興趣つきぬ日々

僅椒亭余白 (きんしょうてい よはく) の美酒・美味探訪 & 世相観察

一陽来復

2022-12-22 | 随感・偶感・歳時感

きょうは冬至。二十四節気の一つ。

「北半球では夜が最も長く、昼が最も短くなる」日であり、「この日、ゆず湯に入り、カボチャを食べる風習がある」
と明鏡国語辞典に説明がある。

神宮館家庭暦には、冬至の説明の中に「この日を境に日脚が徐々に伸びていく」として「一陽来復」という言葉を紹介している。
この ‘一陽来復’ をデジタル大辞泉で調べると、冬至の説明のほかに、
「冬が去り春が来ること。新年が来ること。悪いことが続いたあと、ようやく物事がよい方向に向かうこと」
とある。

「一陽来復」・・いい言葉ですね。
コロナ禍も早く去って、世の中、ぜひとも良い方向に向かってほしいものです。

また、明鏡国語辞典には、一陽来復を「縁起をかついで『一陽来福』とも」表記するとあった。(復を福に替える)

縁起をかつぐといえば、カボチャやゆず湯も、縁起をかついで(福を願って)のことといえるであろう。


わが家では一日早く、きのうカボチャを食べた。(アズキとの煮物<上の写真>

 

 



     

ゆず湯にはおととい入った。

カボチャもゆず湯も、いちにち二日ズレたからといって、「福」が逃げていくことはないであろう。


抑えた声とシックな装い

2022-11-21 | 随感・偶感・歳時感

NHK・BS1の番組「ワールドニュース」を、ときどき見ている。

世界各国の放送局のその日その日のニュースを、順次紹介している番組である。

見ていると、ときに日本のテレビでは得られない視点があったりして、なかなかおもしろい。

例えばプラスチックごみによる海洋汚染の深刻さを、わたしが初めて知ったのは、この番組である。
海洋汚染が日本ではまだ、あまり話題になっていなかった数年前から、複数の国の放送局がとり上げていた。


それはともかく、きょうの当ブログの話題は、この「ワールドニュース」に登場する各国放送局のニュースキャスターについてである。

実は、わたしが気になるニュースキャスターが、二人いるのだ。

一人はイギリスBBCのフィオナ・ブルース氏。もう一人はフランスF2のアンヌ=ソフィ・ラピ氏。







   
   

上がBBCフィオナ・ブルース氏、下がF2アンヌ=ソフィ・ラピ氏だ。(いずれもNHK・BS1「ワールドニュース」より)


二人とも女性であるが、女性だから着目しているわけではない。
フィオナ・ブルース氏はその「声」に、アンヌ=ソフィ・ラピ氏はその「装い」に、大いに魅力を感じている。

フィオナ・ブルース氏の声は、低く抑制の効いた落ち着いた声である。それでいて発音が明瞭で聴き取りやすい。

イギリスのテレビドラマ「ダウントンアビー」などを見ていると、100年ほど前のイギリス上流階級の食事風景がよく出てくる。

食事の場では貴族のたしなみとして、和やかに抑えた声でユーモアを交えながら会話を楽しむ。
ときに話し手が、古典からの有名なフレーズを引用したり、気の利いた警句をまじえたり、さりげなく会話に知性と教養をにじませる。

そんな場に、このフィオナ・ブルース氏の声はぴったりだな、と思わせてくれる。


一方、アンヌ=ソフィ・ラピ氏の装いは、一言でいうとシンプルでシック、それでいて上品である。

例えば、紺系のジャケットに落ち着いた柄のシャツを合わせ、余計な飾りをほとんど付けない。
時折シャツのやや開いた胸に、ほとんど目立たない小さなネックレスを覗かせることもある。(おそらくプラチナの細い鎖に小さいダイヤモンド)

この控えめなお洒落はフランス流の「粋」かもしれないし、「ほんとうのお洒落は余計な飾りを削ぎ落としたところにある」とでも主張しているかに見えるアンヌ=ソフィ・ラピ氏の ‘お洒落哲学’ かもしれない。

