prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

3月5日(火)のつぶやき

2019年03月06日 | Weblog

「THE GUILTY ギルティ」

2019年03月05日 | 映画
全編、緊急通報センターから一歩も出ず、音だけで進行中の緊急事態を表現しそれに対する警官の応対を描くという一種の実験映画。

このところ何本も出ている何十分もの長回し映画や「search」のようにPC画面だけで構成された、映像=音響技術の発達と一般化に対応した映画のひとつ。

ただ、それがなぜ「THE GUILTY ギルティ」(デンマーク語原題 Den skyldigeも同じ有罪という意味)というタイトルになるのだろうと思っていたら、見れば意味がわかるようになっていた。
つまり姿が見えない相手にひたすら耳をすましてその存在の意味を探る、一種の告解の図になっているみたい。

主演のヤコブ・セーダーグレンという役者はまったく馴染みがないけれど、全編ほぼ一人芝居で、じいっと集中して耳をすませている、能動的には何もしていないように見えて緊張感が切れない、警官としての公式の役割とそれをはみ出る部分を正確に表現する演技は優れたもの。

THE GUILTY ギルティ - 公式ホームページ

THE GUILTY ギルティ - 映画.com


3月4日(月)のつぶやき

2019年03月05日 | Weblog

「エタニティ 永遠の花たちへ」

2019年03月04日 | 映画
監督のトラン・アン・ユンはベトナム生まれとはいえ、ベトナム戦争を逃れてフランスに移って育った人だからベトナム系フランス人、それもヨーロッパ的インテリの教養人というのがデビュー作「青いパパイヤの香り」からの印象だった。
それが最も完成した形で結実したのがこの作品ということになるだろう。

とにかく撮影・美術・衣装の美的完成度は圧倒的でスローモーションを挟みながら流麗な流れを崩さず簡潔なスケッチを重ねナレーションであらかじめ決められたことのように人生を綴っていくスタイルは、キューブリックの「バリー・リンドン」を思わせたりした。

大きく違うのは主人公が女性であり、夫や子供たちの一部を先に亡くしながら次第に大勢になっていく家族の背景に退いていくという構造になっていて、人生の初めや終わりといった句読点をそれほどはっきり打たず、幸福な場面も不幸な場面も区別しないでひたすら美しいというあまり例のない作り方。
それだけ淡々としているわけでもあって、やや眠くなるが。

「エタニティ 永遠の花たちへ」 - 公式ホームページ

「エタニティ 永遠の花たちへ」 - 映画.com

3月3日(日)のつぶやき その2

2019年03月04日 | Weblog

3月3日(日)のつぶやき その1

2019年03月04日 | Weblog

「サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所」

2019年03月03日 | 映画
上映時間は82分という短さ。ミュージカル形式だとミュージカル・ナンバーとストーリー部分が両方入るから時間が伸びる傾向がある中でこのコンパクトぶりは珍しい。

実際、「glee」みたいにミュージカルナンバーはおおむねイメージ=心象風景として現れ、それ自体をショーアップするのが目的ではないのと、ストーリー自体はすごく単純で作った綾といったものはほとんどない。

冒頭、亡くなった父親の棺に置かれる百合の花、という映像からゲイであることが直感できるあたりわかりやすいし、その後も視覚的な花のモチーフは階段に積もった色とりどりの落ち葉を含めて繰り返されることになる。

金持ちのゲイが金で体を買う段になるといきなり態度が横柄になって紙幣を床に放るあたり、経済的格差が性差を凌駕する構造を端的に見せる。

LGBTQに対する差別、無理解、苦悩、仲間を得た悦び、といった要素が短い中に整理されて入っていて、最終的に自分を隠さが肯定するに至る締めくくりは強いてドラマチックに盛り上げないが、ダンサー体形とは限らないそれぞれ個性的な肉体のLGBTQたちが踊る実物の映像が流れるエンドタイトルがものをいうことになる。

「サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所」 - 公式ホームページ

「サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所」 - 映画.com

3月2日(土)のつぶやき その2

2019年03月03日 | Weblog

3月2日(土)のつぶやき その1

2019年03月03日 | Weblog

「七つの会議」

2019年03月02日 | 映画
「マルサの女」以降の伊丹十三作品を思わせる大仰な顔相撲と呼ばれたりもする誇張された顔のアップ、オフィスのセットも背景の人数も大がかりな製作体制を敷いて望遠で圧縮して撮ったりしてボリュームアップ、外景ではドローンを飛ばしたやはり思い切り身振りの大きなカメラワーク、と基本的に静的になりがちなオフィスのサラリーマンものをメリハリをつけて見せて飽かせない。

御前会議のシーンに至っては、「未来世紀ブラジル」に対するカラーによる表現主義の再現、という評が何度か頭をかすめたくらい。
ただ、予告編だとなんて臭いんだろうと思うようなセリフや芝居が出来上がった流れで見ると自然に収まっている。

豪華キャストはいいのだけれど、本当にちょっとした役に主役級の役者をばんばん使ったもので逆に、え、これだけと思うところ多し。脇を固める役者がいないのかと逆に思ったくらい。

伊丹十三で思い出したが、伊丹は会社を舞台にした映画を作ろうとも考えたことはあるが、サラリーマンというのは基本的に仮面をかぶっている存在だから役者が役として表現するのと本質的に矛盾するのでやる気にならない、という意味の発言をしていたが、これは思いきってその逆をいって役者がサラリーマン「らしさ」にあえて逆らって仮面をかぶっている観客の代わりに仮面をとって思い切ってキャラクターを発散している感もある。

偽装と隠蔽と腐敗の連鎖というのは本当になくならないだろうし、マスコミだの司法だのをあてにもしていない、それらも上意下達の論理で動いている組織に過ぎないという常識の上で、昔の社会派映画のように敗北の情緒に浸らず陥らずしぶとく最終的に一縷の正義は手放さないのが、今の社会派ないし会社映画ということになるのだろう。

グータラ社員以外の何者でもない野村萬斎が、出世コースから外れているからこそ組織の論理に絡めとられないで一種の第三者機関、外部監査に近い役割を果たす。

朝倉あきが顎のホクロとか馬鹿に若い時の南野陽子に似て見えた。

「七つの会議」 - 公式ホームページ

「七つの会議」 - 映画.com

3月1日(金)のつぶやき

2019年03月02日 | Weblog

2019年2月に読んだ本

2019年03月01日 | 
prisoner's books - 2019年02月 (20作品)
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2月28日(木)のつぶやき

2019年03月01日 | Weblog