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チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

ゴッホ「花咲くアーモンドの枝」から

2014年06月10日 | 日々のこと

曇、26度、86%

 ゴッホの「花咲くアーモンドの枝」を観たのは、2年前、みぞれ混じりの雨の降る寒い12月のことでした。何十年ぶりに訪れたアムステルダム、ゴッホ美術館はあいにく改装中、運河の側に建つエルミタージュ美術館に場所を移しての展示が行われていました。香港を経つ前から体調が思わしくなかった主人が、一晩明けると更に良くありません。申し訳ないとは思いながら、主人を一人ホテルに残してエルミタージュ美術館に向かいました。開館時に着いたにもかかわらず、すでに人の列が出来るほど人気が高いゴッホです。

 さて、どんな作品に会えるか、皆目見当もつきません。ゴッホは同じ題材で何枚もの絵を描いた人ですから、同じように見えてもどこか違っていたりします。ほかの美術館で観たものに再び会うこともあります。長い列にそって歩くうちに、一枚だけ絵がかかっている部屋がありました。ゴッホの持つ色の具合とは異にしています。青緑の背景に、一瞬「桜!」と日本人の私が思ったその絵が、「花咲くアーモンドの枝」でした。枝の反り具合が、桜のそれとは違います。日本を離れて20年を越す私は、桜の花を焦がれる気持ちが年々強くなって来ています。そんな思いもあってか、このアーモンドの花には見入ることになりました。

 ホテルに帰って調べてみると、アーモンドは桜科の植物です。花が同じように見えるのも無理からぬことです。この「花咲くアーモンドの枝」は、ゴッホが亡くなる約半年前に、唯一ゴッホの理解者であった弟のテオに産まれた初めての子供に贈った絵だと知りました。青緑色の背景のアーモンドの花は、こうして桜花とも重なり私の胸に残りました。

 この4月は、私の桜とも思える桜に30年ぶりに会うことが出来ました。そんな4月の終わりごろ、モモさんと散歩の途中、オープンしたばかりの小さな洋服屋の前を通りました。春夏物のワンピースばかりが並んでいます。香港は今こうして小さなブティックが、セントラル界隈には多くあります。モモさん連れですから、ウィンドー越しに見ていると、「あら、桜!」 と思うプリントのワンピースが目に留まります。翌日、早速私ひとりで出かけました。薄い薄い生地です。こうした小さな洋服屋さんでも以前とは違い縫製がしっかりしています。裏地も付いて、スカート部分にはペチコートまで着いています。それになんといっても小さい私にぴったりのサイズです。こうして、「桜」のワンピースを手にして戻ってきました。

 ノースリーブの薄手のワンピース、5月半ばにマンダリンホテルの夕食時に初めて着ました。実は私がプリントものの、しかも花柄など着るのは珍しいことです。少し驚いている主人に、「桜!」と告げました。生地と同じように、心までフワッと軽くなるワンピースです。タンスに仕舞うとき、この桜の枝振りに目が留りました。「あら、桜ではない。」この枝振りは、そうです、ゴッホの絵で観たアーモンドのそれと同じです。

 桜と思って求めたアーモンド柄のワンピース、この夏はこのワンピースを着ることが多くなりそうです。あのゴッホの「花咲くアーモンドの枝」と日本の桜を偲ぶ私の気持ちが、このワンピースとの出会いを導いてくれたようです。

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小津安二郎を観る

2014年06月09日 | 映画

雨、25度、86%

 テレビの前に2時間近くもじっと座っているなんて、普段はなかなか出来ません。主人でもいれば15分座っているのがせいぜいです。やれ、お茶だ、やれ、眼鏡だ。自分一人のとき、時間を作ってテレビの前にドンと座ることがあります。年に2回ほど、小津安二郎のDVDを観るためです。出来たら、外は雨降りの方がいいですね。

