興趣つきぬ日々

僅椒亭余白 (きんしょうてい よはく) の美酒・美味探訪 & 世相観察

まるいタマゴも切りよぅで四角

2006-10-28 | チラッと世相観察

 先日の夜、帰宅途上のバスの中で、すぐ後ろの席から女性のとがった声が聞こえてきた。
「ムオンでやってください。すっごく気になるんですけど」
 振り返って見ると、若い女性が、となりにすわっているおじさんをにらみつけている。六十がらみのおじさんは携帯電話のボタンをピコピコ押していたのだ。それに対して音を出さないで(無音で)やってくれと、おねえさんは抗議をしたのである。
 おじさんは面食らった表情でその女性をしばらく見返していたが、
「そうですか」
 とおとなしく応えた。すると女性は、それにかぶせるように、
「はーい」
 と、断定的な、力みを入れた声を発した。もう、やっとわかったの、と言わんばかりである。

 わたしより少し年上と思われるそのおじさんは、しばらく間をおくと、またピコピコやりだした。
(おねえさんに反発しているのかなあ。気持ちもわかるけど、また怒られるぞ)
と、他人事ながらわたしはドキドキして気配をうかがったが、おじさんは作業を終了させるためにいくつかのボタンをおしただけだった。
 携帯をしまうと文庫本を取り出し、読み始めた。

 察するに、おじさんは携帯のボタンを‘無音’にする術(すべ)を知らなかったのであろう。実はわたしもつい最近まで、マナーモードに設定すればボタン音が出なくなる、ということを知らなかった。

 それはともかく、バスの中でのピコピコはマナー違反と言われてもしかたないのであろう。他の人の神経にさわるといわれれば確かにそのとおりである。現に疲れて帰ってきたおねえさんをいら立たせた。
 しかし、ときどき後ろを振り向いて要所要所を見、一部始終を聞いていたわたしの感想を率直に言えば、このおねえさん、無礼だと思う。

 おねえさんのものの言い様(よう)は、自分の親ほどの年齢の、しかも初めて会う人に対するそれではなかった。礼儀もなければ配慮もない。

 一般論で言えば、たとえ正しいことでも、いや、正しいことであればあるほど、主張するならていねいに、できれば相手のプライドを傷つけないようにしたいものである。
 はっきり言うのは結構だが、高飛車なもの言いは、結果として自分の品性と知性を疑われるだけである。

 このおねえさん、もし言うのであれば、このように言ったらおじさんも楽だったし、周りに与える印象も違ったはずだ。
 「あのお、失礼ですが……、それ、マナーモードにすると、音が出ないんですよ」

2003.8.10
(2006.10.28写真追加)
*おねえさんはバスの最後尾左端の席(写真の奥)、おじさんは一人分席をおいて、右隣にいました。
わたしはこの写真を撮ったカメラの位置にいました。

ほんとうは怖い吊り革睡眠

2006-10-27 | チラッと世相観察
 酔って帰る電車の中で、わたしは吊り革につかまったまま眠ってしまうことがある。
 日ごろの疲れが一度に出てくるからであろう。

 何年か前、こんなことがあった。吊り革を両手で握りしめ、そこにおでこをもたせウトウトしていると、
「よしかからないで下さい」
 という声とともに右腕を強くこづかれた。見ると、隣の背の高い若い女性がわたしを睨みつけている。つり革にぶら下がったまま、わたしはこのおねえさんの方に寄りかかっていたらしい。
「あっ、ごめんなさいっ」
 即座にあやまり、身を立て直し、おねえさんを見ると、わたしに向けたその目には、あからさまな嫌悪の表情が浮かんでいた。そしておねえさんは無言のままプイと顔をそむけたのである。

 次第に覚醒の度を増してきたわたしはそれを見て、すまなかったという気持ちがいっぺんに失せ、代わりに怒りがムクムクともりあがってきた。
(なんだ、あやまっているのにその態度は。汚いものでも見るように……。オレはべつにアンタに寄りかかりたくて寄りかかったんじゃないっ)

 腹立ちを抑えきれなくなったわたしは、おねえさんの方をむくと、
「すみません、ひとこと言っときますが、わたしはあなたに、よしかかろうとしてよしかかったんじゃありませんから」
 と、ていねいに、できるだけ感情を表さないように、抑えた声で言い返した。
「……………」
 おねえさんは、チラッとこちらを見たが、酔っぱらいおじさんには取り合わなかった。
 しばし気まずい沈黙がつづき、わたしはそれに耐え切れなくなって、次の駅で別な車両に乗りかえた。

 後日、そのことを親しい友人に話すと、「余白さん、よかったねえ」 と言う。
「えっ?」
「だって、それは一つ間違えば、痴漢にもされかねなかった状況だよ」
 友人の話によると、その女性が、「この人いやらしいんです」とかなんとか、大きな声でも出したら、まわりに痴漢と間違えられ、次の駅で事務室につれていかれ、言い訳すればするほど無実は信じてもらえず……、ということになったかもしれないというのである。

