スマートフォンの音楽をイヤホンで聞くのにカップルが左右で分けて一つづつ耳に入れて聞くのは音楽を聞いていないのと一緒だ、というセリフが何度も繰り返される。
まず有村架純と菅田将暉の主人公カップル二人がまだ知り合う前に、すでに偶然同じ場所に居合わせて傍らにいるカップルにそれと気づかないまま同じことを思って別々に口にする。
後になって同じことを通りすがりのおっさんがいつの間にかそうやって聞いていた二人を叱って言う。
この二人の恋物語を追うのにあたって、観客は両方の立場と解釈を通して同じなのだけれど微妙に違っていて、だからからこそある恋愛の風景を立体的に体験することになる。
それはやはり作中のセリフでいかにミュージシャンやミキサーが苦心惨憺してステレオ録音の作業で音を立体的に組み上げていくかの熱弁が繰り返されることで、わかりやす過ぎるくらいわかりやすく示される。
わかりやすい、といったら、クライマックスのファミレスの会話で菅田将暉を画面の向かって左、有村架純を右に置いていたのを、決定的なセリフをきっかけに左右がひっくり返る。あれで、この恋の着地がはっきり見えた。
傍らに置いたカップルの扱いも、あんなに隣の会話がはっきり聞こえるものかなとは思うが、一種のイリュージョンと取ればいいのだろう。
二人のナレーションでその感じ方の違いが豊かな言葉で綴られる。二人がかなりの読書家というのも生きている。
大学生から社会人になる時期が切り取られ、さらにフリーターから正規採用へと変遷するのだから甘い恋愛オンリーの生活から厳しい(それも不当に厳しい)現実原則に適応せざるを得ないわけだが、ありがちな夢と現実の対立を描きながら、何をやっているのかよくわからない割に羽振りがいい会社の人間も見せて、一人前の社会人というのもかなり曖昧なものだと思わせもする。
圧迫面接する面接官や、パワハラする取引先などはセリフの中だけで描かれる。
前面に出すと映画自体が現実原則寄りになりすぎるから恋物語に描写を絞る配慮だろう。
大学を出たら正社員として就職してほぼずっとその会社で働くといった職業感しか持たない二人の親世代からすると、ゲームソフトで当てているような遊びとごっちゃになっているように見える仕事は理解不能だろうし、そういう倫理感は子供たちも持ってはいる。
二人の価値観や好みのコントラストでドラマを作るといった常套手段は周到に避けられ、むしろこれくらい好みや価値観が重なるのは珍しい。
それだけに少しの違いが際立ちもする。
スティーブン・キングがよく使う手だが、さまざまな本や映画、ゲームなどが実名でばんばん出てくる。これ本当にある本かな、と思うようなのも実在するのがエンドタイトルでわかる。
単純に現代のようにさまざまなカルチャーが共通体験になっている世界ではリアリティーを高める方法でもあるし、そういうカルチャーを享受すること、いわゆる現実とは別の世界を過ごすことが当然になっている時代を二人が生きていることも示す。
というか、この二人、あまりスマホをいじらない。二人とも文庫本持っていて何を読んでいるか見せっこするなど、今どきの若者としては珍しいだろう。
くたびれるとマンガも読めなくなりスマホゲームをやっているだけというのをセリフで言っている。
初めの方で有村架純が腕時計を見るところがあるが、こちらは長らくスマホを時計として使っていて腕時計など持っていないので、おやと思った。
初めの方で菅田将暉は学生時代はMacbookを使っていたのが、途中からdynabookなど、使うパソコンが安いものになっている。
学生から社会人になったら高いものになりそうだが、Macを使っていたのはイラストを描く関係もあったのだろうが、それが続けられなくなる経済的事情が見える。イラスト3枚千円って、ナメとんのかと思う。
小林薫の父親から仕送りを受けていたのがわかるのは芸が細かい。
花束みたいな恋、というと何だかキラキラ映画(というのも曖昧な言い方だけれど)みたいなタイトルだが、別々の花がまとめられた、二つの別人格がまとめられた状態のことを表しているように見ているうちに思えてきた。