興趣つきぬ日々

僅椒亭余白 (きんしょうてい よはく) の美酒・美味探訪 & 世相観察

気持ちはなにげない所作に表れる

2024-09-18 | 随感・偶感・歳時感

今朝コンビニで、とてもいいことがあった。

毎週水曜日、近くのコンビニに東京新聞を買いに行っているのだが、レジでお金を払い、出口に向かうと、先に出た若い男性が、ドアを押さえたまま、わたしが来るのを待っている。

わたしのあとにこの男性の知り合いでもいるのかと思い、チラと後ろを見ると、だれもいない。

わたしが出たあと再び中に入ろうとしているのかとも思い、一瞬様子をうかがったが、男性は中に入ることなく、そのままドアから手をはなした。
あきらかにわたしのために、開けてくれていたのだ。

「ああ、ありがとうございます」

と、わたしは急いで言い、感謝の気持ちをこめて頭を下げた。
この男性の行動は、今のわたしにもできないと思う。

人の気持ちは、なにげない所作に表れる。

この人、わたしを見て、「ここは敬老精神を発揮すべきとき」と思ったのかもしれないが、そうだとしてもそれだけでなく、ふだんから周囲に「ほっこりした気分」を与える気持ちを持った方なのだろう。

本人は今、目の前にいないが、感謝とともに敬意を表したい。


野菜たちは ‘暦どおり’

2024-08-07 | 随感・偶感・歳時感

わが家の菜園から、きのう収穫してきた野菜。

大きなキュウリは、長さが30センチほどもあった。今のような暑い毎日には、一日二日(いちにちふつか)穫り遅れただけでこんなに大きくなる。

ナスも同じ。大きいので23センチほどもあった。

ナスもキュウリも大きくなるとどうしても大味になる。大きなキュウリは煮るとユウガオを食べているようだが、これはこれで美味しい。

キュウリやオクラ、トマトなど、わが家の菜園の ‘夏食べ野菜’ はこれでほぼおしまい。あとはサツマイモや落花生などの ‘秋穫れ’ 野菜が、これから登場してくる。

きょうは立秋。「暦の上では秋」という言葉はよく使われるが、立秋前にほぼ穫り終えたわが家の夏野菜たちは、 ‘暦どおり’ である。

今朝の菜園で、今年初めて赤とんぼを見た。昼過ぎ郵便物を取りに玄関先に出てみると、力尽きて転がっているアブラゼミがいた。

夏も終わりが見え、「小さい秋見つけた」といったところか。


ゴーヤも伸長期から充実期へ

2024-07-28 | 随感・偶感・歳時感

6月末に苗で鉢に一株植えたゴーヤのつるが、どんどん伸びて、ベランダにまで達し・・・

 

 

 

   

ベランダにからまったつるに、ようやくいくつかの実(み)が生ってきた。(苗屋さんで安い残り物の苗を買った)

上の写真の実は先週は小さくて、よく見ないとあるかどうか分からないほどだったのに、今朝見ると長さが10センチほどに急生長している。

なんというたくましい生命力。

人間の成長段階には、背がどんどん伸びる「伸長期」と、脂肪と筋肉がぐんぐんついてくる「充実期」とがあるということを、むかし聞いたことがある。
きっとゴーヤも同じで、伸長期から充実期に入りつつあるのかもしれない。

蛇足ながら、わたしの場合は、腹部の脂肪を除いて ‘収縮期’ に入っているようだ。


オノマトペ食レポ・キュウリのまるかじり

2024-07-20 | 随感・偶感・歳時感

菜園から穫ってきたばかりのキュウリを、味噌をつけてまるかじりした。

シャキシャキとかじりながら、この ‘食レポ’ をブログでオノマトペ(擬声語、擬態語)を多用して書いてみようと思いついた。
以下の通りである。


畑から、もいできたばかりのキュウリを、洗って真ん中でパリッと折った。
新鮮なので、クニャッとしなったりはしない。いさぎよくパキッと折れる。

折れ口の表面に水分がにじみ出て、テカテカ光っている。みずみずしさの証明である。
折れたカドもキレッキレの鋭角。これも新鮮さの表れ。

ここに味噌をたっぷりつけ、ガブリとかぶりついた。

 パリパリシャキシャキムシャムシャ
 パリパリシャキシャキムシャムシャ(くり返し)

