興趣つきぬ日々

僅椒亭余白 (きんしょうてい よはく) の美酒・美味探訪 & 世相観察

澄むと濁るの好みにて

2019-05-14 | 言葉ウォッチング

「舌鼓を打つ」の ‘舌鼓’ は、「したつづみ」と読んでもよいし「したづつみ」と読んでもよい、と辞書にはあるが(デジタル大辞泉)、わたしは「したつみ」(「つ」を濁らせる)が自然であるように思う。

下積みを「したづみ」と読み、深爪を「ふかづめ」と読み、人妻を「ひとづま」と読むのと同じである。
(下、深、人、舌などが「つ」の前に来ると、「つ」が濁って発音される)

したがって、時折、テレビの旅番組やグルメ番組で、「したづみ」と、「つ」を濁らない澄んだ音(おん)で発音されるのを聞くと、少し違和感がある。

ところが先日、今人気のNHKの番組「チコちゃんに叱られる」の中で、ナレーションの森田美由紀アナウンサーは、舌鼓を「したつみ」と濁って発音していた。

森田アナといえば、ニュースからナレーションまでなんでもこなす、実力派のベテランアナウンサーである。
わたしは昔からこの人を知っているが(もちろんテレビで)、まさにディス・イズ・ザ・アナウンサーと言っていい人だと思う。
そんな森田さんが ‘したづつみ派’ だったのだ。うれしいではないか。

森田さんは、この「チコちゃんに叱られる」の別の回で、「現存する」を「げんそんする」ではなく「げんんする」と濁って発音していた(辞書ではどちらも許容)
わたしも実は、この「げんぞん」と、濁ったほうが好みに合う。

それは例えば、依存が「いそん」より「いぞん」、共存が「きょうそん」より「きょうぞん」のほうがいいと思う感覚と似ているようにも思う(辞書ではすべて許容されている)
アナウンサーの森田さんも、きっと濁るほうに賛成してくれるにちがいない。

ところで、「自転車」は、辞書では「じてんしゃ」という読み方しか載っていないが、わたしには「じんしゃ」と濁るほうがしっくりくる。
「じでんしゃ」が辞書にないということは、わたしが小さいころ育った新潟の片田舎の方言だったからかもしれない。

でも、方言ならそれはそれでよし。いまさら直そうとは思わない。

2019.5.14

*以下2020.3.11追記
先月21日、同じ「チコちゃんに叱られる」を見ていたら、森田美由紀アナウンサーは舌鼓を「したつづみ」と発音していたようにも聞こえました。(「トウガラシはなぜ辛い」の回)
そうすると上の記事の論理構成がくずれてしまいますが、いったんアップした記事なので、これはこれでこのままにしておきたいと思います。わたしの耳の悪さと、お許しください。
(でも森田さんの発音はとてもやわらかく上品で、わたしにも違和感はありませんでした)
*写真はテントウムシ。本記事と関係ありません。    


文章を考える場所

2017-04-14 | 言葉ウォッチング

「三上(さんじょう)」という言葉がある。
文章を作るのに適した三つの場所を言う言葉だ。

広辞苑を見ると、

「三上 = [欧陽修、帰田録]文章を作るに最もよく考えがまとまるという三つの場所、即ち馬上・枕上・廁上。」

とある。

馬上は文字通り馬の上。枕(ちん)上は寝床。廁(し)上は手洗い(トイレ)のこと。
(欧陽修<「欧陽脩」とも>は宋の学者・詩人。「帰田録」はその著書)

わたしは馬に乗って文章を考えたことはないが、枕上、廁上ならある。
このブログ用にいったん書いた文章を、夜寝床で反芻し、翌日修正を加えることなどしょっちゅうである。

「馬上」を現代風に「歩いているとき」と考えれば、これもなるほどと思う。

ただ、わたしの場合、「三上」は、単に文章を作るときだけでなく、何かを考えたり、思い出したり、アイデアを思いついたりすることの多い時間でもある。

というと格好いいが、雑念、妄想の多いわたしにとっては、いわば 妄想時間 であると言ってもいい。(「瞑想時間」ではない)

              

そう考えると、わたしの妄想時間はこのほかにもある。

鏡前(きょうぜん)・・・鏡の前。洗面所で歯をみがき、ひげを剃っているとき。
 ひげを剃りながら声を立てて ‘思い出し笑い’ をし、ときどき家内にあきれられている。

