北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

自転車によるまちづくり in 恵庭

2011-08-17 23:45:58 | まちづくり



 道央の恵庭市の方から、「今度自転車によるまちづくりに関するシンポジウムをしようと思っていて、講師をお願いできませんか」と相談を受けました。

 この方はどうやら私の掛川時代の活動をずっと覚えていてくれたらしく、東京での三年間にわたるポタリング生活の中でお会いしたこともあったのです。

 恵庭市では既に市民委員会を作って自転車のまちづくりに関する報告書もできつつあるようですが、それをさらに発展させたいというお考えのよう。

 掛川では生涯学習とその帰結としてのスローライフ運動に三年間携わることができましたが、その一環として自転車によるまちづくりにも加わることができました。

 掛川の自転車によるまちづくりには、先に『自転車ありき』ではなく、わがまちを良く知りわが町を誇れるようになる生涯学習運動がその底流にあります。

 そのうえで、わがまちを良く知るためのツールとして自転車を使ったまち発見やサイクルツーリズムというイベント、さらにはロコ・サイクルガイドという観光的要素を加えるという形で進化してきました。

 掛川などは自転車道が整備されているとか、ハード的に優れたことをやっているわけではなく、あくまでも地域の事物を巡るツールとしての自転車がその出発点になっているわけです。


    ※     ※     ※     ※     ※


 自転車によるまちづくりを考える上で陥りがちな大きな間違いが二つあります。

 一つは、自転車道を整備するために自転車によるまちづくりをしなくてはならないといったハードを先行させてしまう考え方です。
 これは畑を耕す前に種を植えるようなもので、本末が転倒しています。自転車に乗ることを楽しみとする人たちがいるからこそハードが生きると考える方が発展性があるのです。


 そして二つ目の間違いは、自転車の楽しみを一つに統一しようという考え方です。

 今日自転車は、9,800円のママチャリから何十万円もするスポーツバイクまで性能面での幅も広く、乗る方の意識も大まかに言って、①通勤・通学・買い物用の日常生活で便利な乗り物、②まちを巡って観るためのポタリングと呼ばれるような街乗りの乗り物、③何キロもの長距離を速いスピードで走り体を鍛えるためのスポーツとしての乗り物、などのカテゴリーの違いに分けられます。
 
 だから本来は、これらのカテゴリー別の自転車によるまちづくりがあるべきなのですが、しばしばこれを一つの方向にまとめあげようとして委員同士での意見の統一ができなということがおきがちです。

 私自身はまちを見物するポタリングの道具としての自転車に重きをおいていますが、これだって他の人から見れば変わった趣味に見られても不思議ではありませんね。

 自転車に乗る目的をまずよく考えておくことが必要です。


    ※     ※     ※     ※     ※


 さて、今回の講演依頼ですが、そんなわけで生涯学習まちづくり的なアプローチでの自転車によるまちづくりの理念について語ることは私でもできるのですが、それを実践する事例紹介となると最近の掛川からは離れてしまっているので私が話すのは適切ではないと考えました。

 そこで逆提案として掛川でそれを実践しているサトー君も招いてくれないでしょうか、とお願いをしたところ前向きに考えてくださるとのことで、サトー君とのダブル講演あるいは対談や鼎談形式にしようかと検討してくれることになりました。

 実はサトー君は「静岡空港を使ったサイクリスト交流という話も進めたいですね」という考えを持っていて、夏は内地のサイクリストを涼しい北海道で楽しませて、冬は北海道のサイクリストを温かく歴史的な事物も多い静岡で楽しませるという交流にも夢を膨らませています。

 以前著名な自転車専門誌の編集長だったMさんと話した時には、「掛川の自転車まちづくりは他の町の5年くらい先を走っているんだよ」と言われましたが、ハード論を先行させるまちづくり論ではおそらく永遠に掛川には追いつかないようにも思います。

 まちづくりの理念を市民の多くが共有するって案外難しいものなのです。


    ※     ※     ※     ※     ※


 さて、恵庭市でのシンポジウムは10月10日(月・祝)になりそうです。

 自転車に乗る人だけのイベントではなく、その楽しみ方、使い方を知らない人にも聞いていただけるようなものにしたいものです。
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【おまけ】人は生きてきたように死んで行く 【致知メルマガより】

2011-08-17 09:09:33 | Weblog
 私が木鶏の会として勉強会をしているネタ本が月刊誌「致知」です。

 この発行元の致知出版社では雑誌に掲載された記事から引用したメルマガを発行していて、これがまた人間旅行向上に役立っています。

 今日の記事も印象に残りましたので、コピーでお届けします。




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     致知出版社の「人間力メルマガ」

       【2011/8/17】 致知出版社編集部 発行
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


   このメールマガジンでは、
   人間学を学ぶ月刊誌『致知』より
   そのエッセンスの一部をご紹介しています。

       * *

   本日は、ホスピスケアの第一人者として、
   これまで二千五百名もの患者を看取り、
   生きる意味を追求し続けてこられた
   金城学院大学学長・柏木哲夫氏のお話を
   ご紹介いたします。

 
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       「人は生きてきたように死んでいく」
       
       
            柏木哲夫(金城学院大学学長)
        
            『致知』2008年1月号
             特集「健体康心」より
            

                      ※肩書きは掲載当時です。


────────────────────────────────────

(これまでに二千五百名もの方を看取られてきて、
 何か発見されたことはありますか? の質問に)
 
 人は生きてきたように死んでいくということです。
 これは私の実感ですね。

 ですから、しっかり生きてきた人は
 しっかり亡くなっていかれますし、
 表現はおかしいけれども
 ベタベタ生きてきた人はベタベタ亡くなっていく。
 
 それから、周りに感謝をして生きてこられた人は、
 我々にも感謝をして亡くなられるし、
 不平ばかり言って生きてきた人は
 不平ばかり言って亡くなっていくんですね。

 
 このことは、よき死を迎えるためには、
 よき生を生きなければいけない、ということを
 教えてくれていると思うのです。

 では、よき生というのはいったい何か。
 
 そこには個人の主観がだいぶ入ると思うんです。
 
 Aさんにとってよき生とはこうだし、
 Bさんにとってよき生とはこうだというふうに、
 人によって皆違う。
 
 ただ、二千五百名の看取りの中で私が感じることは、
 やはり前向きな人生ということ、
 それから周りに感謝できるということ。
 
 その二つに集約されるような気がして仕方がないんです。

 
 物事には必ずプラスとマイナスがありますが、
 物事のプラス面をしっかり見た生き方をしてこられた方々。
 そういう方々の生は、やっぱり前向きで
 よき生なんだろうと思うんです。

 それから、感謝というのはとても重要な
 キーワードだと思うんです。
 
 家族に対して、周りの人たちに対して、
 最後に「ありがとう」と言いながら、
 そして自分も相手からありがとうと
 言ってもらいながら生を全うできるのも、
 よき生だと思うんです。

 そういう生を全うする人を、
 私は人生の実力者と呼んでいるのです。
 

---------- 【引用ここまで】 ----------


 「人生の実力者」とは面白い表現です。

 私は人間は何度も生まれ変わって魂が成長しているのではないか、と思うことがよくありますが、そうすると今回の命は何を学ぶステージなのかな、と考えます。

 それで、きっと知らないことに触れて、「そうだったのか」と思う経験を重ねることは魂を育てることに繋がっているに違いない、と思い生涯学習を実践しています。

 夏休みの宿題は期間限定ですが、人生の宿題に期限はありませんね。
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