prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「火事だよ!カワイコちゃん」

2017年12月17日 | 映画
「カッコーの巣の上で」「アマデウス」のミロシュ・フォルマン(英語読みではミロス・フォアマン)監督のチェコ時代の1967年作。この翌年の1968年のプラハの春とそれに続くソ連の弾圧を機にアメリカに亡命するほぼ直前。
「消防士たちの舞踏会」の別タイトルがあり、NHK-BSで放映されたことあり。

「カッコーの巣の上で」で見せたキャスティングの上手さ、アンサンブル演技の引き出し方の巧みさがここですでに見られる。
フェリーニとまではいかないけれどさまざまなタイプの型にはまらない「顔」を取り揃え、ほぼ消防署内で展開するドタバタを淀みなく整理して捌いていく演出力は一級品で、アメリカに移住しても応用がきいたわけだと思う。

消防署といっても出てくるのは年配の爺さまたちばかりで、主催する前署長の勤続50年記念パーティーも余興のミスコンが主役みたいになってしまい、しかも準備も運営もぼろぼろ。
集まる女の子たちがまた微妙な容姿揃いで、隙あらば逃げようとしたり母親がべったりくっついて邪魔で仕方なかったりとちっともうまく運ばないのが笑わせる。
共産圏らしく(失礼)服装がまたダサい。

消防署のくせに署内で火事を出してしまうのがメインタイトル前で、パーティーにうつつを抜かしているうちによそで起きた火事に気づくのが遅れるのだからヒドいもの。
くじ引き用の景品がちょっと目を離した隙に消えてしまうギャグや、盗んだ署員!がこっそり返しに行こうとしてバレてしまったら、署員たちが今度はもみ消しにばかりむきになるあたり、共産圏の官僚制の無能と無責任の風刺には違いないのだろうけれど世界的に通用する話だろう。
(☆☆☆★★★)



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火事だよ!カワイコちゃん [DVD]
監督 ミロシュ・フォルマン(ミロス・フォアマン)
エプコット

12月16日(土)のつぶやき

2017年12月17日 | Weblog

「ザ・サークル」

2017年12月16日 | 映画
エマ・ワトソンというキャスティング自体がひとつの狙いなのだろうなと思わせる。当人がすごい数のフォロワー(現在Instagramで4000万人を超す)を持つSNSを使っていて絶えず注目されているのだから。

プライバシーのすべてを絶えずさらけ出し、さらに演出をエスカレートさせて注目を集めようとする一般人というのはいくらもいるわけだが、自然に注目を集めている人がすーっと監視社会化に協力というか共犯者化していくのはかなり説得力があって怖い。監視社会化というのは企業なり公権力がするとは限らないわけだ。

ものすごくセリフが長い。トム・ハンクスのIT業界のカリスマ経営者のプレゼンが滔々として調子がよく長広舌を展開するのはもちろん、ヒロインも淀みない論旨明快なスピーチで人気を掴む。
さらにSNS使用を表現するシーンになると、LINE風の字幕が絶えずかぶさって、文字・言葉の情報で画面とサウンドトラックを埋め尽くす。情報というのはまだかなりコトバが主なのかなと思う。

後半の展開がかなり拙速で型にはまっているのが惜しい。
(☆☆☆)

「ザ・サークル」 公式ホームページ

「ザ・サークル」 - 映画.com



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12月15日(金)のつぶやき

2017年12月16日 | Weblog

「厳重に監視された列車」

2017年12月15日 | 映画
1966年製作のチェコ映画。イジー・メンツェル監督の28歳の時の長編デビュー作。

第二次世界大戦中ナチス占領のチェコのど田舎の駅周辺を舞台にしているのだが、ナチやパルチザンが出てきてもおどろおどろしい調子ではなく、「つながれたヒバリ」「スイート・スイート・ビレッジ」などでも見せたメンツェルらしいのんびりしたユーモアが魅力。ときどきナチスの例の服装の男たちが出てくるので、状況を思い出すくらい。
ラストのくくり方もタッチとしては淡々としたもの。

主人公の駅員の少年が車掌をしている彼女とキスしようとするとすーっと列車が動いて離れて行ってしまうといった調子。
童貞だったり早漏なのを悩むのに、社会主義関係ない。というか、政治的抑圧より当人にとってはつらかったりするのかなと思わせる。