床前(とこぜん)・・・布団(床<とこ>の上げ下ろしをしているとき。
 何か動作をしているときのほうが妄想世界に入りやすい。

景前(けいぜん)・・・目の前の景色・情景を見るともなく眺めているとき。
 例えば喫茶店の窓際に座って、ぼんやりと道行く人や外の情景に目を向けているとき、など。

以上の三つである。(いずれもわたしの造語)

これをとりあえず、妄想の三前(さんぜん)とでも呼んでおこうか。

              

ところで、わたしは小さいころから引っ込み思案で、優柔不断なタチであった。行動より不安や心配が先に立つのだ。(先に立つのは「怠惰」も、じゃない?)

「やらなきゃなんないことは、考えてないでサッサとやんなさい」
と、母によく叱られたものだ。

今考えてみればそれは、遅かれ早かれどうせやらねばならないことは、後に引き延ばさず、「覚悟を決めて」やりなさいという母の教えであったのだ。

こういう教えのことを一般に、妄想三前の教えと言う。(言わないって)

2017.4.14

*上の写真は菜の花と蜂。本記事と関係ありません。


シュークリーム

2015-09-26 | 言葉ウォッチング

靴墨を買いに、池袋西武に行ってきました。

ここ池袋西武は、靴墨の色のバリエーションが豊富だからです。

行ってみて初めて知ったのですが、靴墨は

 シュークリーム

とも言うようですね。

「こちらのお客さま、シュークリームをお探しです」
という店員さん同士の会話で知りました。

シューズクリームでなく、シュークリーム。わたしの聞きまちがいではないと思います。

(なるほど。黒以外の色もあるから、そのほうがいいのかもしれない)
と思いました。
墨には、黒色という意味がありますから。

 

 


 

現に、買ってきた靴墨のビンのフタに SHOE CREAM とあります。

 





 



でも、その文字の上を見ると、なんと Boot Black とあるではありませんか。
これこそ文字通りの意味は、「靴墨」です。

(そうか、英語も日本語も同じ「靴墨」なんだな。これはおもしろい)
と思い、念のため辞書で調べてみると、わたしの見た辞書には Boot Black はありませんでした。

SHOE CREAM も出ていませんでした。(「ジーニアス英和大辞典」「オックスフォード現代英英辞典」)

靴墨の意味では、 shoe polish という単語が「ジーニアス英和大辞典」にありました。
 

SHOE CREAM も Boot Black も和製英語なのかもしれません。

 

 




 

こちらもシュークリームと、日本ではいわれています。


*以下2015.9.27追記*
長年翻訳を手がけている友人に聞いてみると、shoe cream は英米の本や雑誌に靴墨の意味で実際に出てくる言葉だそうです。
またネットで見ると、Boot Black は株式会社コロンブスの靴墨のブランド名のようです。


出船の用意

2012-02-29 | 言葉ウォッチング

「出船の用意」

これはわたしが中学生の時に、校長先生が毎週月曜の全校朝会で話してくれた 「訓話」 の中にあった言葉だ。

意味は、漁師は海でのその日の漁が終わると、船を舳先が海側に向かう形で引き上げ、浜に据え置く。 なぜなら翌朝再び漁に出るとき、スッとそのまま出ることができるからだ。 これを出船の用意という。
(生徒に対して) あなたたちも前夜のうちに、翌朝そのまま家を出られるように必要な持ち物をそろえ (宿題なども済まし)、準備しておくといいですよというような諭しであったと思う。

物覚えの悪いわたしではあるが、海に向かって置かれた船のイメージとともに、なぜか何十年も経った今もこの言葉をよく憶えている。K先生という、校長先生の名前まで憶えている。

先日、地下鉄都営新宿線の電車に乗っていて、車内広告の中にこんな言葉を見つけた。

「先を見て齊(ととの)える」

和洋九段女子中学校の広告の中にあった言葉だ。 この学校の校訓のようである。
後の結果を事前に予想し、前もって準備を調えよ、という教えであろう。

いつも切羽詰ってから慌てふためく自分を棚に上げていえば、これはまったくその通り。 仕事なり人生の勘どころを押さえた名言である。
中学時代のK校長先生の 「出船の用意」 も、ほんとうはこういう広い意味をもったものなのかもしれない。

この 「先を見て齊える」 と 「出船の用意」 の、二つの出典を知りたいと思い、最近小学館から出た 『故事俗信 ことわざ大辞典 第二版』(北村孝一・監修) を見てみた。