 小津安二郎という映画監督の名前は知っていましたが。私が2、3歳の時にすでに他界した監督です。実際に映画を見たことはないままでした。十年ほど前でしょうか、何かの映画書評に小津の「彼岸花」のことが書かれていました。この映画が小津のカラー作品の第一作目です。その書評は、小津のカラー映画全般にいつも書かれる色彩の妙について書かれています。ご存知の方も多いでしょうが、必ずといいていいほど、赤がうまく使われているのです。昭和30年代初期の日本の家庭の中に赤という色は稀な色として写し出されています。朱の利いた湯のみ、赤い薬缶など。そこで、片っ端から小津の手に入る作品をDVDで買い求めました。そのうち、日本でも小津ブームが復活したかのようにいろいろな企画が催されていました。香港にも、小津の一連の作品が紹介されたのはその頃です。

 よく小津の作品は同じようなものばかりでと聞きます。これだけ繰り返し観ているのに、未だに作品名と作品の区別がつきません。あまりにも、カラー作品の赤のことが取沙汰されるので、最近観るのは専ら白黒映画ばかりです。白黒だと自分で想像して、色を映画の上にのせることが出来ます。老夫婦が見上げる空に高く高く舞い上がって行く風船の色を、やはり赤かしらと思うこともあれば、青かなと思うことも出来ます。カラー映画だと、明らかに誰々の手になる湯のみだと分かるものでも、白黒映画だと土瓶に描かれた大きな丸は焦げ茶かしら?鉄赤もいいわといった具合です。

 ただ、女優たちの着る着物に関していえば、やはりカラーに越したことはありません。山本富士子が着る紅型の色合い、杉村晴子が着る琉球がすり、上物ではない普段着の着物のよさを何処までも見せてくれます。白黒映画でもはっきり分かるのは白い色。あの頃は男も女も子供も大人も、白いシャツ白いブラウスを着ています。いえ、小津が衣装に白のシャツ白のブラウスを選んだに違いありません。白のシャツ白のブラウスの持つ意味を、何処までも知り尽くした監督のなせる技です。

 携帯電話も出てこない、テレビすら出てこない、私が産まれる以前の日本の映画。香港の忙しない外の空気と裏腹に、たまの雨降りの日、私には、ゆっくりした時間が流れます。

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ほうれん草とチーズのカレー サグパンニール

2014年06月08日 | 料理

雨、27度、88%

 宗教上牛肉を食べないインドですが、乳製品の消費量はかなりのものらしく、インド独特のチーズもあります。インド独特なカッテージチーズという方が正確かもしれません。牛乳にレモン汁、もしくは酢を入れて凝固させ、家でも作ることが出来ますが、これをしっかり水抜きして固めるのは随分大変です。インドの雑貨屋さんに行けば、インド式弁当箱やターリーの食器に並んで、アルマイトで出来たこのチーズの水きり用の道具も売っています。

 15年ほど前、初めてインドに旅した時、ニューデリーの古い町中でこのチーズ、パンニールを売っているのを見つけました。お店ではありません。パンニールだけが道端で売られていました。ガラスのポストのようなものに大きな氷が入っています。その上に、真っ白なパンニールがデンとのっていました。まだ、インドがこんなに発展する以前のことです。

 ほうれん草のカレーを知ったのは、日本にいた時ですから随分前のことです。3年ほど前、雑誌「ミセス」にもそのいきさつを書いた記事を載せていただきました。ホルトハウス房子さんの記事から知ったほうれん草のカレーはお豆腐と作られていました。本場のインドではお豆腐でなくてパンニールというチーズと作られると知ったのはここ香港に来てからです。

 くたくたのほうれん草にチーズの組み合わせ、もちろんクミンシードなどでしっかりとカレーの風味があります。食べると、その奥深い香りに魅せられてしまいます。ずっとほうれん草の緑色を大切にと思って作っていましたので、さっと茹でて、ミキサーにかけていました。でも、味に奥行きが出ません。そこで、思い切って炒めたホウレンソウをミキサーにかけてみました。炒める時、ギーは使わずオリーブオイルを使いました。お親しくしてくださっているニューデリーのベリーさん一家の台所にもギーはなく、オリーブオイルに代えられたとのことでした。見出し写真のように、少し濃いめのほうれん草とパンニールのカレーになりました。味にこくが出ましたが、どうもギーを使った方が美味しいように思います。