 痴漢は言うまでもなく許しがたいことだが、いわゆる痴漢冤罪も決してあってはならないことだ。
 わたしのケースは、おねえさんがたとえ大きな声を出したとしても、痴漢冤罪に即むすびつくというわけではなかったとは思うが、友人の言うように、結果としてどうなったかはわからない。
 いずれにしても、腹立ちをわたしがそのまま声にしてしまったのはまずかった。

 このことから二つの教訓を導き出すことができる。一つは、飲んだときは吊り革につかまったまま眠らないこと、二つ目は、酔ったときは腹立ちまぎれにものを言わないこと、である。
 しかし、実際その場になれば、実行できるかどうか、正直なところ自信はない。

 確かなことは、おねえさんの目が語っていたように、残念ながら酔ったわたしは単なるだらしない(汚いとは決して言わないぞ)おじさんである、ということであろう。その自覚が無用なトラブルを避けてくれるかもしれない。

2004.7.4
(2006.10.27写真追加)

「冬ソナ」ユジンのうなずき方

2006-10-25 | 韓国文化垣間見
 今話題の韓国ドラマ「冬のソナタ」のヒロイン、ユジンは、うなずき方が魅力的である。彼女はうなずくとき、首をたてに数回ふる。
 「チュンサンて人は、そんなにぼくと似てるの?」
と相手役のミニヨンが聞くと、ユジンは口を開く代わりにまずうなずく。清楚でかわいらしいその顔を、5回ほどかるく上下させる。そして、
「ええ、錯覚したくなるくらい。(あなたを)チュンサンだって思い込みたかったこと、そう信じたかったこと、何回もありました」
と答えるのである。
 このドラマは、全体にゆったりしたテンポで進行するので、ユジンのうなずきはそのテンポに合った演技、または監督の演出だったのかもしれない。実際、ミニヨンも、他の出演者も、このようなうなずき方をすることがある。

 わたしは日頃、こういうゆったりしたうなずき方をあまり見ないように思う。
 人々は、相手の話を肯定するより先に、「て言うかあ」とか、「いや、それはさあ」とか、「でもねえ……」などと、異を唱えがちである。
 自分を主張するのに急で、ときには相手の話をさえぎってでも思いついたことを口にする。口にしないまでも、相手の話の切れ間をうかがって、うなずくどころでない。
 相手の話がとぎれると、ラーメンをすすりながらでも話をする器用な人もいる。

 間髪を入れぬウイットに富んだ受け答えは、人に才気を感じさせる。交渉事などでは、いちいちうなずいていられない場面もあろう。しかし、日常の会話においては、誰しも自分の話をじっくり聞いてほしいのだと思う。言わんとするところをしっかりと受けとめて、うなずいてほしいのだと思う。
 これは、興が乗るとしゃべりすぎる自分への戒めでもある。

 ところで、わたしには、ユジンのうなずき方を見ていて、一つの問題意識がめばえた。
 このうなずき方はユジン個人のくせや「冬ソナ」出演陣の演技ではなく、韓国人一般の肯定のしぐさなのではないだろうか、という問題意識だ。

 しぐさには、その国の人々に特有のものがある。例えば、首をよこにふるのは日本では否定または拒否の表現であるが、映画などを見ると、欧米では首をよこにふりながら、「アイ・ラブ・ユー」と言ったりする。

「ユジンうなずき」は韓国の人々に広く見られるしぐさなのかどうか、韓国の人も、「て言うかあ……」と言うのかどうか、ちょっと興味がある。
 これを究明するには、やはり現地に行って街の人々を直接観察するしかない。機会があれば「冬ソナ」ツアーにでも乗って、この国を訪れてみたい。
 ついでに本場の焼肉を賞味してこよう。

2004.8.7
(2006.10.25 写真追加)

肩たたき一つでできるボランティア

2006-10-20 | チラッと世相観察

 先日、東京駅近辺で飲んで、夜11時過ぎ、帰宅のため地下鉄丸ノ内線に乗った。終点の池袋まで行って、そこから私鉄に乗りかえるためである。
 幸い席を得たが、酔いと日頃の疲れのためかウトウトしてしまった。フッと気がつくと、そこはまだ東京(駅)であった。

 電車が動かなかったわけではない。時間は30分の余を経ている。眠っているうちに池袋まで行き、折り返してきたのである。
 わたしは慌ててとび降り、ふたたび池袋方面行きに乗り換えた。

 何年か前、やはり夜遅く京王線の笹塚から次駅で終点の新宿に行く電車に乗ったときも眠ってしまい、気がつくと上北沢であった。新宿で折り返して10分ほどの駅である。

 この両線とも、終点で車掌が起こしてくれない。前客がおりてすぐ、折り返しに乗る新客が入ってくる。池袋と新宿で、前客と新しい客たちが眠っているわたしを起こしてくれなかったのだ。

 乗り越しは、もとより本人の責任である。周囲の客に起こす義務はない。しかし、上記のケースは途中駅でなく、折り返し駅でのことだ。
(この人は、ほんとうはここで降りなければならない)
と、わたしを見た誰にもわかったはずである。

 ちょっと肩でもたたいてくれれば、この哀れな酔っ払いおじさんは深夜帰路をはずれ、お家(うち)がどんどん遠くなることはなかった。

 指一本ならぬ、肩たたき(退職勧告ではない)一つでできるボランティアもある。

(写真追加 2006.10.20)