この二つは残念ながら採られてなかったが、たまたま 「宵の苦は明日(あした)の楽」 という項目を見つけた。 解説は 「前日の夜のうちに苦労をしておけば、翌日は楽になる」 とある。 これはこの二つに近いかもしれない。






ところで、この故事俗信 ことわざ大辞典 第二版 (小学館) は、たいへんによく出来ている。

43,000項目という日本最大の項目数を誇り、解説にはことわざ研究の最新の成果が盛り込まれている。
古今の文献・文学作品からの用例も豊富で、まさにことわざ辞典の決定版。

人生の真実、生活の知恵の結晶が詰まった一冊 である。




アクセントが違うのでは?

2011-01-15 | 言葉ウォッチング

                                                     (写真は神保町「ランチョン」の生ビール。 本記事と関係ありません)

テレビでニュースを聞いていると、時々、アナウンサーのアクセントが 「ちょっと違うのでは?」 と思うことがあります。
アナウンサーといえば話し方のプロですから 「間違い」 ではないのでしょうが、わたしには少し違和感のあるものです。

例えば、 「政治資金規正法違反の罪」 を 「政治資金規正法、 違反の罪」  と言うのがそれです。
これは 「‘政治資金規正法違反’ の罪」  と言うべきなのではないでしょうか。

つまり、が 「政治資金規正法違反」 という言葉の後に 「の罪」 を付け加えているのに対して、は 「政治資金規正法」 という単語と 「違反の罪」 という単語を単に並列させているだけです。

少しわかりにくいかもしれませんが、具体的なアクセントとしていうと、 「違反」 という単語に違いが出ます。
は、 「はん」 の 「」 にアクセントがあるのに対して、は 「いはん」 の 「はん」 にアクセントがあます。

これは民放のアナウンサーだけでなく、NHKのアナウンサーも含めて、おしなべて で発音しているように思います。


そういう問題意識でニュースを聞いていると、このような例が次々と耳に入ってきます。

「‘大手デパート’ では~」 を
「大手、 デパートでは~」 と、

「‘好評発売中’ です」 を
「好評、 発売中です」 と、

「‘南北対話’ を目指す」② を
「南北、 対話を目指す」① と・・・。
(この例でいうと、①は南北、つまり韓国と北朝鮮が対話を目指しているという意味になりますが、②ではこの両国だけでなく、ほかのどの国が主語に来てもいいし、誰が主語に来てもいいわけです)

昨日のニュースでは、
胡錦濤主席の ‘アメリカ訪問’ では~」 を、
胡錦濤主席のアメリカ、 訪問では~」 と、
どこかの局のアナウンサーが言っていました。

胡錦濤主席のアメリカ”  とはいったい何だ? アメリカは胡錦濤主席の所有物か? とツッコミを入れたくなります。


以上のわたしの主張が的を射たものであるかどうか、アナウンス法やアクセントに詳しい専門家の方にでも一度お聞きしてみたいもの、と思っています。


平常心是道

2010-12-13 | 言葉ウォッチング

 平常心是道   びょうじょうしんこれどう

先月訪れた平林寺の受付でいただいた短冊に書いてあった言葉です。(写真)

短冊の裏にこんな解説がありました。

「南泉禅師(中国の名僧・748~834) の言葉。 平常心は一般に平穏な少しも外物に動じない落ちついた心のことと解釈されていますが、禅宗では日常ありのままの心、すなわち、惜しい・欲しい・憎い・かわいい等の煩悩そのままが平常心であり、それに徹して生活してゆくことが道であり、禅の真髄であると教えております。」


これは意外でした。
事にあたって動じない心、すなわち平常心 (「へいじょうしん」 とも読む) を養うために、禅宗では座禅などの厳しい修行を行なうのだろうとばかり思っていたのに、いとも簡単に 「煩悩そのままが平常心である」 と言い切るとは・・・。

やや拍子抜けがしましたが、この解説、一方でわたしにとってはとても得心がいくものです。
「ものに動じてもいいんだよ。 煩悩は誰にもあるものだ。 そんなことで自分を責めなくてもいい」
という、いわば慰めと励ましを逆に感ずるからです。

凡人・俗人の我田引水的解釈かもしれませんが・・・。


送り出し (好きな言葉)