「抑えた声」と「シックな装い」・・これは言葉を替えれば、どちらも「洗練の極み」であると思う。わたし自身が目指したい世界でもある。


ところで少し話題が変わるが、この2月にロシア・ウクライナの戦争が始まってからしばらくして、このNHK・BS1ワールドニュースの朝6時台放送分から「ロシア国営テレビ」のニュース枠がなくなってしまった。

ロシアとウクライナの紛争については、さまざまな見方・考え方があって当然だが、ロシア国内でこの戦争がどう報道されているのかは気になるところだ。

NHKのワールドニュースは、ぜひこのロシア国営テレビ枠を復活させ、これまで通り流してほしい。
長年放送してきたコーナーではないか。

より広い視点からの価値観の異なる情報は、視聴者の状況判断に益することがあっても害となることはないはずだ。

ロシア国営テレビ枠の復活を、NHKに強く要望したい。


垢ぬけした着こなし

2022-10-11 | 随感・偶感・歳時感

わが家の庭に咲いた秋明菊。

写真ではかなり赤っぽく写ってしまったが、実際の花はもう少しくすんだ薄紫色。
「大辞泉」では淡紅紫色と表現している。

人にたとえれば、可愛らしさだけでなく内面の深みを加えた女性、はなやかな服でなくとも粋な着こなしのできる人、といったところか。

わたしは地味な服しか持っていないが、せめて姿勢をただし、垢ぬけした着こなしをしたいな。

先週末からぐっと冷え込んできて、もはや晩秋の趣きである。


人に自分を美しく見せる極意

2022-08-19 | 随感・偶感・歳時感

                       *わが家の庭に咲いたシレネ・カロニアーナ。本記事と関係ありません。


先頃、服飾デザイナーの森英恵さんがお亡くなりになった。

森英恵さんと聞いて、わたしが思い起こすのは、

「腰で歩く」

という言葉である。
むかし、とあるテレビ番組でご本人が語っておられた。

たしか、「いつもお若く見えますが、若さの秘訣は何ですか?」というような質問に答えての言葉だった、と記憶している。

腰で歩くとは、「腰を立てて背筋をスッと伸ばして歩く」という意味であろう。

いま考えるにこれは、本人の個人的な日々の心掛けというより、多くのファッションモデルを見てきたプロのデザイナーの、「人に自分を美しく見せる極意」の開示だったのではなかろうか、と思う。


 

 


      

わたしは本や人との出会いなどで知った教えや、心に残った言葉を集め、とくに気に入ったものをカードに書き、自分のための手製 ‘日めくりカレンダー’ を作っている。この「腰で歩く」はそのうちの一つである。(上の写真)

ただわたしの場合、これを見たその瞬間はスッと背筋を正しても、ほかのことを始めるとすぐに忘れてしまう。


若くて才能のある人たち

2022-08-05 | 随感・偶感・歳時感

先日8月2日、ヤクルトの村上宗隆選手が、「5打席連続本塁打」を放ったのには驚かされた。

日本プロ野球公式戦87年という長い歴史のなかで、なんとこれは新記録とのこと。
(これまでの最多連続打席本塁打記録は4打席)

 

 

 

    

わたしが驚いたのはこの大記録だけではない。村上選手の22歳というその若さに対しても、である。

王の記録もバースの記録も、この若さで、力まずに難なく超えてしまった(ように見える)

しかも、村上選手の試合後のインタビューを聞くと、素直に喜びを表しながら、「ちょっとねらっていましたけど」と、正直な、巧まざるユーモアも交えていた。
いくぶん子どもっぽさの残るそのリラックスした表情に、わたしはいっぺんで村上ファンになってしまった。

話題は少しそれるが、今朝のNHK「おはよう日本」の「おはBiz」のコーナーで、「災害後の保険金申請につけこむ悪質な仲介業者」がいることをとり上げていた。

契約者(被災者)と保険会社の間に入って保険金申請の仲介をする業者の中に、契約者には高額な手数料を要求する一方、保険会社には過大な額の虚偽の申請をする悪質業者がいるという話題であった。