ゆっくりよく噛んでいると、しだいに甘みが感じられてくる。

キュウリはパリパリ感とシットリ感だけが取り柄なのではない。とくに有機肥料でじっくり育てたキュウリには甘みがある。
このキュウリ本来の甘みこそ、実はキュウリの主役なのだ。主役は遅れてやってくる。

キュウリまるかじりのもう一つの魅力は、キュウリのうるおいと味噌の旨みのデュエット(二重奏)であろう。

塩味の効いた味噌のコクとキュウリのシットリ感が、ぴったり息の合ったハーモニーを奏でる。
味噌がキュウリのみずみずしさを際立たせ、キュウリは味噌の旨みをジワジワと口中に広げる。

味噌とキュウリは、それぞれに個性を発揮しながら、きっちりと相手を引き立てている。人と人との関係もこうありたいものだ。


以上が「味噌付きフレッシュキュウリ」のオノマトペ食レポである。(下線部がオノマトペ)


なぜ「オノマトペ食レポ」を書いてみたかというと、最近テレビで聞く食レポは、「めちゃめちゃ旨い」「めっちゃ美味しい」という ‘めっちゃ表現’ が全盛で、わたしはそれにちょっと反発したかったからだ。

 

 

 

   

わが家の菜園では、さまざまな野菜が大きく育ってきている。

上の写真はタケノコイモ(サトイモの一種)。背丈はもうわたしの肩のあたりまでになっている。

タケノコイモの足元にあるのはショウガ。直射日光の嫌いなショウガは、タケノコイモの葉がいい日除けになっている。(いわゆるコンパニオンプランツ)

 

 

 

   

韓国トウガラシ。穫り頃を迎えた。

 

 

 

   

手前はキュウリ、奥はナス。これもほぼわたしの背丈。

今、順次収穫中。


老舗居酒屋の流儀

2024-07-13 | 随感・偶感・歳時感

先日所用で板橋方面に行った帰り、池袋の居酒屋、「千登利」に寄ってきた。

ここはわたしが行き始めて、少なくとも30年の余は経つ店だ。といってもさほど頻繁に通っていたわけではないので、真正の馴染み客とはいいがたい。

店内は入口から奥へ15~6人がすわれる長いカウンター席があって、これがメイン。あとテーブル席が少々。

居酒屋としては大きすぎず小さすぎず、「一人飲み」の好きなわたしには、カウンターにすわれば居心地のよい店である。

上の写真はこの店の看板メニュー、牛肉豆腐 650円。

お店を入ってすぐのカウンター内にある大鍋で、いつも大ぶりの豆腐と肉を追加しつつ、ぐつぐつと煮込んでいる。
注文があると牛肉豆腐専用の楕円形の皿に盛って、その上に刻みネギをたっぷり載せ、間をおかず出してくれる。

これがあればビール1本は飲める。あと、やきとん2~3本に日本酒2合もあれば、その夕、わたしには十分である。

 

 

 

    


実は昨年、何年かぶりで訪れて驚いたのだが、ずっと長くこの店を経営してきたマスターとママさんが亡くなっていたのだ。

カウンター内の壁際に、遺影風のママさんの小さな写真がおいてあったので、店の人に聞いてみると、そう教えてくれた。
ママさんは2年ほど前に、ご主人のマスターはそのまた2年ほど前に・・。

息子さんもいるらしいが、ほかの仕事についているのか直接店には出てこない。「わたしは ‘雇われ店主’ ですよ」とその人は言っていた。


ママさんはいつもシャキッと姿勢がよく、凛とした雰囲気をただよわせていた方だった。

一度、客のおじさんが、「勘定がおかしい」とクレームをつけていたのを目撃したことがある。

この店は、出した酒の徳利もビール瓶も、牛肉豆腐の皿も、その席の客が飲み終わって帰るまで、そのままにして片付けない。

やきとんを食べたあとの串は、自分用の小さい串入れコップに入れるルールになっている。
つまり飲んだあと食べたあと(跡)が、そのまま ‘目に見える請求書’ になっているのだ。

ママさんは客のおじさんにそれをていねいに説明し、毅然として後に引かなかった。そのときのクレームおじさんは、納得するしかなかったのである。


この店の日々のルーティンとしては、ママさんは4時半の開店から7時過ぎまでいて、後に来るマスターと替わるという形だった。
店員は ‘焼き’(やきとん)担当の人と、アルバイトの学生など3名ほど。