2009-04-09 | 言葉ウォッチング

相撲の決まり手の一つ。 「相手の後ろにまわって土俵の外へ押し出すわざ」(広辞苑)。

押し出す、とあるが、 「送り出し」 には、押し出さずとも相手力士が自分から出ていくような語感がある。
「投げ」「倒し」「寄り切り」「押し出し」などの直接表現とは一線を画したレトリック(表現の美学)を感じないでもない。

もともと ‘送り出す’ には、 「出かける人の手助けなどをして、目的地へ無事出発させる」(広辞苑) という意味があり、送り出し手の愛情がにじむ言葉なのだ。
相撲の場合、「送り出し」を決められて、相手の愛情を感ずる力士はいないであろうけど・・・。

2009.4.9  (写真は東京新聞2009.3.31夕刊)


とんち教室

2009-02-28 | 言葉ウォッチング
千葉県の市川に行ってきました。
降りた駅は京成線市川真間(いちかわまま)。

ここで言葉遊びを一つ。 名づけて無理問答。

 問・・パパが降りても市川真間(ママ) とはこれいかに?
 答・・母(はは) が降りても秩父(ちち<父>ぶ・秩父鉄道) と言うが如し。

・・・お粗末。


昔々子供のころ、ラジオで「とんち教室」という番組をよく聴いたものです。 こんな言葉遊びをたくさんやっていました。

「お猪口はおいくつ・・・?」 (気になる言葉)

2008-09-07 | 言葉ウォッチング
居酒屋チェーン店などに何人かで行って、日本酒をたのむと、必ずといっていいほど店員に訊かれる言葉。

たしかに、一行に日本酒を飲まない人がいれば、全員にお猪口は要らない。
これもいわゆるマニュアル語の一つであろう。

ところがこの言葉、二人で行っても使われてしまう。

先日も二人(男同士)でとりあえずビールの中瓶を分け合って飲み干し、
「さあ、酒(日本酒)にするか」
と大徳利をたのむと、店員のおにいさん、やはり、
「お猪口は・・・?」
ときた。
(当然二つだろ? 状況を読んでほしいよな)
と思うのは、おじさん(わたし)の勝手な解釈か。

客が4、5人かそれ以下の場合、日本酒の注文を受けたら、ほかにサワーなどの注文があっても、そっと人数分の猪口をそろえる、というのもスマートだと思うけど・・・。

2008.9.7

「というか」 (気になる言葉)

2008-04-13 | 言葉ウォッチング
 会話の中で相手の言葉を受け、相手と違う自説を述べるとき、または軽く異を唱えるときの言い出しによく使われる。接続詞の一種。
 例えば、「Aさんは気が利くよね」という相手の言葉に対し、「というか、頭がいいんだよ」というように使う。
 また、「Bさんはいい人だよねえ」に対し、「というか、気持ちが優しいんだよね」というようにも使う。
「ていうか」「てか」「つか」という人もいる。

 なぜこの言葉が気になるかというと、巷を見るとこれが口癖になっている人が少なくないように思うからである。

 ある居酒屋で、自分の言葉を発する都度、かならず最初に 「てか」 を入れる人を見かけたことがある。となりに座った二人連れの片方の男で、会話の内容まではわからなかったが、会話全体が「てかてか」であった。

 実際のところ、会話の中で相手に頻繁にこの言葉を使われてしまうと、自分の言説を逐一否定されているようで、わたしなど話す気力が萎えてしまう。
 上の例の、Bさんについて語る場合なども、「というか」の代わりに、「うん」または「そう」、「それに」と言うほうがよほど感じがいいではないか。
 うなずきだけでもいい。

 かくいうわたし自身、「ていうか」が多すぎる、と女房によく怒られる。

2008.4.13

結わく <ゆわく>  (好きな言葉)

2008-03-04 | 言葉ウォッチング
(ひもなどを)結ぶ、縛るという意味である。
「結わえる」「結う」ともいう。
 なぜこの言葉が好きかというと、「結ぶ」や「縛る」より、どこか上品な響きがあるからである。

 ただこの言葉、普段めったに聞かない。実際わたし自身も日々使ってない。外でたまたま聞くと、とても新鮮な感じを受ける。
 デパートやスーパーなど、紙袋、レジ袋になって久しく、「包んで結わく」ことが少なくなったせいかもしれない。

 省資源のためエコバックの持参が奨励されている昨今、日本古来の風呂敷も見直されているという。
「結わく」という言葉ももっと見直されてほしいものだ。

2008.2.8

<ご参考まで>
http://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=978-4-569-68572-4