この中でトラブル発生時、その事案の弁護を請負った経験のある弁護士が、契約者の注意すべき点を語っていた。弁護士の造力宣彦という人である。

わたしは造力氏の話を聞いて、その明快でムダのない話しぶりに惹かれるとともに、この人の若さにも驚いた。
わたしの見たところ、まだ大学生くらいにしか見えない。

将棋の藤井聡太5冠や、大リーグ・エンゼルスの大谷祥平選手の例を引くまでもなく、どんな分野にも、有名無名を問わず、若くて才能を持った人はいるものだ。(もちろん本人の努力もあることは間違いないが)

若くもなく才能もないわたしのやることは、こういった人々への応援しかないではないか。

テレビで大谷選手の出るエンゼルスの試合中継は時折見ても、日本のプロ野球中継はここ何年も見たことがなかったわたしではあるが、これからは村上宗隆選手のいるヤクルトの試合は見なければ、とも思っている。

*写真は東京新聞(2022年8月3日)から


あきらめない雨垂れ

2022-07-15 | 随感・偶感・歳時感

LITTLE THINGS MAKE A BIG DIFFERENCE

これは布製買い物袋の ‘縫い付け表示’ にあった言葉だ。


   


品質表示ではない。なにかことわざのような、名言のような響きがある。

わたしなりに日本語に訳すと、

「小さなことも、たくさん集まれば、大きな変化を生む」

ということになるだろうか。
(THINGSが複数形なので「たくさん集まれば」としてみた)

「塵も積もれば山となる」
「千里の道も一歩より始まる」
「始めの一歩 末(すえ)の千里」
「一人の文殊より十人のたくらだ」
 (何事も大勢で相談すればよい考えが生まれる。「たくらだ」は愚か者の意。
「雨垂れ 石を穿(うが)つ」
 (小さな事でも根気よく続ければ大きな事を成し遂げられる。
      『故事俗信ことわざ大辞典第二版(北村孝一・監修/小学館)の解説による

などのことわざが思い浮かぶ。

「選挙」にも同じことが言えないだろうか。
一票の力は一見無力に見えても、たくさん集まれば、政治を変える。

税金にしても、年金・介護・医療などの社会保障にしても、政治のあり方は実は日々の暮らしに、将来の自分の生活に直結する。

「投票」は政治、いや、生活を変えていく得難い機会であり、貴重な “権利” (生存権)なのだ。

正直なところ、わたし自身無力感を感ずることが多いのだが、どうせ変わらないと棄権するのでなく、自分で求めて見聞きし、考え、この権利を行使したいものだ。

小さい雨粒ながら、あきらめない雨垂れになりたい。


カフェイン妖精の魔法

2022-05-01 | 随感・偶感・歳時感

一日のうちで、わたしがいちばん元気な時間は、朝食後のひとときである。

朝はパン食でコーヒーをがぶ飲みするので(2~3杯)、元気は ‘カフェイン効果’ かもしれない。

食後、歯をみがきトイレを済ませると、身も心もスッキリ爽か。気分も明るくなって、「きょうはあれをしよう。これもしようか」と、自然に意欲がわいてくる。

脳科学者の大島清氏によると、眠っている間には低い体温が、朝目覚めて体を動かすと、徐々に上がってきて、脳の血流が活発になり、気分も高まってくるという。

人は良い睡眠がとれれば、朝は元気になる「体のリズム」を、本来持っているということであろう。

そこにカフェインの覚醒作用が加われば、鬼に金棒(かなぼう)ではないか。

わたしの場合は、朝食後、布団上げや掃除機掛けなどで体を動かしていると、脳裡にさまざまな想念が去来する。

どんな想念かと問われると困るのだが、ときには書きかけのブログ記事を頭の中で推敲したりもするので、皆が皆「雑念」「愚にも付かぬこと」ばかりではない、と言っておこう。

