北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「発言する」というスキル

2006-11-21 23:29:25 | Weblog
 11月も末だというのに今日は雨。天気予報では、明日からは雨が雪に変わるとのことですが、どうかな。
 
【発言の仕方】
 一昨日中学校で「おやじの一言」をさせていただきました。

 幸い子供達はそれなりに感じてくれたようですが、壇上から「質問はありませんか?」と訊ねてもあまり反応はありませんでした。

 先生とは違う、普段見慣れない大人が来て、突然話を始めたのですから慣れるのに時間がかかると言うこともあるのかも知れませんが、それにしてもおとなしく感じました。

 こちらが話をしている最中は、真剣な眼差しを向けて聞き入ってくれていた様子が伺えていただけに、質問や意見がないのは少々残念に思ったのです。

 さて、所は変わって今日は職場で市役所の景観行政担当の方をお招きしての景観勉強会が開かれました。我が職場から約50人が参加して景観行政の最前線についてお話を聴いたのです。

 私も最後まで聴きたかったのですが、別の会議がぶつかっていたために中座せざるを得ず、残念の極みでした。

 そこで夜になってから、会議の様子を参加していた職員に尋ねました。

「会議の後で質問は出たかな?」
「はい、建築関係の方が一人質問をされていました」

「たった一人か…。それは情けないなあ、せっかくの機会なのになあ」
「そうですねえ」

 私自身は、①講義や講演を聴くときは出来るだけ前で聴きなさい、②講師の許しがあれば一問だけでも良い質問をして帰ってきなさい、ということを職場でいつも言っています。またそう言っている以上、自らも実践に心がけています。

 講演の後に質問の手が誰も上がらないときは「あれ?今日はこままささんは来ていないのかな、と思いますよ」と言ってくれる人もいますが、講演の後に会場から質問が来ないというのは、講師としてはいたたまれなくなる、という気持ちもあるのです。

 会場からの反応がないと言うことは、話が難しすぎたか、あまりに易しすぎたか、またはあまりにつまらなかったか、のどれかに違いないからです。

 音楽の演奏の後に「アンコール!」の声が挙がることが、演奏者に対する礼儀である、ということは多くの聴衆が常識として感じていることでしょう。

 講演や講義でも、質問をすると言うことは「アンコール!」と同じくらいの、講師に対する礼儀であるという常識や良識が育っていないことを感じないわけにはいきません。

 しかし考えてみると、自分自身も義務教育から高等教育を受けたなかで、そういう価値観について教えてもらった記憶がないのです。
 
 もしかしたら一度や二度は先生が言ったのかも知れませんが、そういう価値観を育て上げずに大人になってしまっていたのです。

 もしかしたらこれは学校における義務教育と家庭教育の責任なのかも知れません。しかし、今からでも遅くありません、気づいたときにこういう価値観を子供達に植え付けることに消極的であるべきではないと思うのです。

    *   *   *   * 

 日本では意見を述べたり質問をしたりする事への体系立ったスキルを教えることがありません。それもまた問題です。

 発言には幾つかの種類があることを知らなくてはなりません。

 私の経験としては、発言には「質問」と「意見」の二つがあるのですが、これらの区別がついていない人が案外多いものです。

 「質問」は自分の疑問を相手にぶつけて、相手に対して回答を求めるものです。

 これに対して「意見」は、要望や感想も含めて自分の主張を述べるもので、相手には必ずしも回答を求めないものです。

 良い講師の良いお話に出会ったときには、「この人なら、この私の疑問にどう答えるだろうか?」というような、わくわくするような楽しみを覚えることもありますが、会場の雰囲気や講演の内容に合致させつつ、さらにお話の興味の深いところを引き出すような良い質問をするには、質問を作るだけの「質問力」も必要になってきます。

 しかしそれはその必要性を理解した上で練習することで身に付いてくるものだと思っています。

 日本人は奥ゆかしいとか消極的と言われますが、どんなときでも自分の意見を述べるものだ、という価値観を幼いときから育て上げていないことが最大の原因ではないでしょうか。

