自民党選挙の結果、新総裁は麻生太郎氏が当選。連休明けには新しい総理大臣指名を受けることとなるでしょう。
衆議院選挙の時期も10月だ11月だと、巷間いろいろ言われていますが、国の行く先の重要な選択の時期が近づいてきました。重要な選択はなにが基準になるのでしょうか。
経済、食の安全、拉致問題、地方分権、年金、社会保険…。もはや複雑化した日本の社会には、善人と悪党がいるわけではありません。一人一人が多くの関係性の網に絡まっていて、快刀乱麻を断つような解決策もありません。
得るものと失うものを秤にかけて、新しい問題に一つ一つ真剣に取り組まなくては。
※ ※ ※ ※
文春新書から出た「ブログ論壇の誕生」(佐々木俊尚著)を読みました。

帯には「新しく巨大な言論の波 マスコミを揺るがし政治を動かし旧弊な言説を一掃する」とあります。
著者は「論壇とは古式蒼然とした言葉である。かつてはこの論壇は知識人たちが議論を戦わせる場だったが、こうした『公論』の場としての論壇は1990年代以降、ほとんど消滅してしまっている。教養という文化基盤の喪失と、社会の細分化がその原動力となった。
大学の研究者は自分の知的分野の範囲でしか論考を行わなくなり、一方で新聞やテレビのマスメディア・ジャーナリズムはステレオタイプな勧善懲悪に走り、論考を深める作業を怠った」と言います。
こうした紙のメディアがまごまごしている間に、インターネット空間に登場したのがブログ論壇であり、SNSであり2ちゃんねるのような掲示板とういわけです。
※ ※ ※ ※
論壇の起源は、17~18世紀頃の西ヨーロッパに遡ることができ、ドイツの社会学者ハーバーマスによると、そこでは
①討論への社会的地位は度外視されている
②それまで教会や国家によって当然とされた問題もタブーなく自由に討論が出来た
③誰もが自由に討論に参加できる、という基盤が存在していたといいます。
誰もが自由な立場で何でも議論できることが近代批評や近代市民を生み出したというのです。
しかしこうした近代の討論空間は、「誰もが討論する能力を持っている」というエリート等質性を前提としていることから、19世紀末の大衆社会になってからは等質性が崩れてゆきます。
その結果、知識人による学問領域と大衆の世論を集約する機能を持ったマスメディアの分野へと二分され、それが20世紀待つには分断されたままという状態になってしまいます。
そしてそれを、社会的地位の度外視、タブー無き言論、参加のオープン性という特徴をもったネット世界が再び統合したというのが著者の主張です。
そして著者は、このネットの論壇を構成しているのは、『1970年代に生まれ、就職氷河期を堪え忍び、格差社会にあえぎ、しかしインターネットを自由自在に操っているロストジェネレーションと呼ばれる世代なのだ』と喝破します。
このロスジェネ世代の新しい言論は、『古い世界の言論を支配していた団塊の世代と激しく対立し、その支配を脱却しようとあがき、そして今やそれを超えて行こうとしている』というのが著者の見立てなのです。
現に前回総選挙の小泉旋風のときは大手マスコミがこぞって小泉政権をこき下ろしたのに対して、ネットの世界では小泉氏に対する支持の声が飛び交い、結果はマスコミの希望的観測に反して小泉大勝利となりました。
編集権を行使して伝えたいことだけを伝えようとする旧来のマスコミに対して、一人一人の知を連携させてゲリラ的に闘争をしかける非対称戦争の勃発です。
本書では、毎日新聞が英文記事で低俗な記事を発信していた事件や、ネット百科事典のWikipediaの書き換え問題、民主党の小沢代表の動画を掲載して反論コメントを削除しまくって批判を浴びたニコニコ動画事件など、ここ数年間にネット論壇で起きた事件を扱いながら、その背景を解説してくれます。
※ ※ ※ ※
2ちゃんねるやSNSも含めた、いわゆるブログ論壇は、テレビのようにスイッチをつければ流れてくる情報とは違って、自らが一定のIT能力を持って自ら触れてみなければ分からない世界。
ネット上の若者たちの発言は意外なほど保守的で、リベラル派からは「ウヨ(右翼の略)」と呼ばれ、逆に左翼的な論を展開する輩は「サヨ(左翼の略)」と呼ばれ、激烈な意見が交わされています。
これらは匿名性に守られてただ罵りあうレベルの低い会話も多いのですが、その一方で極めて専門的で精緻な分析を行う論者も登場してまさに玉石混淆の世界。
石ばかりだと批判して離れるか、そこから玉を見いだそうとするのかは、一人一人の生き方の問題です。
既存メディアの裏側に広がる新たな公共圏の興味深いレポートです。
衆議院選挙の時期も10月だ11月だと、巷間いろいろ言われていますが、国の行く先の重要な選択の時期が近づいてきました。重要な選択はなにが基準になるのでしょうか。