今朝は、参加するか、しまいか迷っていたある会合に、参加することに決め、即パソコンに向かい「出席」の返信をした。

カフェインには心を前向きにし、新たな行動をうながす効果もあるのだ。

シンデレラには魔法使いの妖精があらわれて、王子さまの舞踏会に行けるよう、美しいドレスとガラスの靴、かぼちゃの馬車を与えてくれた。

怠け者のわたしには、毎朝 ‘カフェイン妖精’ がやってきて、やる気アップの “魔法” をかけてくれるのだ。

だが、この魔法は昼の12時には解けてしまう。きょうはあと10分しかない。

急げ、苦労してやっとここまで書いたこの原稿、早く書き終えねば、すべて消えてしまう。

2022.5.1


『歩く人はなぜ「脳年齢」が若いか?』(大島清著/新講社刊)


ナニワイバラとスズラン

2022-04-25 | 随感・偶感・歳時感

ことしも咲きました、わが家の庭に、ナニワイバラとスズランが。

過去の記事をふり返ってみると、この二つ、ほぼ毎年取り上げています。
記事内容も似たり寄ったり・・。

「またか」とおっしゃらず、本ブログの恒例記事としてお許しください。

ナニワイバラは去年だいぶ枝を刈り込んだのに、今年また、元気に花を咲かせました。

たくましいバラです。

 

 

 

   

花びらが、清廉潔白を絵にかいたような白。

ただ花の命は短く、花びらがすぐに散ってしまいます。

でもそれは潔さの証(あかし)。心にやましさがなくたくましい。その上に潔さもある。
わたしもそんな生き方、したいものです。

 

 

 

   

スズランはことしも庭のすみに。

こちらは、うつむき加減で控えめに咲く。

それはきっと、自分というものをしっかり持っているからでしょう。
他人の目を気にして、目立とう、目立とうとばかりしていると、こんな咲き方はできません。

 

 



     

よく見れば、鈴の形も愛らしい可憐な花。

 

 


     

さきほどは、ミツバチもやってきた。
すみっこに咲くからといって、孤独ではないのです。

蜂に蜜をあげ、自分は受粉を手伝ってもらう。自然のサイクルの中に、しっかり組み込まれているのですね。

わが家の庭の初夏のエース二つ、ご紹介しました。


せぼんこ

2022-04-05 | 随感・偶感・歳時感

                    *上の写真はわが家の庭に咲いたシレネ・カロニアーナ(鉢植)。本記事とは関係ありません。


「おとうさん、また、せぼんこだよ」

と、たまに帰省する娘が、食卓などでつい前かがみになってしまうわたしを見て、注意する。
「年を取るとそのまま固まってしまうから、気をつけてね」と続ける。

「せぼんこ」とは、「ねこ背」「背中がまるい」という意味の、わたしの故郷新潟の方言である。

東京と埼玉で育った娘が、なぜ新潟の方言を使うのか。

「小さいころ、わたしもお兄ちゃんも、おとうさんにいつもそう言っておこられていた」からだそうだ。

はるかな昔にわたしが子供たちに放った矢が、今ブーメランとなってわたしに返ってきている図である。

姿勢は見た目の印象を大きく変える。
わたしの矢は「いつも胸をはって堂々としていなさい」という意図で、娘の矢は「いつまでも若々しくいてね」という意味である、としておこう。

 

 

 

    

    散歩道わきの小公園にある「背のばしベンチ」。

       

散歩の途中、ときどきここにすわって、思いきり背を反らしている。

わたしの ‘せぼんこ解消’ に、少しは役立っているであろうか。


心は ‘ピカピカの一年生’

2022-02-23 | 随感・偶感・歳時感

ネイティブの講師を招いて、近くの公民館でやっている韓国語学習サークルに参加している。そこでこの3月から使う新しいテキストを、先日買った。

中古品でない新品の教科書。わたしは今、‘ピカピカの一年生’ 気分である。

この文を書き始めて急に思い出したことがある。
わたしが小学生のころ(大昔)、教科書は無償ではなく、新しい教科書が買えずお兄ちゃん、お姉ちゃんの「お下がり」を使わざるをえない子がいた。
(昭和30年頃、当時はわが家も含めて一般的にみな貧しかった)