 気づいたことは気づいたときから改善を始めるべきです。

 読者の皆さんはどう思いますか?特に読者の中に学校の先生がいらっしゃったら意見を訊いてみたいものです。

 いかがですか?
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地方都市での意見交換

2006-11-20 23:45:07 | まちづくり
 今日は職場の若手?集団で地方行脚。地方都市の現状についての懇談会なのです。
 
【地域懇談会で地方の現状を探る】
 今日は午後に、我が職場の中堅どころ8人が集まって、電車に乗ってある地方都市へと向かいました。

 いまわが開発局では新しい総合開発計画のとりまとめに向けて、さまざまな人たちと意見交換をしていますが、その一環です。

 この地方都市は、かつては産炭地として栄えたのですがご多分に漏れず、やがて炭坑は閉山になったまちです。

 しかし幸いなことに、炭坑の関連企業が精密機械の企業を設立させてくれました。それが今や、そこで作られる精密部品は国内の超優良企業へも納品し、ヨーロッパの企業からも注文が来るという企業になりました。

 製造業が弱いと言われる北海道にあって、極めて特筆すべき企業がこの農業町にあるというので、まずはそこを見学させていただきました。

 工場では最先端の精密部品の出来る姿を見せてもらい、社長さんや現場の部長さんと意見交換をすることが出来ました。

 内陸で人口もそれほど多くない町にいることのメリットやデメリットを伺ってみると、「やはり貿易港や成田空港から遠いことで、輸送に時間がかかることがありますが、それで困ることは年に1,2度でしょうか。強いて言えば光ファイバーが来ていなくて、通信事業者も引っ張る予定がないと言われています。詳細な図面などのデータのやりとりがしにくいのが難点でしょうか。デジタルデバイドを悲哀を感じてはいます」とのこと。

 またメリットは「あまり強力な就職先がないことで、地元の優秀な人材を確保しやすいと言うことはありがたいですね。また、転職すると言うことも少ないので職場で成長しながら、居続けてくれると言うことも助かります」とも。

 炭坑閉山がきっかけとはいえ、地方都市でもしっかりした企業が根を降ろせば、それに関連した周辺企業も揃ってくる実例を見ました。コアになる企業を誘致するということは地方にとっては大変大きなことであることがよく分かりました。

    *   *   *   * 

 その後は、この町の農業者の皆さんに集まってもらって地域の農業や町作りについて意見交換をしました。

 農家の皆さんたちの声は、やはりここ数年、年々農家所得が減っているというものでした。この辺りはお米農家が多いのですが、千俵も出荷する農家にとっては、一俵あたりの手取りが2千円減ると、年間収入は2百万円も減るわけで、農業に明るい展望が見えないと言います。

 そんな中、女性達が中心となって、地域の産物に付加価値をつけが加工食品として本州に売り込んでいる団体の女性リーダーにも来ていただきました。

「農協に頼るところもありますが、各個人が行動をはじめて、農作業よりも軽い労働でお年寄りでも働けてそれなりの収入につながるようにしたいと思ったのです」とも。女性達も農作業の手伝いだけではなく、女性らしい感性を商品づくりに生かし始めたようです。

 女性の感性と言えば、花卉(かき)産業は女性の感性の独壇場なのだとか。「札幌の市場では20代の女性が買い付けに来ます。彼女たちの感性に合う花を出荷して売れたときには嬉しいですね。これからは若い女性に受ける花から、年配者の好みの花まで、多様化するニーズをどう受け止めるかが課題ですね」というのは花の出荷組合の方の弁。

 農家が高齢化などで離農する姿は、皆さんが寂しく思っているようです。

 そこで「そうした離農した後の土地は、皆さんが借りることで農業規模の拡大と地主への収入につながるという事は出来ないのでしょうか?」と訊いてみました。

 すると、「売りたいという希望はあるのですが、貸し続けるということは一般的ではなくて、難しい雰囲気です。しかし売りたいという土地を買ってしまうとまた負債が増えるのでそれも辛いのです」という答えが返ってきました。

