物事を成し遂げるうえで大事なことはモチベーション=動機づけ・やる気、と言われます。
特に最近は、イントリンシック・モチベーションという、「内なるやる気・もともと備わっているやる気」というものを発揮させる教育が注目されています。
これと反対なのが、宿題や課題を与えられて、ひたすら叱咤されて鍛えられ、その結果成長するというやり方です。
今話題の日大アメフト部の中の鍛えられ方ってそういうことなのでしょう。
いや、いわゆる大学でも高校でも、運動部に入って一歳でも上の先輩であれば絶対的に従うような集団文化に身を置けば、そんな伝統的教育で鍛えられるのがごく当たり前の出来事。
人はこれを「体育会系」と呼びます。
一たび「体育会系」とレッテルを貼られたら、もう先輩や指導者のいう事には盲目的に従い、文句を言うことは許されません。
そうやって若い集団生活を終えれば、今度は先輩後輩の序列に基づくOBとしての生活が待っています。
一生先輩には頭が上がらないけれど、一生後輩には先輩面ができるという序列制度。そこには実力で逆転できる余地はありません。
どこかで首をかしげても、他の皆がそうだから、集団の同調圧力に逆らうことが次第にできなくなってゆく。
でもそれに従っていれば、就職の際は「厳しい戒律を耐え抜いて頑張った証」が得られて、とても有利になるというあたりは、もうこれが日大アメフト部に限らず、日本の社会システムになってしまっているようです。
考えてみたら、ブラック企業などというのも、今生一筋で会社のいう事を絶対視して働き詰めになるという意味で、「体育会系」の職場であり、それもまた一定の評価があったのでしょう。
ところがだんだんそうした価値観への反省やアンチテーゼが出てくるに至って、これまでの「体育会系」的価値観はどうなるでしょうか。
盲目的に指導者に従うことがなければ上手くいくのでしょうか。
教育は結果論なので、結果としてうまくいったことは認められるのでしょう。さて、自分はどんな教育を受ければ成長ができるのでしょう。
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さて、冒頭に触れた最近話題の「イントリンシック・モチベーション」ですが、一人一人の内なるやる気を引き出させることが大事、なんてずっと昔から言葉は違えど同じようなことが言われ続けています。
すぐに私の頭に浮かんだのは、ウィリアム・アーサー・ウォードのこんな言葉です。
凡庸な教師はよくしゃべる
良い教師は説明する
優れた教師はやってみせる
真に偉大な教師は、生徒の心に火をつける
生徒の心に火がつけば、「やれ」と言わなくてもやるし、「もうやめろ」と言われてもやめないかもしれません。
自分の周りに偉大な教師がいなくても、自分の心に火をつけることはできないでしょうか。
機嫌の悪いのは自分で直さなくてはなりません。
自分の心に火がついていなければ、自分でつけてみてはいかがでしょうか。
偉大な教師などという人が、おいそれとみつからないときのために。