出てくる女性たちがみんな美人。

厳重に監視された列車 - 映画.com



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厳重に監視された列車 イジー・メンツェル監督 [Blu-ray]
IVC,Ltd.(VC)(D)

12月14日(木)のつぶやき

2017年12月15日 | Weblog

「夜のダイヤモンド」

2017年12月14日 | 映画
1964年製作のチェコ映画。監督ヤン・ネメッツは1936年生まれだから、この時28歳(2016没)。
フランスでのヌーベルバーグやポーランドのワイダなどの登場など、世界的に一斉に若者たちが内容も表現も新しい映画をひっさげて登場してきた動きの産物のひとつだろう。

冒頭、列車から飛び降りた十代の少年ふたりが野山を走って逃げるのに、追う男たちの声と銃声がかぶさる中えんえんたる移動撮影で追っていくところから極端にセリフが少ない一見直線的な追跡劇かと思わせて、ぱっぱとその中に鮮烈な調子で異質なカットが散りばめられていく。

それらのカットは回想のようでもイメージのようでも未来のようでもあって、映画の進行につれて次第にカット構成が行きつ戻りつ式に複雑になり、死の直前にきれぎれの記憶が限りなく引き伸ばされていくような時間感覚を持つようになる。地を這うような少年たちを描きながら映像感覚はきらびやか。

銃声の主は人間をビールを飲むのと同じ感じで面白半分に狩る老人たちで、同じようなパンを食べても少年たちは吐き出してしまうのに、老人たちはもぐもぐ食べてしまうなど、グロテスクなコントラストを見せる。

個々の具体的な物を同時にシンボリックに見せるのは白黒映像ならでは。蟻がびっしりたかった手のアップなど「アンダルシアの犬」っぽい。

カメラ担当にミロスラフ・オンドリチュクの名前がある。のちにアメリカに渡って「アマデウス」などの撮影監督を務めた人。
(☆☆☆★★★)

夜のダイヤモンド - 映画.com

Démanty noci -
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12月13日(水)のつぶやき

2017年12月14日 | Weblog

「江戸川乱歩と横溝正史」中川右介

2017年12月13日 | 
江戸川乱歩と横溝正史という日本探偵小説の二大巨人が単純な作家として先輩後輩というだけでなく、ともに編集者や翻訳家の経験があって仕事上の関わり方がさまざまに変化していくのを豊富なデータの裏付けとともに描いていく。そのため一種のすれ違いのようになり、共に作家として旺盛な活動をしていた時期というのがごく短いというのが面白い。

また出版社の出自や経営陣の交代推移が細かく描かれ、それが彼ら作家たちと互いにどういう影響を与えたか立体的に描かれているのも興味深いところ。
日本近代史と出版史、推理小説史を横断した一種の年表としての読み方もできるだろう。

さらに海外の推理小説の影響も横糸として随所に描かれる。乱歩、横溝の両者ともに翻訳ができるくらい語学力があるのも一見おどろおどろしい内容と裏腹なようで本格推理小説の本質的な論理性とつながっているのだろう。

また推理作家には詩人出身の人がかなり多いというのも面白い。戦後の一連の少年もの読み物は乱歩の作品で一番読まれたはずなのにエアポケットのように入手も難しければ論じられることもないという指摘に、そういえばそうだなと思う。

12月12日(火)のつぶやき

2017年12月13日 | Weblog

「イーダ」

2017年12月12日 | 映画
1962年、アガタ・クレシャ扮する修道院育ちの孤児のイーダが唯一見つかった叔母(アガタ・チュシェブホフスカ)の元を訪れ、自分のユダヤ人という出自と両親の運命を知っていく。
叔母がどんな仕事をしているのか、連れ込んだらしい男と寝ていたりするから、かなり怪しげな仕事なのかと思ったらなんと判事。しばらくの間、別の人かと思った。
後でわかってくるが、おそらく当時のポーランドの法制度の欺瞞の象徴であるとともに、叔母が人を裁ける人間だとは思えずに自分自身を裁くことになるのが、この判事という設定だろう。