 掛川にいたときには、農業法人として小規模農家から土地を借り上げて大規模な米農業を成功させていたところがあったのですが、それぞれの地域の風土も重要な要素のようです。

 最後に、このまちの道の駅で「ふっくりんこ」というお米を売っていたので買った話をしました。

 するとそれを作っているという農家の方がいて、「これまでも粘りけのあるお米の品種が出ては消えるという歴史を繰り返していたんです。最近は『おぼろづき』が人気ですが、これももう少し様子を見ないとわからないと私は思っています。でもこの『ふっくりんこ』は消えませんよ。これが今一押しの銘柄ですから是非食べてみてください」という力強い意見が帰ってきました。

 ううむ、『おぼろづき』が美味いと思った先から今度は『ふっくりんこ』の登場です。こうなったらお米のご当地ブランド食べ比べを実行しなくてはなりますまい。

 我々は単なる「米チェン」のレベルではなくて、もう一歩突っ込んだ「ご当地米ブランド」作戦で行くとしますか。こうした一人一人の思いとその実践こそが北海道への愛着を本当に深めて行くのです。

 まずは『ふっくりんこ』の試食から参るといたしましょう。今日も多くの実りある一日となりました。参加してくださった地元の皆さん、ありがとうございました。 
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春風秋霜

2006-11-20 23:32:59 | 古典から
 今日の古典

 「春風をもって人に接し、秋霜をもって自らを粛(つつし)む」

 (訳)春の風のような優しさで人に接し、秋の霜のようなするどさをもって自らを律する

 常にこのような態度で接したいものですね。

 (佐藤一斎著 言志四録(二)講談社学術文庫より)
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おやじの一言~「善意のリレー」について

2006-11-19 23:38:23 | おやじの会
 今日はいよいよおやじの一言の時間です。ちょっとした子供達相手のミニ講演会だと思えば、人前で話すよい練習になるものです。
 
【おやじの一言】
 授業は朝九時からなのですが、一時間目の講師の集合時刻はその20分前。

 少し緊張しながら八時半に学校に到着しました。緊張して上靴を忘れたので、PTAのスリッパを借りました。恥ずかし~。

 講師控え室へ入ると、もうおやじさん達も集まっていて、会うのを楽しみにしていた近くの本屋さんの社長さんもお見えでした。私もかねがね「中学生はこれを読めキャンペーン」の噂は聞いていたのですが、直接お会いするのは初めてでしたので、お会いできて光栄でした。

    ※    ※    ※    ※

 さて、一時間目は一年生に対するお話しです。今回のテーマは、自分自身の骨髄提供体験を通じて、「善意のリレーを考える」という風にしたのは、一昨日お伝えした通りです。

 一時間目の担任の先生からは「うちのクラスの子供達は、おとなしいですけど理解力はありますよ」というアドバイスをいただいての登壇です。

 この授業では最後にアンケートと、講義に対する感想を生徒達に書いてもらうことになっています。

 そのため、本当ならば終業の10分くらい前に終わらせて授業の中で感想なども書いてもらうと全てが完結するのですが、一時間目は少し張り切りすぎて、50分全部を使ってお話しをしてしまいました。

 生徒達の感想も来週までお預けとなってしまいました。これは反省しなくては。

    ※    ※    ※    ※

 そこで三年生に対しての講義では、話の内容に濃淡をつけて、大事なところはじっくり、エピソード的なところは簡単に進めて、5分くらい残るようにして終えることができました。

 黒板に描くと分かりやすい図なども、一度一年生を相手にして実証しているので二回目はスムースに進みました。やはり家で一度練習するくらいのことをしないと、時間を考えながら分かりやすい授業をするというのは難しいのです。