以前、マスターに聞いたところによると、店の始まりは終戦直後だと言っていたから、今年でもう創業80年近くになる。

形は若干変わったかもしれないが、やきとんと牛肉豆腐を軸に、メニューをいたずらに増やすことなく、同じような形をずっと続けてきたのであろう。

酒の燗も ‘チン’ などせず、むかしからきちんとお湯でつけていた。このほうが酒は旨いし冷めにくい。ここもわたしの気に入っていたところ。

店員が替わっても、客を大事にする心と店の流儀は変えない。これが池袋の老舗居酒屋としての千登利の評価を固めてきたのだと思う。

いまの ‘雇われ店主’ の人も、人柄が良さそうなので、また覗いてみようと思う。

この千登利については、このブログでも何度かとり上げている。ご高覧いただければ幸いである。
Breeze in IZAKAYA - 興趣つきぬ日々 (goo.ne.jp)


枝ぶりすっきり 梅花しっとり

2024-02-22 | 随感・偶感・歳時感

わが家の梅が今年も咲いた。

例年より花数が少ないのは、枝の剪定をしてもらったからだ。
といってもプロの庭師を呼んだわけではない。

昨年末、伸びすぎた金木犀を市のシルバー人材センターに頼んで伐ってもらった折、わきの梅の木も ‘ついでに’ 伐ってもらったのだ。

来てくれたシルバー人材センターの方は、素人のわたしから見ても実にバランスよく、梅の枝を刈り込んでくれた。心得のある人だったのかもしれない。

瓢箪から駒、金木犀も含めて、プロの庭師よりはるかに安く伐ってもらえたと思う。

 

 

 

     

三十数年前、苗木で買ったこの梅の木、いつの間にか樹肌が古木の風合いを帯びてきた。

こちら(わたし)も年取るわけだ。

おととい暑いくらいだったのに、きのう、きょうと真冬の気温に戻ってしまった。

今朝は夜来の雨。あすは雪の予報もある。

遠出をしようかと思ったが、やめて、すっきりした枝ぶりに咲いた梅花を肴に、梅見酒と洒落込むか。


ほめ言葉になっていない

2024-02-12 | 随感・偶感・歳時感

(すだれ)越しに入ってくる朝陽を受けて、観葉植物の葉に簾の縞模様が映っていた。

 

 

   

手前の葉には、奥の葉の影が落ちて、葉の濃淡がくっきり。これもなかなかおもしろい図柄である。

 

むかし、さる「生け花展」に行ったときのことを思い出した。

その展覧会の案内をくれた知人の作品は、部屋のすみに、白壁にいまにも接するような位置に置かれていた。

部屋の照明の加減で、その白壁には知人の生け花の影が映っていた。葉と枝の多いその作品は、壁のシルエットとともに微妙なハーモニー効果を醸し出していたのである。

「あれは影も含めて鑑賞するという演出だったの?」
と、後日その知人に会ったとき、わたしはほめるつもりで聞いた。

ところが知人はめんくらった表情を浮かべ、首をわずかに横にふりながら口をつぐんでしまった。彼女は生け花本体だけをほめてほしかったのだ。

考えてみれば一つの生け花展で、一つの作品だけそんな演出をするわけないではないか。

茶化すつもりはなくとも、無知と早とちりは人間関係を台無しにする。


2024 わたしの今年の漢字は「聴」

2024-02-05 | 随感・偶感・歳時感

        写真はわが家で作った恵方巻き。食べ始めだけ東北東を向きました。本記事と関係ありません。

 

2024年、わたしの今年の漢字一字は「聴」ということにしたい。
韓国語の勉強で、今年は「聴くこと」に比重を置こうと思うからだ。

わたしは長年韓国語の勉強を続けてきているが、とくに「話すこと」になかなか自信が持てない。
話すには、前提として十分に「聴くこと」ができなければならないのだ。

今通っている公民館の韓国語学習サークルでも、見ていると、韓国のテレビドラマが好きという人のほうが、上達が早いように思う。
耳が慣れているからであろう。

「文法」や「読解」、「作文」や「基本文型の反復練習」ももちろん大切である。しかし赤ちゃんは、おかあさんや周りの人たちの話を「聴くだけ」で話せるようになるではないか。