お下がりの教科書と新しい教科書は、部分的にところどころ違っていて、古い教科書の子の授業中の申し出で、それが分かった。

わたしはお下がりの教科書を使った記憶はないが、使わざるをえなかった子は、卑屈な思いをしていたのかもしれない。

思い出しついでに、もう一つ思い出を書いておくと、わたしはランドセルがお下がりだった。
革がくたくたで軟らかく、色ムラとシワのある象色(灰色)のランドセル。(おそらく新品のときは黒だった)

わたしには兄がいないので、どこか知り合いから母が譲り受けたものであろう。

わたしはそれが嫌でダダをこねたという記憶はないが、そのランドセルの色や形状を半世紀の余も経た今も憶えているのは、何がしかの強い思いをそのとき懐いたからにちがいない。
(それを6年間使い続けた)

今、わたしはピカピカの韓国語テキストを買った。しかしこんどはわたし自身が年をとって、かなりくたくたである。
しかたないから、3月からは、

 見た目はくたくた 心はピカピカ

で行こう。

2022.2.23


2022今年のわたしの漢字は「捨」

2022-01-10 | 随感・偶感・歳時感

2022年、今年の「わたしの漢字一字」は「捨」にしようと思う。

‘断捨離’ の捨、‘捨てる’ の捨である。

何を捨てるかというと、わたしの場合、本と雑誌と書類。

本は6~7年前にかなり大量に処分したことがあった。しかし思い入れがあって捨てられなかった本、「いつか読みたい」と思って残し、まだ読めてない本が少なからずある。

雑誌は基本的には捨てているが、例えば「サライ」など、読みたい記事だけ残してほかのページはやぶり取り、表紙とともに保存しているものもある。

書類にいたっては、新聞・雑誌の切り抜きからサイトのプリントアウトまで、さまざまなものが長年溜まる一方で、それを見返したことなどほとんどない。

冷静に考えてみればわたしは、それらを使って論文を書いたり小説を書いたり、何かクリエイティブな作業をするわけではないし、その力も時間もない。
(一部このブログを書くのに役立ったものはある)

捨てることは、わたしの経験からいっても、重い荷物を下ろすのに似て、気持ちもスッキリして楽になる。
また古いこだわりを捨てることで、新しい情報が得やすくなる効果もあるように思う。

「積んどく」から「捨」へ、「重」から「楽」へ、そして「古」から「新」へ。・・今年はそんな年にしたい。
と、ここで宣言しておこう。少しは「捨」を掲げたわたしへのインセンティブ(やる気への刺激)になるか。

*写真は散歩道で見つけたスイセン。本記事と関係ありません。


力まずに季節の装いを

2021-12-08 | 随感・偶感・歳時感

木の腹に穴が開いていました。

向こう側が見えます。

 

 

 

 

反対がから見ると、こうなっている。

この木となら、腹を割って話せそう。

実はこの木、春には真っ白な花をたっぷり咲かせるハナモモの木です。

幹にひび割れのあるいわば老木ですが、それを気に病むでもなく(アタリマエダ)、頑張ってやっているというのでもなく、力まず淡々と、年々歳々季節の装いを見せてくれるところがスバラシイ。

あちこちにガタが来ているわたしも見習わねば・・。

虚偽も隠蔽もなく、美しい - 興趣つきぬ日々 (goo.ne.jp)


部分月食

2021-11-21 | 随感・偶感・歳時感

今朝6時半ごろ、明るくなり始めた西の空に見えた月。

おととい(19日)が満月。二日後のきょうも、ほとんどまん丸のままです。

 

 

 

   

