であります。

【つい観てしまう「あいのり」】
 飲んでも飲まなくても、家に帰るのはいつも夜11時くらいという私の生活です。

 最近はほとんどテレビを観なくなってのですが、月曜の夜についつい観てしまうのがフジテレビ系列の恋愛観察バラエティの「あいのり」です。

 家に帰ってご飯を食べながら、ほっと一息ついた頃に丁度やっていて、ついぼんやりと、それでいて案外引き込まれながら観てしまうのです。

 男女7人が海外を一緒に旅しながら、好きになったり好かれたり、互いの気持ちを不安に思ったりするようすを克明に追いかけて映像として見せることで、観ている我々の側はついつい感情が移入してしまい、「ガンバレー」とか「馬鹿!まだ告白するには早いー!」などと、傍目八目なヤジをテレビの前で飛ばしているのです。

 ごく狭い人間関係の中で、恋愛をするために集まった人たちという特殊な環境の下に置かれている人たちですが、ちょっとしたことが恋愛に発展して行く様々なスタイルが見られます。

 恋愛がいろんなことから始まるんだな、というのが見えて面白いとも思えます。


 ところで、江戸時代初期の陽明学者に中江藤樹先生という方がいて、この方がおっしゃるには、「人間が我が身を振り返って反省するときに一番大事なものは愛と敬を持つことだ」ということだそうです。

 論語には弟子の弟子の子游との孝に関するやりとりがあります。

 すなわち子游が「先生、考とはどのようなことでしょうか」と訊ねたのに対して、孔子先生答えて曰く「近頃の孝は、ただよく養えば良いということのようだ。それならば、犬や馬を飼うのでもみなよく養っているではないか。親を敬うという気持ちがなかったら、何で親と家畜の区別をしたら良いのかね」と答えられたのです。

 親と家畜をどう区別するのかとはまたきつい一言ですが、相手を敬うということなくして愛することだけでは動物と変わらないと言い切られてしまいました。

 男女の間も同じで、恋愛や結婚をするのに「愛」は語るけれど「敬」を語ることは少ないのではないでしょうか。

 愛する自分と愛される自分がいて、相手を敬い自分が敬われる。

 愛は湧き上がり燃え上がるような気持ちのうねりですが、同時にその気持ちが相手を尊敬し、敬うと言うことに通じているのかどうか、また自分は相手から尊敬されるに値しているのだろうか、そんなことを考えてみて、敬に確信が持てれば本物なのだと思います。

 我と我が身に振り返ってみても汗が出てくる思いではありますが、相手から尊敬されるに値する自分であるかどうかを、一日を振り返って反省してみてはいかがでしょう。

 たとえ今日できなくっても、我が身を省み続けることで何かに近づくことが出来そうな気がしますよ。

 もっとも「あいのり」に敬をもとめると番組としてはつまらなくなるかも。

 「恋は盲目」もまた人生を彩る経験として良いのかも知れませんからね。


 
コメント
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