北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

部分と全体

2008-09-10 23:19:49 | Weblog
 夜中にトイレに行こうとしたら、無造作に置いてあった鞄に右足の小指をしたたかにぶつけました。めちゃくちゃ痛い!

 黙っていてもじんじんしています。イテテテテテ…。こんなに痛い小指だったら取ってしまいたい、と思ったくらいです。

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 そうして痛む足を引きずりながらトイレに座って、横に置いてある安岡正篤さんの「一日一言」という本を何気なく開くと、そこに「礼と義」という話が出ていました。
 うーん、良い本はトイレに置いておくものです。

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    「礼と義」

 総(すべ)て生きとし生けるものはみな体を具(そな)えている。

 すなわち全体的存在なのであって、部分を雑然と集めたものではない。無数の部分から成り立っている全体である。

 この全体と部分、部分と部分との間柄が美しく調和している状態を「礼」という。私共の内蔵の諸器官ー胃とか腸とか、肺心臓というものが相依り相まって間然(かんぜん)するところのない健康は、我々の体内での礼である。

 そこで、自分にしろ、家にしろ、国家にせよ、全体を構成する部分が、その分本来の立場に於いて、あるいは他の部分に対して如何になすべきやを問い出退することを「義」という。義は宜(=よろしいこと)なりといわれる所以である。

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 例え痛い小指でも、それが自分という全体の一部である限り切り離すことは出来ない。

 国や政治も同じ。しばしば「地方の切り捨て」などといった言葉が聞こえてくるけれど、総ての地方が国や地域にとって切り離せない一部であるはず。

 勝ち組負け組といわれるけれど、それらもみんな全体の一部に他ならない。無くなって良いものはない。勝ち組には勝ち組の役割があって、負け組と言われたってそこには競って負けたこととは違う世界での役割がきっとあるはず。
  
 一人一人がいるからチームが出来上がるし、一人がいなくなればそれはもう元のチームではなくなってしまうのです。

 そう、この痛い小指も自分のもの…、うへ、爪が、爪がぁっ… 
コメント
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