 さて、今回は一連の体験を通じて、善意という「意志」を持つことの重要性と、その一方で自分自身の健康や医療水準、交通インフラなどの「能力」の両方が揃わないと、その善意も伝わらないということから、何につけ、これからの人生を生きて行く上での「意志」と「能力」を鍛えることを伝えたいと思いました。

 3年生は終わった後で控え室で休憩している時に担任の先生が生徒達の感想を集めて持ってきてくださいましたよ。

 中学校3年生とはいえ、文章を書くというのは力がいるもので、個人差がありますが、生徒達の感想は、概ね私が意図したことは伝わっていたようで安心しました。

 ある男子は、「自分に様々なリスクはあるけど相手側にとって見れば生か死かという世界。相手がもし骨髄をもらって元気になったら何をしたいかということを訊きたいと思う、けれど、もし自分が相手側の立場だったら移植して欲しいと思う。これから30万人といわず、50万、100万人の登録があれば良いと思う。自分も登録したいと思った」

「今までドラマや映画などで客観的に見ていたけど、現状に向かいあえた機会を与えてもらったことを感謝します」と書いてくれました。立派じゃないですか。

 またある女生徒は「自分が何かをして、それで人の命が救えるということは、とても大切なことだと思います。私はこれからしたいことがたくさんあるので命を落としてでも人を救うということはできませんが、少しでも他人のために何かをできればよいと思いました。今日はありがとうございました」と書いてくれました。

 【自分の命を落としてでも人を救うということはできませんが】というのがとっても正直で、それで良いのだと思います。

 それほど簡単な決断ではありませんから当然です。しかし世の中でこういうことがあるのだ、ということを感じてもらえたようで、頑張って資料を作った甲斐がありました。

 こういう反応を確かめることのできる、学校の先生という職業を少し羨ましく思いました。

 生徒の皆さん、君たちが今生きている社会とはこんなところです。

 信頼に値するところだと私は信じています。
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日ハム優勝パレード

2006-11-18 23:15:09 | Weblog
 朝の天気予報で、「今日の札幌は雪は降りませんが、紙吹雪が舞うでしょう」と言っていたよ、と娘からの連絡。

 旨いことをいうものではありませんか。
 
【日ハムの優勝パレード】
 なんと言っても今日一番の出来事は、日本ハムファイターズの優勝パレードでしょう。

 札幌では民放4社はもちろん、NHKまでもが特別番組でパレードの実況生中継を放送しました。

 パレードはセレモニーの後に午前11時からスタートし、札幌駅からすすきのまでの約1.3キロメートルで行われました。

 ヒルマン監督がオープンカーで先頭を走り、屋根無しの二階建てバスに選手達が乗り込んで、沿道を埋め尽くした観客に手を振っていました。

 なかでも新庄選手は、ブレスレットを手首にしてはそれをはずして沿道の観衆めがけて投げ入れるというサービス振りで、騒ぎに拍車をかけていました。

 駅前の道路はもう人、人、人で、テレビを見ていても普段見慣れている道路が人で埋め尽くされていました。

 主催者側の発表では沿道での人出は約14万人で、周辺のビルからの観客も含めると15万人を超える人出だったとのこと。

 カメラやビデオを抱えて手を振る人は熱狂そのものです。またいつかこんな日が来ることを信じて、日ハムをこれからも応援したいものです。

 とりあえずヒルマン監督は残留ということのようですが、小笠原選手をはじめとして、FAの声の掛かっている選手たちの去就が注目されるところです。

 がんばれファイターズ!来年も頼みますよ!