  近年、香港でも、冷凍のパンニールがインドから入ってきます。パンニールは、袋の写真のように普通のカレーにも揚げ物としても使われます。もちろんお米もインドのバスマティライス。 インドでも特別な時に食べられるお米で、お値段も高めです。といっても、日本のお米ほどではありません。さっぱりとしたお米で、いくら食べてもお腹にもたれることがありません。手で食事をするインドの人、少し汁気のあるカレーと合わせないと、とても口元まで運ぶことが出来ないでしょう。

 急に夏に突入した香港、インドのカレー、タイのカレーと私のお昼はカレー三昧です。

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パスタを作る

2014年06月07日 | 料理

雨、24度、95%

 香港に来てすぐに買った調理器具は、ナショナルの電気オーブンでした。その電気屋にスタンド式のミキサーが売っています。憧れのキッチンエイドのものではありませんが、イギリスのケンウッドのものでした。30年近く前、日本にはまだ家庭用のスタンド式のミキサーは売っていませんでした。これも、すぐに買いました。香港ローカルのデパート、ウィンオンの家庭用品売り場に行くと、驚くことに、パスタマシーン、ムーランという裏ごしをするものまで売っています。日本では、その当時、海外で買い求めて来るしか入手できなかったものばかりです。流石にイギリス領だけあってこうした家庭用品が揃っていました。もちろんパスタマシーンもムーランも小さな家計の中から買い求めました。

 ですから、パスタマシーンが我が家にやって来てすでに20数年。流しの上のハッチを開けるとすぐ手の届くところに仕舞ってあります。 イタリアのインペリアのティタニアというパスタマシーンです。現在もこの形が基本で、パスタのカッターが上についている2段式の形になっています。これは手動ですが、家庭用の電動も出ています。このパスタマシーンを使うのは、パイ地を伸ばす時だけ、パスタを作ったことがありませんでした。どうしたことか、何かの拍子に急にそのムードに入ります。そうです、パスタを作ろうというムードです。

 初めてですから、ハードルは低くしてと思うのですが、パスタの配合ですでに悩みはじめました。日本の方のレシピには水が入ります。ところが、イタリアの人たちのレシピには水がなく、卵の水分だけです。水無しだとボソボソしていそうですが、卵、粉、オリーブオイルだけで作ることにしました。捏ねるのはパンで慣れたものですが、このパスタ、ボロっと折れそうな感じに捏ね上がりました。我が家の台所のカウンタートップはやたらに厚く、パスタマシーンを万力で止めることが出来ず、テーブルで伸ばす、カットする作業をします。真剣に取り組んでいましたので、この間の写真がありません。

 何度も言いますが、そば粉ばかりのおそばのように、ぼろぼろと折れそうで不安です。やや厚めに伸ばし、2種類あるカッターのうちの太い方を通しました。めでたしめでたし、讃岐うどんのようなふと打ちパスタが出てきました。この後、乾燥させるという方、そのまま湯がく方とこれまた皆さん色々書いていらっしゃいます。何分にも太麺ですので、乾燥させることに。 朝から作りはじめて、お昼まで乾燥させました。乾燥させる間も折れはしないかと心配です。お湯に入れる時まで、折れることもなくまずは一安心。

 こういう試作品は、私のお昼ご飯です。ソースも残り物のトマトソース、中にいれるのは、イカのゲソとえんぺら。ゲソもえんぺらだってバカには出来ません、トマトソースとの相性は抜群です。地中海沿岸の方達に万歳と叫びたくなるくらい美味しい。さて、折れずにゆで上がった太めのパスタ、アルデンテに茹でて一度水洗いをして、ソースと和えました。

 心配していた粉っぽさはありません。しっかりと歯ごたえのあるパスタに仕上がっています。いや、何でもっと早く作ってみなかったのでしょうか。生地の配合、伸ばし方、もう少し慣れが必要です。

