ある調べもので松浦武四郎を調べていたところ、現在韓国に実行支配されている竹島(竹嶋とも)問題にも関係のあることが分かりました。
松浦武四郎とは、文政元(1818)年に伊勢(現在の松坂市)に生まれ、幕末から明治にかけて北海道の内陸などをアイヌ人と共に巡って地図を残し、蝦夷地を北海道と名付けたことでも知られる探検家です。
北海道には五度やってきましたが、探検をしながら目にした当時の松前藩のアイヌ人に対する仕打ちを批判し敢然と立ち向かった正義漢でもあり、とにかく北海道にとっては大恩人なのです。
彼の人となりは、拙ブログ2006年8月9日の「アイヌ人物誌を読む」をご参考にしてください。いや、痛快痛快。 こちら
※ ※ ※ ※
そしてその松浦武四郎は、安政2(1855)年に幕府の蝦夷御用係になる直前の安政元(1854)年と、元治2(1864)年、そして明治3(1870)年の3回にわたって竹嶋という島の図面を描き残しています。
ところがここで言う竹嶋とは現在の韓国領鬱陵島のこと。現在問題となっている竹島は当時は松島と呼ばれていて、このあたりがちょっとややこしいところ。
この竹嶋(現在の鬱陵島)へは、当時の松江藩の廻船業者が17世紀に70年余にわたって渡海を行っており、原版はその要請で作られたものを松浦武四郎が参考にして描いたものだろうといわれています。
現在の竹島に関しては、1905年に我が国の領土とする意思を閣議決定し、島根県の一部とされ、そこでのアシカ猟は昭和16年まで続けられたのです。
鬱陵島は、その後第二次戦争終結時にサンフランシスコ講和条約によって日本の領土ではなくなりました。しかし竹島に関しては、一時連合国総司令部からは日本領土から除外される文書が出されましたが、あくまでも領土の最終決定は条約によるものという認識はGHQの文書でも確認されていました。
その間韓国は米国に対して日本が権利及び請求権を放棄する地域の一つに竹島を加えるよう要求しましたが、「かつて竹島は朝鮮領土として扱われたことはなく、朝鮮によって領有権が主張されたとも思われない」という趣旨の回答(ラスク書簡)を行い、この要求を拒否。最終的に昭和27(1952)年4月のサンフランシスコ講和条約の発行に置いて領土が確定することとなったのです。
ところがそれに先立つ1952年1月に、時の李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込みました。
そしてそれ以降竹島は韓国によって不当に実効的支配を受けているというのが日本側の基本的な認識と主張です。
詳しい話は外務省の竹島問題のホームページが我が国の主張を余すところなく載せています。これに関しては日本が戦時中に占領したような事実はなく、日本国民としてもっと関心をもつべき問題です。
こちら → http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html
※ ※ ※ ※
さて、松浦武四郎は幕末に表した「他計甚麼雑誌」の中で「去夏外国船(墨夷赤狄)東西に滞船し国事が杞憂すべき状態にある」、特に「竹島は朝鮮と我が国の間にあり人が居住していないのでここに外国船が集まり山陰の諸港に出没すればその害は少なくない」と記し、また明治初期の「竹島雑誌」では「蝦夷、樺太、伊豆七島等に比して竹島はあまりにも知られていない」ということをこの書執筆の理由にしているのだとか。
領土に関してもっとも敏感であった時代の最先端の探検家の言葉をかみしめたいものです。
※ ※ ※ ※
(余談ですが)早くに亡くなった私の父方の祖父の名も『武四郎』と言います。何かのご縁があって、だから惹かれるのでしょうか。
松浦武四郎のお墓は東京都北区の染井霊園にあります。去年の9月23日にお参りをしていました。
→ こちら
松浦武四郎とは、文政元(1818)年に伊勢(現在の松坂市)に生まれ、幕末から明治にかけて北海道の内陸などをアイヌ人と共に巡って地図を残し、蝦夷地を北海道と名付けたことでも知られる探検家です。
北海道には五度やってきましたが、探検をしながら目にした当時の松前藩のアイヌ人に対する仕打ちを批判し敢然と立ち向かった正義漢でもあり、とにかく北海道にとっては大恩人なのです。
彼の人となりは、拙ブログ2006年8月9日の「アイヌ人物誌を読む」をご参考にしてください。いや、痛快痛快。 こちら
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そしてその松浦武四郎は、安政2(1855)年に幕府の蝦夷御用係になる直前の安政元(1854)年と、元治2(1864)年、そして明治3(1870)年の3回にわたって竹嶋という島の図面を描き残しています。
ところがここで言う竹嶋とは現在の韓国領鬱陵島のこと。現在問題となっている竹島は当時は松島と呼ばれていて、このあたりがちょっとややこしいところ。
この竹嶋(現在の鬱陵島)へは、当時の松江藩の廻船業者が17世紀に70年余にわたって渡海を行っており、原版はその要請で作られたものを松浦武四郎が参考にして描いたものだろうといわれています。
現在の竹島に関しては、1905年に我が国の領土とする意思を閣議決定し、島根県の一部とされ、そこでのアシカ猟は昭和16年まで続けられたのです。
鬱陵島は、その後第二次戦争終結時にサンフランシスコ講和条約によって日本の領土ではなくなりました。しかし竹島に関しては、一時連合国総司令部からは日本領土から除外される文書が出されましたが、あくまでも領土の最終決定は条約によるものという認識はGHQの文書でも確認されていました。
その間韓国は米国に対して日本が権利及び請求権を放棄する地域の一つに竹島を加えるよう要求しましたが、「かつて竹島は朝鮮領土として扱われたことはなく、朝鮮によって領有権が主張されたとも思われない」という趣旨の回答(ラスク書簡)を行い、この要求を拒否。最終的に昭和27(1952)年4月のサンフランシスコ講和条約の発行に置いて領土が確定することとなったのです。
ところがそれに先立つ1952年1月に、時の李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込みました。
そしてそれ以降竹島は韓国によって不当に実効的支配を受けているというのが日本側の基本的な認識と主張です。
詳しい話は外務省の竹島問題のホームページが我が国の主張を余すところなく載せています。これに関しては日本が戦時中に占領したような事実はなく、日本国民としてもっと関心をもつべき問題です。
こちら → http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html
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さて、松浦武四郎は幕末に表した「他計甚麼雑誌」の中で「去夏外国船(墨夷赤狄)東西に滞船し国事が杞憂すべき状態にある」、特に「竹島は朝鮮と我が国の間にあり人が居住していないのでここに外国船が集まり山陰の諸港に出没すればその害は少なくない」と記し、また明治初期の「竹島雑誌」では「蝦夷、樺太、伊豆七島等に比して竹島はあまりにも知られていない」ということをこの書執筆の理由にしているのだとか。
領土に関してもっとも敏感であった時代の最先端の探検家の言葉をかみしめたいものです。
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(余談ですが)早くに亡くなった私の父方の祖父の名も『武四郎』と言います。何かのご縁があって、だから惹かれるのでしょうか。
松浦武四郎のお墓は東京都北区の染井霊園にあります。去年の9月23日にお参りをしていました。
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