わたしは今年、 ‘韓国語学習の赤ちゃん’ になる。


感動は時空を超える

2023-12-31 | 随感・偶感・歳時感

ビデオ録画していた映画「小公子」を、先日カメラ屋さんでDVDにダビングしてもらった。

ビデオ再生機ははるか昔に捨ててしまい、見る術(すべ)のなくなった古ビデオ(テープ)が家に山ほどあったので、わたし自身の ‘終活’ とも思い、ぜんぶ捨てることにした。

その際、思い入れがあってどうしても捨てられないものが数本あり、それを今回DVD化した。映画「小公子」はそのうちの1本だ。

 

 

 

   

この「小公子」をどうしても捨てられなかった理由は、きわめて感動的な映画だったという明確な記憶があったからだ。
今回ダビングされたDVDで、久しぶりに見返してみて、やはりストーリーの随所で目頭を熱くさせられた。





   

19世紀末のイギリス。ドリンコート伯爵家を舞台に、二人の伯父と父の死により突然貴族の跡継ぎとなったアメリカ育ちの少年、セドリックの物語。

感動したのは、セドリックの純真で愛情深い心、慈しみのこもった心に、である。
自然な何気ない言動で、お城(伯爵家)で働く使用人たちや領民たちの心をほどなくとらえてしまい、やがてかたくなで傲慢な祖父、ドリンコート伯爵の考え方や心もしだいにとかし、和らげていった。

セドリックとともにイギリスに来たセドリックの母、エロル夫人の愛情豊かな、それでいて毅然とした態度もすばらしい。
セドリックの幸せを第一に考え、人としての在り方を教え、伯爵のアメリカ人一般や自分に対する偏見には一歩も引かない。

セドリックのやさしさも、強さも、他者の幸せを考えることのできる資質も、この母の育て方によるところが大きかったのだろう、と思わせてくれた。

 

 

   

「小公子」の原作者はフランシス・ホジソン・バーネット。1886年に「LITTLE LORD FAUNTLEROY」という題でアメリカで出版された。
以来世界各国で翻訳出版され、日本でも1890年、若松賤子の翻訳、「小公子」というタイトルで初めて紹介された。

原作出版から140年、その間映画化も数度におよび、映画だけでなくアニメなどさまざまな媒体でも広く取り上げられてきた。
日本では原作の新訳もいくつかある。

名作は時代を超え、国を超え、表現媒体をまたいで広がっていくものだと思う。感動は時空を超え伝播していくのだ。


*今回わたしがDVDにダビングした映画のキャスト等の一部をここに記しておきたい。
  セドリック:リッキー・シュローダー
  ドリンコート伯爵:アレック・ギネス
  エロル夫人:コニー・ブース
  監督:ジャック・ゴールド
  制作:ノーマン・ローズモント
  脚本:ブランチ・ハナリス
  音楽:アリン・ファーガソン
  原作:フランシス・ホジソン・バーネット
  制作年:1981年、イギリス

*わたしがビデオに最初に録画したのは1988(S63)年8月6日、NHK総合で放映されたもの。今から35年前。
*最初のビデオ録画のせいか、今回のDVDへのダビングのせいか、音声が日本語吹き替えのみになっていた。(冒頭画面ではBILINGUAL<二か国語>とあったのに)
これが唯一残念である。でも吹き替えの声優の方々はとても上手く、役柄にピッタリであった。


生活即メモ

2023-08-23 | 随感・偶感・歳時感

古い雑誌を整理していて、「サライ」の1998年8月20日号の中に、画家杉本健吉氏へのインタビュー記事を見つけた。
25年も前の記事だが、読み返してみると、たいへん味わい深く、おもしろい。

 杉本健吉氏(1905-2004)は画家、挿絵画家。昭和25(1950)年から連載の吉川英治『新・平家物語』の挿絵を担当。名コンビとして知られた。このインタビュー時(1998年)は92歳。

この記事の中で、わたしがいちばんおもしろいと思ったのは、杉本氏が「生活即写生」と語っているところだ。
いつも、矢立て(携帯用の筆記用具)や短い鉛筆を、人差し指と中指の間にはさんで持ち歩き、風景、仏像をはじめ、見るものすべてをデッサン(写生)していたという。(戦後奈良に行っていたころか)

