塚本哲也さんの『マリー・ルイーゼ ナポレオンの皇妃からパルマ公国女王へ』を読みました。
マリー・ルイーゼは、オーストリアの皇女であった。
フランスとの戦争のため、彼女は幼い頃から戦火を逃れて旅から旅への逃亡生活を送っていた。
ナポレオンに、良い印象を持てるはずが無かった。
しかし、十七歳で父であるフランツ皇帝の意に従い、嫌々ながらフランスへ向かった。
ナポレオンと結婚するためである。
だが思いがけず、ナポレオンが実際は付き合いやすい人であり、その心遣いと態度に心から満足し、
心から愛し合うようになった。
二人の間には、一人の息子がいたが、ナポレオンの敗北、島流しの後は、オーストリアから出してもらえず、
母が女王としたパルマ公国で暮らすようになったときも、置いていかれてしまった。
軟禁状態であるが、国内では割と自由だった。
息子であるフランツ少年は、幼い頃から頭がよく、ナポレオンと違ってダンスも得意であった。
母と別れて暮らし寂しい少年時代を送ったが、祖父であるフランツ皇帝からもかわいがられ、
長じては、ライヒシュタット公爵となり、宮廷の花であった。
ハプスブルグ家の中でも、将来を担う最大のホープであり、公爵自身もオーストリアのために
働く意欲は大いにあった。フランスと戦うことだけは嫌だった。
ただ、長いこと結核を患っており、二十一歳で亡くなってしまった。
傷心のマリー・ルイーゼであったが、パルマ公国では常に国民の要望をよく聞き、
善政をしいた国民に慕われるよい女王であったという。
彼女の晩年から、ヨーロッパには革命の嵐が吹き荒れ、動乱の時代に突入する。
それでも、彼女が死ぬまでのパルマ公国は平和だったという。
歴史の授業では習うことのできない事細かなヨーロッパの歴史の一端を知ることができ、
とてもためになる楽しい時間を過ごせました。
マリー・ルイーゼは、オーストリアの皇女であった。
フランスとの戦争のため、彼女は幼い頃から戦火を逃れて旅から旅への逃亡生活を送っていた。
ナポレオンに、良い印象を持てるはずが無かった。
しかし、十七歳で父であるフランツ皇帝の意に従い、嫌々ながらフランスへ向かった。
ナポレオンと結婚するためである。
だが思いがけず、ナポレオンが実際は付き合いやすい人であり、その心遣いと態度に心から満足し、
心から愛し合うようになった。
二人の間には、一人の息子がいたが、ナポレオンの敗北、島流しの後は、オーストリアから出してもらえず、
母が女王としたパルマ公国で暮らすようになったときも、置いていかれてしまった。
軟禁状態であるが、国内では割と自由だった。
息子であるフランツ少年は、幼い頃から頭がよく、ナポレオンと違ってダンスも得意であった。
母と別れて暮らし寂しい少年時代を送ったが、祖父であるフランツ皇帝からもかわいがられ、
長じては、ライヒシュタット公爵となり、宮廷の花であった。
ハプスブルグ家の中でも、将来を担う最大のホープであり、公爵自身もオーストリアのために
働く意欲は大いにあった。フランスと戦うことだけは嫌だった。
ただ、長いこと結核を患っており、二十一歳で亡くなってしまった。
傷心のマリー・ルイーゼであったが、パルマ公国では常に国民の要望をよく聞き、
善政をしいた国民に慕われるよい女王であったという。
彼女の晩年から、ヨーロッパには革命の嵐が吹き荒れ、動乱の時代に突入する。
それでも、彼女が死ぬまでのパルマ公国は平和だったという。
歴史の授業では習うことのできない事細かなヨーロッパの歴史の一端を知ることができ、
とてもためになる楽しい時間を過ごせました。