    ※    ※    ※    ※
 
 さて明日は朝九時からおやじの一言です。上手にお話しできるでしょうか。

 う~、不安だ…。
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おやじの一言の準備

2006-11-17 23:34:05 | おやじの会
 平地の雪は降っては解けるのですが、山はもう白くなりつつあります。だんだん雪が平地に降りてきています。
 
【おやじの一言の準備】
 明後日の日曜日は、中学校の日曜参観日なのですが、毎年このときに、中学校のご厚意により参観日三時間のうちの一時間を借りて、「おやじの一言」という授業をやらせてもらっています。

 各学年で一時間ずつということで、一時間目は1年生、二時間目は2年生、三時間目は3年生に授業をするのです。

 我が琴似中学校は、市内でも有数のマンモス校で、三学年で23クラスもあるのですが、おやじの会で講義をできるという人が案外少なくて、19人しか揃わなかったのだそうです。

 毎年現役のお父さんの参加が少ないというのが悩みですが、忙しいということもあって仕方がないことです。

 そこで足りない分は有志が二コマをもつことにしているのですが、今回は敢えてさらにおやじの会の外の地域に連帯の輪を広げて、学区内に住んでいて、お話しのできそうな方を外部講師として迎えることにしました。

 そうするとまた面白いもので、近所で「中学生はこれを読め!キャンペーン」という面白い取り組みをされているくすみ書房のご主人や、コミュニティFM放送の女性社長など、極めて面白い方達が参加をしてくださることになりました。

 これは私も自分の授業をしているよりもそちらのお話を聞きたいくらいですが、自分の担当の時間とかぶっている方もいて、それが残念です。

 今回私は1年生と3年生の二コマを持つことになりました。

    ※    ※    ※    ※

 さて、実際に自分のお話のテーマを見つけて、資料らしきものをつくり、50分全体のシナリオを作るとなると、これが結構大変です。

 今回私は、自分自身の骨髄提供の体験をテーマにすることにしました。これもなかなか得がたい経験だったと思うからです。

 しかし、さてそれでは、骨髄提供の何をどのようにして話をするか、ということを突き詰めて考えると、これが大変に難しいのです。

 このブログ「北の心の開拓期」では、7月31日からの五話連続でその顛末記をお届けしましたが、このときは約1万字、原稿用紙にして25枚の文章となったものです。

 しかしこれを中学1年生と3年生に話すとなると、難しすぎてもいけないし、さりとてただこういうことがありました、と思い出を話すだけでは聞いている方もつまらないことでしょう。

 この話のどこに焦点を合わせて、この話から何を得るのかをイメージしながら、全体の時間配分を考えて、子供達と少しは意見交換をする、と全体を構成しなくてはなりません。

 資料は、白血病について、骨髄移植について、骨髄バンクについて、手術について…など多くの内容をコンパクトなレジメとして、A4二枚にまとめました。

 骨髄提供は、登録できるのが18歳からで、提供できるのは20歳からということになっているために、中学生には直接的な行動に結びつくような内容にはなっていません。

 しかし、大事なことは、誰でも皆、例え中学生であっても病気の患者になる可能性があるという悲しい現実を知らなくてはなりません。

 そして、そうした運命の神様のいたずらの矢が当たった一人に対して、人間たちは弱いながらも集まって社会を形成して、その一人一人の力を持ち寄りながら知恵を結集して、その悲しい運命を避けようと頑張っているものだ、ということを伝えたいと思うのです。

 1年生には、助けて欲しいと願う患者と、それを助けようとする社会全体としての取り組みである骨髄バンクの存在、そして白血球の型が合致したドナーの健診、それらを側面で支えるコーディネーターや医師の物語を「善意のリレー」として伝えたいと思っています。

 また3年生にはそれをほんの少しだけ高度にして、「善意という意志」と「それを可能にする能力」という要素について考えてもらいたいと思っています。

 何かをしようと思う心が大事なのと同じくらい、自分の健康や医療水準、交通インフラなど先人が営々として築いてくれたこの社会の恩恵を被って生きていることを知って欲しいのです。

 そして、そういう社会に今私達が住んでいること、君達が大人になってその一員となる社会とはそういうところだということ、そして君たちが飛び込んでくる社会は信頼に満ちたものであることを期待して良い、そういうことを伝えたいと思うのです。
 さあ、それが伝わるでしょうか。