描くことを「理屈ではなく、手に覚えさせようとした」とも言っているから、杉本氏は日々の暮らしの中で、デッサンの修練を意図して生活習慣にしていたのだ。

生活即写生・・・この伝で言えば、わたしの場合は「生活即メモ」かもしれない、と思う。

いつも本ブログ用の記事のネタを探していて、思いつくとすぐにメモ用紙にメモしたり、外に出ていれば写真(これもメモのうち)に撮ったりしているからだ。

散歩のときなど、カメラ(スマホ)を小さなバッグ(ポシェット)にかならず入れて出る。半ば生活習慣化しているといってもいいだろう。

もちろん大家杉本健吉氏の絵の世界と、拙ブログは比ぶべくもないが・・。


暑さを和らげ、風を通してくれる

2023-07-28 | 随感・偶感・歳時感

一週間ほど前、2階の南西角の部屋に簾(すだれ)を掛けた。
南側の窓に一つ、西側の窓に一つ。

去年秋、家の外壁塗装をした際、古い簾を捨てて、そのままになっていたのだ。

 

 

     

この部屋の北側のすみっこに、わたしのささやかな書斎コーナーがある。

「ここが世界の中心です」
と紙に書いてあるのは建築家で社会事業家、ウイリアム・メレル・ヴォーリズ (1880-1964) の言葉。
わたしは昔この言葉を知って、 ‘自分の生きている今と、住んでいるこの場所をいちばん大切に’ という考え方であろうと理解し、ずっと大事にしてきた。

この書斎はまさに、わたしにとっての「世界の中心」なのだ。

 

 


   

ただ、この世界の中心は南西の角、盛夏には昼から夕方まで暑さが引かなない。
簾がどんなに有用なことか。

簾の効用は夏だけではない。春も秋も窓を開け網戸だけにしておけば、涼しい風を通してくれるし、外からの視線も遮ってくれる。

この春先から、簾を 「早く掛けよう早く掛けよう」 と思いつつ、時日を経、蒸し暑い梅雨に入ってしまった。
先日ようやく梅雨が明けて、そのタイミングで重い腰を上げたという次第。

 

 


    

この簾を窓枠に吊り下げるにあたっては、わたしが一つ工夫した点がある。

それは簾の下部を、窓の手すり(柵)にかたく結びつけてしまわないことだった。ヒモの長さにゆとりをもたせた。
風が吹いたとき、簾のすそがゆらゆらと揺れる幅をもたせるためだ。
簾の揺らぎは見ていても心地よいものだ、と思う。

そんなことから、わが書斎に名前を付けようと思いついた。
思いついたものをいくつかあげてみる。

 揺簾庵(ようれんあん)簾風庵(れんふうあん)涼風庵(すずかぜあん、りょうふうあん)
 揺蘆庵(ようろあん)風芦庵(ふうろあん)揺葦庵(よういあん)葦簀庵(よしずあん)など。

どれもイマイチである。何よりも、わたしの書斎ならではの意味付けがなされていない。

そんなことを考えているうちに、先日簾を吊るしているときに、簾にアブラゼミが留まったのを思い出した。

 

 

    

アブラゼミ(油蝉)をヒグラシ(蜩)に替え、

 蜩庵(ひぐらしあん)

とするのはどうであろうか。

わたしは一日のほとんどをここで過ごす。「日暮らし」「朝から晩まで」「ひねもす(終日)」「日がな一日」ここにいるといってもいい。退屈もしない。(昼寝はするが)

蜩庵、わたしにピッタリではないか。・・などと今考えている。


梅雨の晴れ間

2023-06-18 | 随感・偶感・歳時感

きのう、きょうと晴れて、梅雨の中休みだ。

「鬼の居ぬ間に命の洗濯」ということわざがあるが、「梅雨の晴れ間」にも命の洗濯をしようではないか。

「命の洗濯」とは、ことわざ辞典の決定版『故事俗信 ことわざ大辞典 第二版(北村孝一・監修 小学館)』には、
「平生の苦労から解放されて、寿命がのびるほど気ままに楽しむこと。」
とある。

