今日の午後は、半日「北の大地を拓いた先人の"みち"」と題した講演会を聴いていました。
"道"そのものは、ふみ分け日から始まった通り道ですが、北海道に先住した古代人やアイヌの人たちによる「みち」に始まり、北海道にこれまで暮らしてきた多くの人たちの「みち」(山道、道路、鉄道など)の軌跡が残っています。
講演会ではこうした歴史的遺産を振り返りながら、北海道の成り立ちとこれからを探りました。
私の中では、えりも町郷土資料館の中岡館長の「蝦夷地 北方警備の道 猿留山道」の話が非常に興味深く思いました。
18世紀後半の1780年代に、蝦夷地は北方からロシアの脅威を感じていました。
そのため、当時はまだ地理も地形もよくわからなかった蝦夷地と北方の島々を調査する探検家が現れ、近藤重蔵、最上徳内などが今の北方領土へも渡って現地の様子を探りました。
1800年代からは、伊能忠敬と弟子筋の間宮林蔵による蝦夷地の海岸部の測量が形となってきたり、後には松浦武四郎が内陸部の探検に入り、詳細な様子を記録にとどめていますが、蝦夷地はこうした先人たちの歩みによってはじめてその姿が明らかになった土地でした。
今日の中岡さんのお話は、1799(寛政11)年にえりも岬をショートカットする猿留山道を開削したという記録についての報告でした。
この前年の1798年に、択捉島へ渡った近藤重蔵と最上徳内は、今の広尾町の海岸部の急峻な岩場を回避する山道を、アイヌの人たちを使って開削しました。
ビタタヌンケ~ルベシベツ間のルベシベツ山道がそれで、猿留山道はその翌年に、えりも岬の突端を避ける形で開削された道路です。
海岸沿いの断崖絶壁を潮の満ち引きや風雨、そして波にさらされながら咲江と進むのは本当に大変で、あまりにも大変な海岸沿いを回避して山の方へ迂回するのが山道というわけです。
猿留山道は、ハートの形をした豊似湖の南側を渡るルートで、現在は国土地理院の2万5千分の1の地図には点線でその存在が記されています。
今では当たり前に車を走らせる道路ですが、その昔は勾配も幅も現地成りで、おまけに維持管理だってまともにはできない中で、人や荷物の移動をする道路を確保するのは特に大変だったに違いありません。
猿留山道は今でも地元のボランティアの皆さんがときどき整備をしたりして、歴史を感じられるように活動してくれているとのこと。
機会があれば、いつか山道を歩いてみたいものです。
北海道の自然の大変さを想像しながら、今日の北海道の暮らしに至る先人の努力に思いをはせました。