説明を切り捨て描写の積み重ねから次第に状況がわからせて、しかも混乱や誤解をさせないブレッソンを思わせる厳格なスタイル。1時間22分という短さの中に凝集した表現。

ウカシュ・ジャルとリシャルト・レンチェウスキの白黒撮影が素晴らしく、かちっとした構図と微妙な諧調が、イーダがそれまで住んでいた無菌状態のような世界を表現する。
それが叔母と一緒にさまざまな汚辱にまみれた俗界を見て回り、自分が背負っているポーランドの歴史と、そこで生きてきた人間たちのさまざまな罪を知り、西側のジャズ(コルトレーン)かぶれの青年と出会ったりしていくうちに、俗界と無縁ではありえない自分を見つけていく。

俗界を知った目で見ると、禁欲的なような僧院の中で裸を見せないように薄物をまとったまま湯を浴びて身体を洗うような尼僧の身体の線がかえってくっきりと見えたりする。

ほとんど固定ショットの積み重ねで通してきて、ラストで街を急ぎ足で歩くイーダについてカメラが移動するのに続き、田舎道を歩くイーダを後退しながら手持ちのぐらぐらする移動で追っていく演出計算があからさますぎるくらいだが効いている。
イーダは仮に尼僧院に戻っても、これまでのようにイノセントではいられないし、それは避けられないことだとカメラが語る。

エンドタイトルで「惑星ソラリス」でも有名なコラール≪主イエス・キリスト、われ汝を呼ぶ≫ BWV639がかかる。
(☆☆☆☆)

イーダ 公式ホームページ

イーダ - 映画.com



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イーダ DVD

監督 パベウ・パブリコフスキ
主演 アガタ・クレシャ

12月11日(月)のつぶやき

2017年12月12日 | Weblog

「パーティで女の子に話しかけるには」

2017年12月11日 | 映画
イギリスの荒廃した公営住宅のロケ効果が効いていて、反抗的な主人公が母親にカネをせびるのを母親の相手の小金持ちの男に「ママの金で革命か」と揶揄されるように、日本にも当然通じる閉塞感と解放先のなさがバックに貼り付いているみたい。

そこからいきなり宇宙人の話に飛躍するのが荒唐無稽な一方で、身についているパンクな感覚の自然な延長先のようでもある。
観客を選ぶようで、意外とセンチメンタリズムとか可愛らしさ(「ミルクみたいな肌」のエル・ファニング)とか笑い、音楽センス、そして伏線の張り方とその回収と見せる技術はかなり伴っています。

宇宙の七つの要素を色分けして見せて衣装にも反映させているデザインのセンス。ときどき「時計じかけのオレンジ」っぽくなる。

七つのうち核になる、ヒロインの色でもあるグリーンが象徴する要素を日本語字幕で「心臓」と訳すのはどんなものか。「ハート」でいいのではないか。
(☆☆☆★)

パーティで女の子に話しかけるには 公式ホームページ

パーティで女の子に話しかけるには - 映画.com



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12月10日(日)のつぶやき

2017年12月11日 | Weblog

「希望のかなた」

2017年12月10日 | 映画
シリアからの妹と生き別れになっている若い移民の話と、シャツの卸売をしているフィンランドの初老の男の話とがかなり長い尺をとって平行して交互に描かれる。

移民問題を扱ったドラマとするとこの二つが交錯するまでが長すぎるとも言えるけれど、話を運ぶよりは一つ一つの場面のゆっくりした感触と間合いから来るユーモアそのものを味合うのことになるのがアキ・カウリスマキらしい。

その中でひどく異質なのが人種差別主義者の集団の硬直した精神と行動で、その違和感から来る不快感と共に、連中のアラブ人とユダヤ人の区別もついていない馬鹿さ加減がじんわりとおかしい。

さらにフィンランドみたいに「進んだ」ように見える北欧国でも異人に対する公的な、まわりくどくもっともらしい排斥政策がとられているのもわかる。

カウリスマキ作品ではエンドタイトルに「雪の降る街を」が流れる「ラ・ヴィ・ド・ボエーム」があったが、初老の男が経営するレストランが客寄せに(軽薄にも!)スシ・バーに衣替えするヘンテコな日本趣味がかなりわざとのよう。
インテリア代わりに買っていく日本の本が池波正太郎の「真田太平記」や藤沢周平の「孤剣 用心棒日月抄」の、それも文庫本だったりする。三省堂のブックカバーがかかったままになっている本も置いてあるのもおかしい。
(☆☆☆★★)

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