 話し始めると、50分なんてあっという間で、しばしば時間の配分を間違えがちになるのですが、これでなんとか乗り切ろうと思います。

 あんまり説教臭くならないようにしなくては。

 ではご報告は日曜日のブログです。
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正常化への偏見

2006-11-16 23:10:47 | Weblog
 昨夜はサッカー中継中に津波警報が発令されて驚きました。実際に被害が少なくて良かったのですが…。 

【正常化への偏見】
 昨夜は日本対サウジアラビアのサッカー中継だというのに、良いところで津波警報の臨時ニュースが流れました。

 テレビの警報は、北海道の東海岸で津波警報、それ以外の沿岸部と本州の太平洋側に津波注意報がだされたもので、「最大で2mの津波が予想されます」というだけで、一体何がどうなっているのか分からないという状態でした。

 実際には千島列島の先でマグニチュード8.1(最終的にはM7.9に訂正)という巨大地震が発生し、それによる津波の恐れがあるとされたものです。

 北海道では奥尻の津波災害の経験もありますし、最近ではスマトラ沖の大津波による甚大な被害を見せつけられていて、津波が決して稀な災害ではないことは知っています。

 本当に来たら大変なことだ、と思いながらテレビの津波情報に目をこらしていましたが、実際は大きいところで数十センチの津波が観測されたにとどまり、被害らしい被害は出ずに済みました。

 しかし警報の発令された自治体では避難命令が出されたものの、何人が避難したかという数の把握がしきれなくて混乱したようです。

 避難勧告対象人員約13万人という数字は出されたものの、実際に避難した人はそれほど多くはなかったようでした。

 釧路の知人からは、「夫からの緊急メールで何が起こったかを知り、雨の中を山の方まで車で避難したけれど、途中の道路情報板からは情報が得られませんでした。地域のFM局の放送が助かりました」という情報をいただきましたが、全体としては反応が鈍かったようです。

 今回は結果として予報よりも津波が小規模だったためによかったと言うことなのですが、これが逆に予報よりも大きかったり、地形の関係で入り江の奥などで急激に水位が上昇するなどしていたら、と思うとぞっとします。

 災害時の心理学に「正常化の偏見」ということがあるそうです。「大変なようだけど、自分だけはそれほどのことはないだろう」と安心しがちであるという心理だそうで、そのことが災害から逃げ遅れる原因にもなると専門家は指摘しています。

 今回のように安全側に大きく出された予報が結果的に小さく終わったために、災害時の警戒情報がオオカミ少年のように、「また警戒が出ているよ」と軽んじられることを恐れるものです。

 災害が怖いのは、いつ起きるか分からない、と言うことと同時に、こちら側の災害に対する緊張は長続きしないという宿命があるからです。

 これに対するには断続的にシミュレーションを繰り返しておくことが一番です。いざというときの恐ろしさとその時の対処手段を頭の中で想像して焼き付けておくしかないのだと思います。

 このことが次への糧になるよう祈るばかりです。 


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王陽明「睡起偶成の詩」

2006-11-15 23:33:35 | 古典から
 世の中にははっとする文章に出会うことがあります。今日はそんなお話。

【睡起偶成(すいきぐうせい)の唄】
 王陽明は西暦1472年、明の時代に生まれた政治家であり思想家でもあります。

 最近この王陽明に関する本をいろいろと読んでいたのですが、非常にはっとする考えやら文章に出会うことが多いのです。今日はそんな珠玉の言葉の数々の中から、「睡起偶成の詩」をご紹介します。

  四十余年睡夢の中
  いま醒眼始めて朦朧(もうろう)
  知らず日すでに亭午を過ぐるを
  起って高楼に向んで暁鐘を撞く

  起って高楼に向んで暁鐘を撞く
  尚お多くは昏睡正にぼうぼう
  たとえ日暮るるも醒むるをなお得ん
  信ぜず人間耳ことごとく聾すと

 