 こんな機械を眠らせておいたなんて、もったいない話です。

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私のブローチ

2014年06月06日 | 身の回りのもの

曇、29度、86%

 冬になると厚手のコートやジャケットにブローチを着けるのが好きです。随分以前に、このブログでマルニの初期の頃の素人っぽいブローチを紹介しました。マルニが服を作りはじめた頃のブローチは留め具の付け方もそれはひどいものでしたが、雰囲気があって、随分買い集めました。ここ3年ほど、どうも私の感覚ではありません。しばらくブローチを買うのは鳴りを潜めていました。

 マルニのブローチの前に集めていたのが、プラダのブローチです。布地にスワロフスキーのビーズがあしらわれたものはとても軽く、セーターに付けることも出来ます。 左下のブローチはラフィアで編まれた夏の帽子です。マルニのブローチに比べるとカジュアルすぎないので、ちょっとしたお集まりの時のスーツによく使います。左上の真っ黒のブローチもビーズが施されています。電灯の光の下では、とてもきれいに映えてくれるブローチです。もちろん、このラフィアで編まれたブローチは軽いので夏のスーツの襟元に納まります。

 これだけブローチを持っていますから、もう必要がないようですが、根っからのブローチ好きなのか目がいくのはブローチばかりです。昨年から気になっていたブローチがひとつ、気になるとお店に通い詰めます。仕事を辞めてしまいましたから、無駄遣いは禁物と言い聞かせながらも、とうどう手に入れてしまいました。見出し写真の赤ずきんちゃんとおばあさんがオオカミのお腹に入っているブローチです。フランスから入って来たものだそうです。この赤ずきんちゃんとおばあさんはぶら下がっていますので、ゆらゆら揺れてくれます。軽いのですが6センチほどもあり大きめ。昨冬はダウンばかり着ていたので、あまり出番がありませんでした。

 昨日、紹介した母のブローチのように永い時代を超すようなブローチはひとつも持ちません。私が母のブローチが似合わない理由が少しはお分かりいただけたかもしれません。マルニのブローチは、私のフォトチャンネル「身につけるものたち」の中に入っています。

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母のブローチ

2014年06月05日 | 母のこと

晴れ、29度、87%

 実家の荷物の整理をはじめたのは、4年ほど前、母を施設に預かっていただいた時から始まりました。私は香港にいますから、母の見舞いにふた月に一度帰た時、3、4日するのがせいぜいでした。最初の一年は、実は途方にくれて何処から手を付けたら良いかも分からぬほどの乱雑ぶり。掃除もしない人でしたので、積年の埃との戦いでした。以前書いたことがありますが、身につけるもの、服や靴や帽子にはお金をかけた母です。時計はしない、高価な貴金属はありませんでした。服はどんなに高価でも私とは全く違う好みのものばかり、結局、母の身につけていたもので私が持ち帰ったのは、一着のスーツとブローチだけでした。

 香港島のセントラルから少し上がるとハリウッドロードがあります。この道筋は、ほんの十年ほど前までは、ペルシャ絨毯と中国の骨董を扱うお店ばかり並んでいました。今では、洒落たレストランの町になってしまいました。それでも、数軒の骨董屋が残っています。何分にも我が家から近いので、市場の帰りにふらりと覗くこと屢々です。今年のまだ春早い頃、一軒の店に桐の和ダンスがショーウィンドーに出ています。ここのオーナーは、すでに他界していますが、この店を開く50年ほど前には日本にもいたことがあるアメリカ人です。店にいた時は日本に居た時のことをよく話してくれました。今は、息子さんが店を継いでいます。桐のタンスの値段があまりにも安いので、ちょっと気持ちが動いて話をします。桐の和ダンスを香港で買うなんて変な話です。帰り際、小さなガラスのケースの中に、私が持ち帰った母のブローチとそっくりなブローチを見つけました。ブローチの謂れを聞くと、中央の翡翠は、昔の高官の冠の飾りだというのです。確かに翡翠には細かい彫りが施されています。翡翠は古い物で、それをアレンジしたものだと言います。家に帰り、出して来て手に取りました。私は、母がいつ何処でこれを手に入れたか知りません。母の持ち物に興味がなかったからですが、母がこのブローチを好きでよくしていたのは覚えています。そして、よく似合っていました。

