パソコンに向かいながら、何気なく以前の「致知」を開いて、パラパラめくっていると、臨済宗円覚寺派管長である横田南陵さんの文章に目が留まりました。
本文のタイトルは「春は枝頭に在ってすでに十分」とは、戴益(たいえき)という宋代の詩人による「春を探る」という詩の一節。
終日春を尋ねて春を見ず
藜(あかざ)を杖突き踏破す
幾重の雲
帰り来たりて試みに梅梢を把りて看れば
春は枝頭にあって已に十分
詩の意味は、一日も早い春の訪れを待ち望んで、春の息吹を見つけ出そうと終日探し回った。藜の杖で、幾重もの雲を越えて探し回ってみた。
しかし春は見つからない。くたびれ果てて、わが庭に帰ってきて、ふと梅の梢を手に取ってみれば、梅の花がふくらんでいるではないか。
春はこの一枝にあって、すでに十分ではないか、というものです。
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横田管長は、若い時に真理を求めて修行に励み、幾度も「どこに真理があるのか」と探し求めて回ったといいます。
大学を出ては京都の修行道場に出かけられて、その間にもどこかに優れた禅師がおられると聞いては出かけて教えを乞うた、と言います。
師匠からは、「修業とは、無駄骨を折ることだ」と教わり、そのときは「そんな無駄なことをしないといけないのか」と不可解に思ったそうですが、今にして思えばまさにその通りだったと、納得しているのだと。
春は枝頭にありました
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昨日の釣りで、反省の釣りノートをつけました。
以前にも失敗して学んだはずなのに、釣り場に行く前に忘れていった道具がありました。
初めての釣り場では、何が必要かとか、どんな道具が使えるか、といったことに予想がつきにくいものです。
しかしそれにしても「これを忘れちゃだめだろう」というものもあって、全く頭がいっぱいいっぱいになっていたことに気づかされます。
港へ到着してからも、必要な所作や釣り方もおぼつかなくて情けない。
お隣の釣り師の方と話しながら得た新しい知識も、この先役に立つに違いないので、そういうことを記録しておくのが私の釣りノート。
横田館長が、師匠から教わった「修業とは、無駄骨を折ることだ」と教わったという一節が心に響きます。
無駄骨を恐れるな、これは修行です。