おとといは部分月食の日でした。

これは夕方6時ごろ、東の空に見えた月。

右下の一部だけに太陽の光があたっていて、ほとんどが地球の陰にかくれています。

「部分」といっても、今回の月食は月の98パーセントがかくれる、皆既月食に近い月食だったようです。

鮮明さに欠ける写真ではありますが、記録としてアップしておきます。


いつ歩くか・・散歩の時間

2021-11-19 | 随感・偶感・歳時感

今の時季、一日のうちのいつ、ウオーキング(1時間ほどの散歩)をしたらいいか迷っている。

‘スポーツ人間’ でないわたしには、散歩・ウオーキングだけが唯一の運動である。
実際、歩くと空腹感を感じるし体調も良くなる。ゆるやかな有酸素運動・筋トレにもなるので、老化防止にもつながりそうだ。

これまで春から夏にかけては、ずうっと早朝5時過ぎの朝食前に歩いていた。
しかし今、秋も深まり、11月も半ば過ぎとなっては、朝5時過ぎではまだ暗く、しかも寒くて歩けたものでない。


代案として朝食後、昼食前、昼食後、夕方などが考えられるが、午前中は朝食にコーヒーをがぶ飲みするので、トイレの近いわたしはあまり外に出たくない。

昼食後は昼寝をしたいし、昼寝をしてから散歩に出ると、午後が全部つぶれてしまうので、まとまった仕事ができない。(たいした仕事はしていないが)

夕食後は、夕食に晩酌するので、あと諸作業は期待できない。

上の写真はきのうの夕方(4時半ごろ)の空。
夕方、夕食前に歩くのは有効な一法ではあるものの、うす暗い田舎道は総じて退屈である。

と、散歩できない理由を縷々述べてしまった。

無能な人間ほど「できない理由」を並べ立てる、とはよくいわれること。
意志あるところに道は開けるともいう。

朝のコーヒーがぶ飲みをやめるか、昼寝をやめるか、それともほかにいい方法はあるか、わたしの意志と覚悟が今問われている。(ちょっと大げさか)


政治にしかできない手を国民に

2021-10-18 | 随感・偶感・歳時感

今朝、わが家の菜園からサトイモとサツマイモを、菜園管理者の家内を手伝って収穫してきた。

サトイモは先日すでに1株収穫しており、きょうは3株収穫。

 

 


  

根がよくはっていて、サトイモは今年は豊作である。

シャベルで根の周りを広く深く掘り進み、根をできるだけ切らないようにするのが、根の中の多数のサトイモを傷めないコツである。

 

 

 

  

サツマイモも今年2回目の収穫。

サツマイモは1回目もそうだったが、1株に大きいのが一つあって、あとは小さいのがいくつかついているという状態であった。
残念ながら不作といっていいだろう。

サツマイモは本来、肥えていない土地でも育つといわれるほど強くたくましい作物だが、今年この畑は肥料がたっぷりだった。
にもかかわらず、どのイモもそれぞれが大きく育たなかった。

それはいったいなぜだろう。菜園素人ながら愚考するに、多くのイモたちが現状の恵まれた環境に甘んじてしまったからではないか。
地中の養分を自分で必死に吸い取ろうという真剣みに欠け、みずからを太らせようという努力を怠ってきたのではないのか。

唐突ながら、今の政治もこれと同じ状況にあると思う。
コロナ対策にしても、所得格差拡大にしても、実質賃金の低下にしても、国民のほんとうに必要なところに、政治にしかできない手(養分)が届いていない。

政治の世界では、 ‘一強他弱’ を当然視し強者に媚びるばかりで、現実の庶民の暮らしが見えていない政治家が多すぎるように思う。
現実を直視することによって解決すべき問題点を把握し、それを具体的に、ねばり強く調整、改善していく人が、今の国会議員の中にいるのか。わたしは寡聞にして知らない。

国民も、テレビなどの皮相な情報に流されるだけで、自分なりの問題意識を持つ人が少なすぎるように見える。
投票に行かない人も多く、結果として現状を容認し、緊張感のない政治を許してきたのではないか。(などとフト考えた)


それはともかく、掘りたてのサツマイモは地中の湿気がまとわりついて、それが朝日に照らされ、赤紫色がとてもきれい。(上の写真)

 

 

 

    

家に帰ってきて、日陰に干したところ。