 2日ほど前、セントラルのビルの中にある骨董屋の前を通りました。ここは、小物を得意とする店です。ごちゃごちゃとディスプレイされているショーウィンドーの隅に又しても、同じようなブローチを見つけました。この店とはあまり親しくありませんが、店の人にブローチの謂れを尋ねました。やはり、翡翠は随分古い物で、周りに半奇石をあしらったものだということです。この翡翠は、一時期、ヨーローッパにたくさん流出したのだともおっしゃいます。家に帰り、今一度このブローチを手に取りました。裏にはシルバ−と英語で書かれている以外、何のシグニチャーもありません。この母のブローチは、骨董屋で見たふたつよりやや大きく、周りのシルバ−の細工が凝っています。骨董屋のおじさんの言葉に甘えて、今度母のブローチを見てもらいに行きます。

 いろんな服に合わせますが、私にはどうも似合いません。きっと、母がたまには手に取ってみて欲しいと言っているようです。

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6月4日天安門事件 25周年

2014年06月04日 | 香港

晴れ、28度、86%

 北京の天安門廣場で起きた痛ましい事件から、今日で25年が経ちました。あの日、天安門廣場で亡なくなった人の数は、この4半世紀を過ぎた今も、未だ確かな数が解らないそうです。

 あの日、イギリスのBBC、アメリカのCNN,香港の亜洲電視だけが同時に現場の様子を世界に流しました。1989年の今日のことです。当時、香港はまだイギリス領、中国返還を8年先に控えていました。香港の人たちの反応は、中国共産党への強い憤りでした。翌、6月5日は、香港中の学校は休校となり、亡くなった方達への哀悼の日となりました。

 8年先の中国返還を喜ぶ人はすっかりいなくなり、この日から、香港人のカナダ、オーストラリア、アメリカへの移民が一気に勢いを増しました。民主的でない中国共産党の下に置かれるのは、まっ平という思いだったのでしょう。アメリカ領事館の横に並ぶ人の数が多すぎて、長い長い列が出来ていたことを思い出します。その後いつだったかは覚えていませんが、香港は中国とこの天安門事件については一線を画すという条例を作りました。それは、中国に返還された現在も残されているそうです。香港人は、あくまでも民主政治の元にあるべきだという強い理念だと思います。

 当時、香港に住んでいた方は覚えていらっしゃると思うのですが、香港以外では知られていないひとつの事があります。あの天安門廣場での映像が流れた後、香港人の間から、第2次世界大戦下の日本が中国にしたことを彷彿させると、反日感情が一気に吹き出しました。その頃日本は好景気で、確か香港に在留する日本人の数も年々増えている頃でした。日本企業の進出も目覚ましい時代です。今のようにインターネットが発達していませんでしたので、学校や会社を通して、領事館から、人ごみでの日本語を慎むように、出来るだけ人の集まるところには出向かないようにとお達しが出ました。

 この反日感情は、毎年南京事件の前後には必ず吹き出して来るものです。最近では尖閣諸島の問題の時に、いくらかの人たちがデモをしたり領事館へ抗議に出向きます。永年の香港生活で、反日感情というものにも慣れてきましたが、香港に来てさほど経っていなかった25年前のこの6月は、戦々恐々と生活をしたものです。こうした、政情不安が走ると、香港人はお米を買い溜めします。日本のオイルショックの時のようです。どのスーパーのお米の売り場も空っぽ。私など、出遅れてしまいました。その後、何か危ないなと感じると、香港人と一緒にお米の買い溜めをするようになりました。

 先月、香港に64記念館が出来ました。何故、香港に?と私は思います。訪れる人の7割が中国本土からの観光客だそうです。そして、彼らが初めて64の実態を知ったと言って帰って行くのだそうです。

 24年前から、香港島ビクトリアパークでは、天安門事件を悼んでキャンドル集会が催されます。年々、参加者が増えています。今夜も20万人を超すと予想されています。私も家で静かに祈ります。