経済、食の安全、拉致問題、地方分権、年金、社会保険…。もはや複雑化した日本の社会には、善人と悪党がいるわけではありません。一人一人が多くの関係性の網に絡まっていて、快刀乱麻を断つような解決策もありません。
得るものと失うものを秤にかけて、新しい問題に一つ一つ真剣に取り組まなくては。
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文春新書から出た「ブログ論壇の誕生」(佐々木俊尚著)を読みました。

帯には「新しく巨大な言論の波 マスコミを揺るがし政治を動かし旧弊な言説を一掃する」とあります。
著者は「論壇とは古式蒼然とした言葉である。かつてはこの論壇は知識人たちが議論を戦わせる場だったが、こうした『公論』の場としての論壇は1990年代以降、ほとんど消滅してしまっている。教養という文化基盤の喪失と、社会の細分化がその原動力となった。
大学の研究者は自分の知的分野の範囲でしか論考を行わなくなり、一方で新聞やテレビのマスメディア・ジャーナリズムはステレオタイプな勧善懲悪に走り、論考を深める作業を怠った」と言います。
こうした紙のメディアがまごまごしている間に、インターネット空間に登場したのがブログ論壇であり、SNSであり2ちゃんねるのような掲示板とういわけです。
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論壇の起源は、17~18世紀頃の西ヨーロッパに遡ることができ、ドイツの社会学者ハーバーマスによると、そこでは
①討論への社会的地位は度外視されている
②それまで教会や国家によって当然とされた問題もタブーなく自由に討論が出来た
③誰もが自由に討論に参加できる、という基盤が存在していたといいます。
誰もが自由な立場で何でも議論できることが近代批評や近代市民を生み出したというのです。
しかしこうした近代の討論空間は、「誰もが討論する能力を持っている」というエリート等質性を前提としていることから、19世紀末の大衆社会になってからは等質性が崩れてゆきます。
その結果、知識人による学問領域と大衆の世論を集約する機能を持ったマスメディアの分野へと二分され、それが20世紀待つには分断されたままという状態になってしまいます。
そしてそれを、社会的地位の度外視、タブー無き言論、参加のオープン性という特徴をもったネット世界が再び統合したというのが著者の主張です。
そして著者は、このネットの論壇を構成しているのは、『1970年代に生まれ、就職氷河期を堪え忍び、格差社会にあえぎ、しかしインターネットを自由自在に操っているロストジェネレーションと呼ばれる世代なのだ』と喝破します。
このロスジェネ世代の新しい言論は、『古い世界の言論を支配していた団塊の世代と激しく対立し、その支配を脱却しようとあがき、そして今やそれを超えて行こうとしている』というのが著者の見立てなのです。
現に前回総選挙の小泉旋風のときは大手マスコミがこぞって小泉政権をこき下ろしたのに対して、ネットの世界では小泉氏に対する支持の声が飛び交い、結果はマスコミの希望的観測に反して小泉大勝利となりました。
編集権を行使して伝えたいことだけを伝えようとする旧来のマスコミに対して、一人一人の知を連携させてゲリラ的に闘争をしかける非対称戦争の勃発です。
本書では、毎日新聞が英文記事で低俗な記事を発信していた事件や、ネット百科事典のWikipediaの書き換え問題、民主党の小沢代表の動画を掲載して反論コメントを削除しまくって批判を浴びたニコニコ動画事件など、ここ数年間にネット論壇で起きた事件を扱いながら、その背景を解説してくれます。
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2ちゃんねるやSNSも含めた、いわゆるブログ論壇は、テレビのようにスイッチをつければ流れてくる情報とは違って、自らが一定のIT能力を持って自ら触れてみなければ分からない世界。
ネット上の若者たちの発言は意外なほど保守的で、リベラル派からは「ウヨ(右翼の略)」と呼ばれ、逆に左翼的な論を展開する輩は「サヨ(左翼の略)」と呼ばれ、激烈な意見が交わされています。
これらは匿名性に守られてただ罵りあうレベルの低い会話も多いのですが、その一方で極めて専門的で精緻な分析を行う論者も登場してまさに玉石混淆の世界。
石ばかりだと批判して離れるか、そこから玉を見いだそうとするのかは、一人一人の生き方の問題です。
既存メディアの裏側に広がる新たな公共圏の興味深いレポートです。