辞典にあるからというわけではないが、人にはつねひごろ苦労や忙しさ、緊張があっても、一日の終わりには解放感を味わい、リラックスして気ままに過ごす時間が必要である。

上の写真はきのうの朝、わが家の庭に咲いたユリに、陽が当たり始めたところ。花にも陽の光は恵みである。


清らかな香り ザ・ピルグリム

2023-05-19 | 随感・偶感・歳時感

今朝早く雨戸を開けに庭に出ると、夜明けの澄んだ空気の中に、甘く清らかな香りが漂ってきた。

マイヤーレモンや温州みかんなど、柑橘類の花の先日までの強いにおいが終わったので、今漂ってくるとすればこの花の香りであろう。(上の写真)

「ザ・ピルグリム」という名前のバラだ。
わたしは鼻の利くほうではないが、近寄って嗅いでみるとやはりそのようである。

ピルグリムには「聖地巡礼者」という意味がある。

巡礼者には、宗教的理想を追い求める人というイメージがある。利欲に走らず、人々の幸せを祈り、みずからは道を修め、清らかな生き方をする人たちである。
ザ・ピルグリムというバラの命名には、そのような意味が込められているのであろうか。

宗教といえば 、「どんな御利益があるのか?」 にしか思いのいたらない俗人のわたしではあるが、せめてザ・ピルグリムの清らかな香りに浴したときくらいは、清らかな心を取りもどしたいものだ。

 

 

   

これはアナベルという名前のアジサイ。
花びらの一つ一つがだいぶ大きくなって、緑色が少し白っぽくなってきた。

あと何日かすれば、花の一かたまり全体がもっと大きくなって、次々に真っ白になる。
アナベルも、清廉潔白を絵に描いたような花だ。

きょうは昼前から雨になり、時折雨脚のつよくなる一日となった。気温がグッと下がり、きのうまでの暑さがウソのよう。

雨はあすの朝まで続き、あとは晴れる予報。今の時季の「適度な」雨は、花にとっても野菜にとっても恵みの雨となる。
何事も適度がいい。


2023わたしの今年の漢字は「静」

2023-01-26 | 随感・偶感・歳時感

年の初めに当たっての一年の心構えや目標を、漢字一字で表す「わたしの今年の漢字」、今年は「静」(せい、しずか)にしようと思う。

静思の静、「静かな時間を持つ」の静かである。

「学はすべからく静(せい)なるべし」ということわざがある。
ことわざ辞典の決定版『故事俗信 ことわざ大辞典 第二版(北村孝一・監修 小学館)の解説を見ると、
「学問は心を落ち着けて集中しなければ進歩しない。」
とある。

また、「急ぎの文(ふみ)は静かに書け」ということわざもある。
これも同辞典では、 
「急ぎの手紙ほど大事な用件が多いので、書き誤りや書き落としのないように慎重に書け。急ぐ文は練って書け。」
と解説している。

いずれも心静かに、集中して取り組まなければ、何事も考えを深め、成果を上げることはできないということであろう。

実際わたし自身、いらいらして物事が手につかないときや、本ブログを書くときなども考えのまとまらないことが少なくない。(しょっちゅうである)

今年は、そんなときには意識して静思の時間を持ち、集中力を高めていけるよう心がけていきたい。

*上の写真はわが家の庭に咲いた花。名前が分かりません。


一陽来復

2022-12-22 | 随感・偶感・歳時感

きょうは冬至。二十四節気の一つ。

「北半球では夜が最も長く、昼が最も短くなる」日であり、「この日、ゆず湯に入り、カボチャを食べる風習がある」
と明鏡国語辞典に説明がある。

神宮館家庭暦には、冬至の説明の中に「この日を境に日脚が徐々に伸びていく」として「一陽来復」という言葉を紹介している。
この ‘一陽来復’ をデジタル大辞泉で調べると、冬至の説明のほかに、
「冬が去り春が来ること。新年が来ること。悪いことが続いたあと、ようやく物事がよい方向に向かうこと」
とある。

「一陽来復」・・いい言葉ですね。
コロナ禍も早く去って、世の中、ぜひとも良い方向に向かってほしいものです。

また、明鏡国語辞典には、一陽来復を「縁起をかついで『一陽来福』とも」表記するとあった。(復を福に替える)

縁起をかつぐといえば、カボチャやゆず湯も、縁起をかついで(福を願って)のことといえるであろう。


わが家では一日早く、きのうカボチャを食べた。(アズキとの煮物<上の写真>

 

 



     

ゆず湯にはおととい入った。

カボチャもゆず湯も、いちにち二日ズレたからといって、「福」が逃げていくことはないであろう。