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パグのピアス

2014年06月03日 | 日々のこと

曇、28度、83%

  以前のことですが、私がピアスでなくイヤリングをしていると、「どうしたの?」と知人に聞かれました。「とても怖くて、ピアスの穴をあけることが出来ない。」と答えると、「あなたなら5個も6個も穴をあけているように見えるのに。」とお返事が返ってきました。私はとても恐がりです。耳元でプチンなどと音がして痛い思いをするぐらいなら、イヤリングで充分です。私の教えた子供も数人ピアスをしていました。「先生、怖くないよ。プチんで済むから。」「プチンじゃないでしょう、両方あるから、プチンプチんよ!」と私。ピアスは可愛いデザインの物が一杯あります。イヤリングに比べると、ダイヤの一粒でも控えめにしゃれて見えます。それでも、ピアスの穴をあけないままこの歳になりました。

 数日前、私より少し若い友人が、久々にピアスをはじめたと書いています。お子さんが産まれて、ピアスをグーット引っ張って以来辞めていたそうです。これも痛そうですね。そういえば、私は彼女がピアスをしているのを見たことがありません。かれこれ、20年近く、彼女はピアスをしなかったのでしょう。穴は塞がっていたそうです。

 穴を開け直して、再びピアスをはじめた彼女。50を過ぎて、小さなことですが、またピアスをする。そんな彼女に、同じ女性として、ワーッと一緒に喜びたくなりました。

 素敵な新しいピアスも買ったようです。残念なことに、お母様からもらったダイヤのピアスは、お嬢さんがなくしてしまったそうですが、そのお嬢さんが、スワロフスキーのピアスをプレゼントしてくれたようです。女の子を持たない私は、これまた羨ましいと、頷きます。

 そんな彼女は、私と同じくパグ好きです。ダイヤでもスワロフスキーでもありませんが、こんなピアスをたまには如何? と彼女に贈ることにしました。陶器で出来たバグの顔は5ミリほど。かねてから、欲しいと思っていましたが、はい、私の耳には穴がありません。イギリスのもののようです。パグのペンダント、指輪もありますがピアスが一番可愛い。何かの時に、小柄な彼女の耳元でこのパグが見えると、周りの人がきっと微笑むと思います。

  小さな箱に入って、あと数時間したら、香港からシドニーへ飛び立つピアスです。

 待っててね。

 

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山道を登る

2014年06月02日 | 日々のこと

晴れ、29度、82%

 香港島の東にあるマントバットラーに一人で上るようになって、すでに20年近くになりました。だいたい、1日と決めています。山に入ることは若いときから好きでした。20年以上前は、主人が香港の100kトレールに参加していました。4人一チームで100キロの山の縦走を競うイベントです。毎年10月頃に行われます。春先から、少しずつ練習を始める主人のお供はこの私でした。約半年、毎日曜日は早朝から山に向かいます。まだ、30代の終わりでしたから、体力もありました。それに、日焼けも何のその。真夏の30度を超す山道を歩くのは、辛いのですが、小さな喜びが一杯です。牛の糞に生えた小さな緑の芽とか、急に目前に拡がる海の青さ、ヤマユリの風に揺れている様子など、家の中にいては決して味わうことが出来ない楽しみです。

 香港の山は高くありません。しかも、海山共にとても身近にあります。我が家から歩けば香港島の太平山のピークまで、50分ほどです。しかも、山に登ることは健康の第一歩とばかりに、お年寄りも早朝に上ります。昨日は、通り雨の後の山登りでした。7時前に山に入ったもののすでに30度を超しています。雨上がりの山から吹き下ろして来る風は、心地よく感じます。40分ほど上がると、山の峠に出ます。下り道を取れば、香港島の南に。右がバットラー山、左がパーカー山です。ほとんどの人が香港島の南に向かう中、右手の細い階段の上り道をとります。 バットラーの頂上まで、約600段。ここまでの道は香港らしく舗装されていますが、いよいよ、山らしい道になります。しかも、かなり急な登りです。ここを上り始めるとき、いつも思い出す言葉があります。息子ほども若い方に昔聞いたことです。「山の上りは、ゆっくりでもいいから休まずに上ること。一度休んだら、もう、休まないでは上れなくなる。」以来その言葉を守って、自分なりのペースでこの600段を休まずに上ります。以前より随分時間がかかるようになっているはずです。冬場ならまだしも、これからの3ヶ月は足取りも重くなります。山に向かう前は、走りに出る前と同じように、自分の体の調子を点検して出かけます。体が今日は止めた方がいいよ、と教えてくれることもあります。年々、体力は落ちてきています。

