しばらくぶりに「余白の創作ことわざ」です。
淹れ方知らずの茶葉談義 いれかたしらずの ちゃばだんぎ
<意味>
お茶の旨さを上手に引き出す ‘淹れ方の基本’ も知らずに、茶葉の良し悪しを論ずること。肝心なところが抜けているのに、いっぱしの議論を展開することの愚かさを皮肉った言葉。
<さらに一言>
焙じ茶は熱湯で淹れてこそ香ばしさが立ち、美味しく飲めるが、茶葉によっては少しさまして、熱すぎないお湯で淹れるほうが、旨みとコクをより深く引き出すことができる。
煎茶や高級なお茶の代名詞玉露も、きゅうすに入れた茶葉に熱湯を直に注いでしまっては、味も香りも台無しである。淹れ方の基本も知らずに茶葉の特徴や品質を論じても意味がない。
<もう一言>
コーヒーも同じ。焙りタテ、挽きタテ、淹れタテの ‘三タテ’ のほかに、お茶と同様、熱すぎないお湯で淹れるほうが、豆の旨さをよりよく引き出せるといわれる。たしかに、たとえ挽きたての豆でも熱湯を注いでしまっては、産地や銘柄による味の違いも分かりにくくなる。
それでいて「タンザニアは酸味と苦味のバランスが絶妙なんだよ」などと、知ったかぶりをするのは、 ‘淹れ方知らずの豆談義’。
七味唐辛子の場合は「保存方法」が基本である。わたしなど、「開封後は要冷蔵。早めに召し上がって」というビンの表示に気づかず、三年前に善光寺の参道で買った「八幡屋礒五郎の七味唐がらし」を、開封後もそのまま三年間、食器棚に置いておいた。
これで「七味はやっぱり八幡屋礒五郎だネ」などと言っても説得力がない。‘保存法知らずの七味談義’。
<さらにもう一言>
昨今かまびすしい改憲論議にも、これと似たような ‘基本抜け’ がある。
例えば「人権」。日本国憲法の
「すべて国民は、個人として尊重される」(第十三条)
を、「全て国民は、人として尊重される」という文言に変えたいとする人々がいる。<平成24年4月 自由民主党発表の「日本国憲法改正草案」>
「個人」が「人」に変えられている。
日本国憲法は、この第十三条で、抽象的な「人」ではなく、具体的に「個々人、一人一人の人権」を尊重しなさい、と為政者に命じているのであるが・・。
さらにこの「自民党の改正草案」では、現憲法で<基本的人権の本質>を謳った条文、
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(日本国憲法 第九十七条)
を全文、そっくりそのまま削除しようという ‘人権外し’ の念の入れようである。
この「基本的人権」のほかにも、日本国憲法(現憲法)には「主権在民」「平和主義」「立憲主義」など、いわば歴史の試練に堪えてきた人類の英知が詰まっている。
これを知ることなしに、いや知ろうともせず、ひょっとして理解できずに、軽々に改憲論議を展開してはならないと思う。
‘現憲法知らずの改憲論議’ となっては、せっかく現憲法に盛り込まれた「人類の英知」を台無しにしてしまうことにもなりかねない。
2015.1.21
http://blog.goo.ne.jp/kyusan2/e/21b72b91d0df08343f6f895e61eb80de