  四十数年生きてきたけれど、夢を見ていたようだ
  今やっと目が覚めて朦朧としている
  気がつくとどうやらもうお昼を過ぎているではないか
  起きて高楼に向かって朝の(目覚めの)鐘を撞くのだ

  起きて高楼に向かって朝の鐘を撞くのだ
  しかしまだ多くの者たちはすっかり寝入ったままだ
  たとえ日が暮れたとしても目が覚めるものは必ずいるはずだ
  皆耳が聞こえないなどということがあるはずがない


 この睡起偶成の詩は別名を首尾吟(しゅびぎん)と言われていて、王陽明が五十才になったときに作ったものと言われています。

 四十数年を生きてやっと目が覚めて世の中のことが分かってきた。目覚めたらもう昼過ぎとは随分寝ていたものだ。こうなったら自分がみんなの目を覚ますように鐘を鳴らさなくては…、と王陽明先生にして言っておられます。

 この鐘とは警鐘のことで、なかなか良くならない世の中に対する慨嘆でもあります。そしてこの慨嘆は二番目の詩につながって行きます。

 高い塔に進んで警鐘をならすのだ。世の中の人たちはまだそんなことに気づかないままぐうぐうと寝ているかのようだ。しかし自分が鐘を撞き続ければ誰かがきっと気づいてくれるはずだ。世の中には気づいてくれる人がいると言うことを信じよう。

 この詩は以前書いた「気づいた者の責任」という事にも通じそうです。そして自分が気づいて、「良いなあ」と思ったことを人様に伝えるということの大切さを訴えているような気がするのです。

 こういう漢詩などは徹底的に体にたたき込んで暗誦してしまうのがよいですね。決して知識をひけらかすのではなくて、自分の感性に合致する良いお話を人様に伝えて、相手にも何かが伝わったときに初めてこのお話が自分のものになる、自分の血になり肉になるのではないかと思うからです。
 
 このブログ「北の心の開拓記」の初心を思い出させてくれる一節でした。
 
 ここまで生きていて、はっとする文章にたどりつくように出会える年齢になったということでしょうか。縁尋の機妙がここでも生きています。
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相次ぐいじめ自殺について

2006-11-14 23:52:15 | Weblog
 ヒルマン監督がとりあえず大リーグに行かないことが決定。選手の移籍はどうなるのでしょうか?ううむ。

【相次ぐ『いじめ自殺』について】
 北海道滝川市や福岡県筑前町で起きた、いじめを受けた子供達の自殺に端を発して、全国各地で連鎖的ないじめ自殺や自殺予告文の発想、さらには対応のまずさを指摘された学校関係者の自殺など、騒動が一向に収まる様子がありません。

 また一つのパターンとして学校や学校関係者の怠慢や対応の不適切さがしてきされ、それがあたかも自殺の直接の原因であるかのように指摘され、ことごとに報道され、とにかく学校が謝罪をするという映像や報道が繰り返し垂れ流されている昨今です。

 個別の事件には個別の原因と事情があって、すべてを「いじめ自殺」などとくくるのは決して適切ではないでしょう。それぞれに千差万別の背景があるはずで、それぞれの問題は一つ一つを丹念に調べて行かなくては、真実に行き当たらないのだと思います。

 教育は子供達の人格に働きかけて、社会人としての振る舞いが出来るように訓練をし経験を積ませる行為なのですが、工場製品のように一定の品質を保つような成果を約束出来る性質のものではありません。

 様々な刺激を与えながらもその結果は、ある意味では祈るようにして、その内面の成長を見守ることしかできないものです。

 私たちは、今一度現在の形での学校教育の限界も認めて、家庭教育、地域教育などとの一体連携による子育てや子供を見守る社会づくりに努めなくてはいけないのではないでしょうか。