 ゆっくりとゆっくりと、上り詰めると、右手にはビクトリア湾、左手には、南シナ海が見えます。見出し写真は、手前が香港島の貯水池、空の下に拡がる南シナ海です。600段の後に、こんなご褒美が待っています。40代の頃は、この頂上から尾根伝いに我が家まで歩いて帰っていました。あの頃は、Gショックでタイムを取っていた頃です。3時間半ぐらいで家までたどり着きます。もう、どんなにゆっくり歩いても、そんな無茶は出来なくなっています。

 香港のお年寄りを見習って、いつまでも山に行きたいと思います。上り道は、自分のペースで休まずに少しずつ上って行く、若い人に聞いた言葉ですが、なにか山登りばかりでなく、人の生きて行くことに通じる言葉です。

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ご飯を炊くように、プルマンローフを焼きたくて。

2014年06月01日 | パン

晴れ、28度、86%

 ご飯を炊くこと、それは日本人にとって日常のことです。洗って、分量さえ測ればあの簡単な炊飯器が炊いてくれます。私が、一人で生活を始めて、はじめてご飯を炊いたのは文化鍋でした。炊飯器を買ったのは、お鍋でご飯を10年近くも炊いた後のことです。おかげで、どんなお鍋が出て来てもご飯を炊くことが出来ます。その上、主人は日本米、私はタイ米、二人が好きなインドのバスマティライス、今ではこの3つのお米が常備されています。どのお米を炊く時でも、何の躊躇もなくご飯を炊くという行動をしています。つまり、日常茶飯事。

 お米を炊く時のようにプルマンローフを焼いてみたい、と思うようになったのは昨年暮れのことでした。プルマンローフを焼きはじめて30年。最近やっと満足の行くプルマンが焼けるようになりました。それでも、強力粉によっては少し重かったり、きめが粗かったりします。主人も、出張の度にいろいろな国の強力粉を買って来てくれました。ここ香港でも、また、たくさんの国からの強力粉が手に入ります。その上、昨年末は、日本の友人が送料の方が高くでしょうに、私が使いたかった日本の小麦で出来た小麦粉「ゆめちから100%」を送ってくれました。

 プルマンローフ、食パンは、私の基本のパンのひとつです。我が家の型は2斤型。これをモモと私で食べ上げるのに6日かかります。つまり一週間に、約2本焼くことが出来ます。粉の違いを見極めて、水を調節します。気温が上がり始めると、水量ばかりか、塩の量も調節します。約半年、プルマンローフばかりを焼き続けました。おかげで、粉を触っただけで、思うようなプルマンローフを焼くことが出来るようになりました。もう、どんな粉が出て来ても怖くはありません。

 香港、急にスイッチが入ったように暑くなりました。この暑さ、嗜好の傾向までも替えてしまいます。満足いく食パンは、少し重たく感じる季節です。久しぶりに、プルマンローフ以外のパンを焼きました。くるみのパン。くるみのオイルのおかげで、ふんわりとしたくるみ独自の香りがするパンです。 これから暑さが続くと、ハードなパンが食べたくなります。このくるみのパンはちょうどその中間ぐらい、見た目より、柔らかなパンです。

  あら、また、モモさんの登場です。主人や友人のおかげで、やっと、30年にして、思うようにプルマンローフが焼けるようになりました。ご飯を炊くように。

  珍しく主人がサンドイッチをご所望です。今日もまた、プルマンローフを焼きます。

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