臈たける<ろうたける>  (好きな言葉)

2008-01-26 | 言葉ウォッチング
「臈たける」とは、「①年功を積む。経験を重ねる。②洗練される。上品である」という意味である。(広辞苑)

 とくに若い女性が歳に応じてしっかりしてきた様(さま)を表すときに使われることが多いように思う。
 しばらくぶりで会った女性など、その立ち居ふるまいや顔の表情にふと、かつてなかった “大人っぽさ” を感じることがある。
 いくばくかの人生経験を経、自立した女性としての覚悟を得た美しさとでもいえようか。

 男でも、年代を問わずその成長を感じさせる瞬間はたしかにある。しかし、男には「臈たけた」とはあまり言わないようである。

「臈」とは仏教からきた言葉で、僧が修行して功を積むことだそうだ。 「ろうたける」 と聞いて、わたしは長く 「老たける」 と思っていた。

2008.1.26

たけなわ (好きな言葉)

2007-06-20 | 言葉ウォッチング
「物事の一番の盛り。真っ最中」という意味である(広辞苑)。「春たけなわ」「宴たけなわ」というように使う。

 漢字を当てると、「闌」または「酣」。闌には「手すり(欄)、みだりに」という意味もあるようだが、それと「一番の盛り」という意味とどういうつながりがあるのか、2、3の漢和辞典を引いてもよくわからない。
 それに対して酣は、もともと「酒宴のまっさかり。酒を飲んで楽しむ」という意味があり(大修館現代漢和辞典)、わかりやすい。これが、酒を愛するわたしが「たけなわ」を“好きな言葉”にあげた理由である。

 ところで、「盛り」があれば「衰え」があるのが世のならい。ピークがあれば、かならず下りがある。下りがあとに続くからピークという、といってもいい。
 英語のことわざにも、「どんな良いことにも、かならず終わりがある」(All good things must come to an end.)というのがある。
 ドイツには、「一番いい時に帰るべし(Wenn es am schoensten ist, soll man gehen!)」という言葉があるという。例えばパーティなど、長居しすぎないよう気をつけよということであろう。
 ところがわたしなど、楽しく酒を飲んでしまうと、一体いつが「酒宴のまっさかり」なのか見分けがつかなくなる。結局最後までねばり、あとで後悔する。

 広辞苑で「たけなわ」を引くと、もう一つの意味が載っている。それは「少し盛りを過ぎたさま」である。
 ピークとピークを少し過ぎた頃合(たけなわ)を敏感に察知できてこそ、“人生の達人”になれるのかもしれない。

2007.6.20   (ドイツ語協力:北村孝一氏)

まどろむ (好きな言葉)

2006-03-24 | 言葉ウォッチング
 漢字で書くと「微睡む」となる。「うとうとと眠る。少しの間眠る。(広辞苑)」という意味である。

 人はふつう極度の緊張を強いられているときにはまどろむことはできない。まどろむことができるのは、どちらかというとリラックスしているときであり、「癒されている」ときであるといえよう。

「まどろむ」という言葉から、わたしはドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を思い浮かべる。この曲はドビュッシーがマラルメの「牧神の午後」という詩にひらめきを得て作ったものとのことで、この詩には「まどろみ」にひたる牧神が出てくるからだ。

 マラルメの詩は読んだことはないが、「牧神の午後への前奏曲」の(レコードジャケットの)音楽解説によると、詩の内容はこうだ。
 ・・・けだるい夏の昼下がり、まどろみから醒めた牧神(半人半獣の神)が、泉のほとりに遊ぶニンフ(若く美しい女性の妖精)を見つけ、抱擁しようと追いかける。しかし結局逃げられ、またまどろみに沈む・・・。

 ところで、「腹の皮がつっぱると目の皮がたるむ」というが、牧神でなくとも昼飯後はつい眠くなってしまう。そんなとき10分でもウトウトすると、そのあと不思議なほど頭がスッキリしてくるのは誰しも経験があるのではないだろうか。短時間の昼寝はその後の作業効率を上げるとの研究もある。

 しかし現実問題として、会社や学校などの社会生活の中では、そうそう簡単に午睡をとるというわけにはいかない。シエスタは日本では定着しにくい習慣である。
 まどろみの中でニンフを追いかけたいところではあるが・・・。
2006.3.2