 マスコミや報道機関がいくら批判をこめた正論を述べたところで、苦しんでいる子供達が助けを求めるのはテレビや新聞ではなく、親であり先生であり、友人達であり、目の前にいる地域社会なのです。


 マスコミ報道に関しては、世間の溜飲を下げるためと思われるような追求がなされているだけで、世間のヒステリー状態を煽りこそすれ、一向に問題解決に向けた建設的なメッセージが発せられていないようです。

 ですからマスコミ各機関にお願いをしたいのは、できるだけ感情を出さないことと、報道の最後にはメッセージを発して欲しいということです。
 私はそのメッセージは「今いる場所から逃げなさい」ということだと思います。とにかくいまいるその苦しい状況から身を守るために逃げることを求めて欲しいのです。

 逃げる先は、回りにいる信頼出来る大人達のはずです。目の前の子供達を自分自身が救うという、社会に住む一人一人が立ち向かう気構えが試されます。

 またいじめる側にいる者たちに対しては、「いじめはルール違反である」という毅然とした態度が必要ですし、社会としても「その行為はいじめになっていると思わないのか?」という問いかけを常にしたい、またして欲しいと思います。

 なによりも大人自身が社会の中でいじめを行ってはいないでしょうか?

 常に「相手にとっていじめと感じられるのではないか?」という問いかけを続けることで、事の重大さに気づかせる連携したスクラムを組もうではありませんか。

 子供達一人一人の心の中には正しい心があるはずですが、それが何かの拍子に曇っているとすれば、その雲を取り除いて正しい心が照らすのを待ちたいものです。


 この問題はとても短い文章では書き切れません。皆さんはどう思いますか?

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地デジ難視聴地域

2006-11-13 23:19:40 | Weblog
 朝通勤の時に日陰に残っていた雪は昼にはすぐに溶けてしまいます。
 昼に通った道庁赤レンガの回りでは黄葉が綺麗でした。

【地デジが映らない!】
 職場の同僚のAさんが最近、地デジ対応40インチの液晶テレビを購入したのだそうです。札幌は既に今年の6月に地デジのサービスを開始しているので、美しい映像が楽しめそうです。

 製品が家に届くのを今か今かと待ちこがれていたのですが、それがこの週末に届いたのだとか。必要なセッティングをして、「さあ見よう!」と思ったところなんと映らない!

 Aさんの家は札幌でも高台にある山あいの高級住宅地なのですが、もともと山あいで、地デジの放送所のある手稲山の頂上を直接見ることが出来ません。

 地上波デジタル放送が使用する電波帯はUHFと言って、これまでのVHFよりも高い周波数の電波帯です。電波は周波数が高くなると直進性が強くなる性質があって、山や建物の裏まで回り込まなくなります。

 そのためこのAさんの地区はいまでもテレビの電波がそもそもサテライトと言われる、全く別の角度から電波が来るように置かれたサブ中継所から発信されていたのですが、このサブ中継所からはまだ地デジの放送がされていないのだとか。

 いくつかの放送局に電話をして「サテライトから地デジの放送が始まるのはいつですか?」と問いただしたところ、「札幌はとりあえず終わっていて、これから道内の各地で開局をしてある程度整備された後になりますね」と言われ、あと数年は来そうもないとか。

 唯一の可能性はアンテナをとにかく手稲山の方に向けてみて、弱い電波を拾うことができればなんとかなるかもしれない、とのことで、それもまたひどい話です。

 私も、もう札幌ならばどこででも地デジが見られるものとばかり思っていたので、他人事ながら騙されたような感じを覚えました。説明不足もはなはだしいような気がします。札幌に新しい難視聴地域ができてしまったようです。
 
 幸いなことに、わが家はまだ地デジに切り替えていないので、もう少しお金を貯め…、いや、様子を見ることにします。

 新しい技術は、最初のうちの初期トラブルが消えたくらいのところで導入するのがちょうど良いのです。

 わが家のブラウン管テレビにももう少し頑張ってもらわなくては。

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