prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「エジソンズ・ゲーム」

2020年07月04日 | 映画
いったん完成してから製作者ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ・パワハラ(というか、完全に暴行脅迫)が明るみに出て名前を外して再編集しディレクターズ・カットができたのが2017年、日本ではさらにコロナ禍で公開が遅れやっと公開にこぎつけられたいわくつきの映画。
製作にマーティン・スコセッシが名を連ね、スコセッシ作品の編集者セルマ・スクーンメーカーの名前もエンドタイトルの謝辞の相手として認められる。

とはいえ全米に電力網を敷くのに直流電流派のエジソンと交流電流派のウェスティングハウスとのいわゆる電流戦争というモチーフをよく取り上げたと思う。

エジソンの天才は誰もが知るところだが、直流にこだわり交流を否定する偏りや歪みが強調されていて、一方で実業家ウェスティングハウスの途中までのフェアな態度と対照的。

しかしウェスティングハウス側もビジネス戦争状態になってくるとそうも言っていられず手を汚すことになるが、描写自体が戦争モードに振り切っていない割に人命尊重の理念も入っているのが煮え切らない感じを残す。
初めエジソンの研究所にいた二コラ・テスラが結局ウェティングハウス側についたり、投資家J・P・モルガンも同様の動きを見せるあたりも同様。

カンバーバッチは偏った天才ぶりはお手の物なのと、いかつく怖い役をやっていることが多いマイケル・シャノンをむしろ逆の役に振った工夫。

エジソンの発明には映画もあるわけだが、ただどちらかというと一人づつ個別に覗くキネトスコープを構想していたので、がらも大映写を大勢で見る形式はむしろリュミエールにお株を奪われた感だったので、つまりビジネス化には電流戦争同様に失敗しているわけでラストのまとめ方は若干強引。

交流電流の危険性を証明するのに動物で実験するというのはエグい(例のこの映画では動物は傷つけられていませんという定番のタイトルがラストに出る)が、その対象になった数々の動物をフィルム状のコマ割で見せのそのあげくに電気椅子で人間の死刑が実施されるのは、電流と映像が共に二十世紀を(必ずしもいい方にではなく)変えたという意味を重ねているのだろう。

音楽が電子音楽ががんがん入ってきて、画作りもデザイン自体は19世紀末のクラシックムードをデジタル技術で思い切りスケールアップしているのは古い革袋に新しい酒を入れたというところ。

シカゴ万博の光の洪水は映画「私の二十世紀」のようでもあるし、またこういう万博が人類と科学の進歩を無邪気に称揚する場でありえたのは二十世紀までのことだとも改めて思った。