先日の夜、帰宅途上のバスの中で、すぐ後ろの席から女性のとがった声が聞こえてきた。
「ムオンでやってください。すっごく気になるんですけど」
振り返って見ると、若い女性が、となりにすわっているおじさんをにらみつけている。六十がらみのおじさんは携帯電話のボタンをピコピコ押していたのだ。それに対して音を出さないで(無音で)やってくれと、おねえさんは抗議をしたのである。
おじさんは面食らった表情でその女性をしばらく見返していたが、
「そうですか」
とおとなしく応えた。すると女性は、それにかぶせるように、
「はーい」
と、断定的な、力みを入れた声を発した。もう、やっとわかったの、と言わんばかりである。
わたしより少し年上と思われるそのおじさんは、しばらく間をおくと、またピコピコやりだした。
(おねえさんに反発しているのかなあ。気持ちもわかるけど、また怒られるぞ)
と、他人事ながらわたしはドキドキして気配をうかがったが、おじさんは作業を終了させるためにいくつかのボタンをおしただけだった。
携帯をしまうと文庫本を取り出し、読み始めた。
察するに、おじさんは携帯のボタンを‘無音’にする術(すべ)を知らなかったのであろう。実はわたしもつい最近まで、マナーモードに設定すればボタン音が出なくなる、ということを知らなかった。
それはともかく、バスの中でのピコピコはマナー違反と言われてもしかたないのであろう。他の人の神経にさわるといわれれば確かにそのとおりである。現に疲れて帰ってきたおねえさんをいら立たせた。
しかし、ときどき後ろを振り向いて要所要所を見、一部始終を聞いていたわたしの感想を率直に言えば、このおねえさん、無礼だと思う。
おねえさんのものの言い様(よう)は、自分の親ほどの年齢の、しかも初めて会う人に対するそれではなかった。礼儀もなければ配慮もない。
一般論で言えば、たとえ正しいことでも、いや、正しいことであればあるほど、主張するならていねいに、できれば相手のプライドを傷つけないようにしたいものである。
はっきり言うのは結構だが、高飛車なもの言いは、結果として自分の品性と知性を疑われるだけである。
このおねえさん、もし言うのであれば、このように言ったらおじさんも楽だったし、周りに与える印象も違ったはずだ。
「あのお、失礼ですが……、それ、マナーモードにすると、音が出ないんですよ」
2003.8.10
(2006.10.28写真追加)
*おねえさんはバスの最後尾左端の席(写真の奥)、おじさんは一人分席をおいて、右隣にいました。
わたしはこの写真を撮ったカメラの位置にいました。