蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

思い出すと、冷や汗たらり

2023-10-26 | 思い出
思い出はたくさん、色々ある。
現在進行形のものも、今月、来月予定のものも。
やがて、良い思い出になる。

ふと断片的にワンシーンを思い出すことがある。
脳裏に浮かぶのに至った経緯があるが、説明は割愛。


ダイニングの扉付き棚に置いている文庫本。
今、また次の本を読んでいる。
2007年初版の「フランス残酷物語」。
18〜19世紀頃を主に、フランス歴史に残る、お姫様などの裏の顔を抉(えぐ)り出す、えげつない血生臭いお話。
年代や名前がどんどん出てくるので、年代や年齢、名前や血縁関係がゴチャゴチャになり、ページを前後してめくっては、わたしの理解の悪さが露呈され、ヘキヘキする。
なので、少し読んでは休憩、また少し読んでは休憩。
休憩のコーヒー飲みたさに読んでいるかの如く。

まだダイニングの棚には、本が詰まっている。
中には、作家さんに、目の前で直接サインしていただきながら、1ページも読んでいないハードカバーの重い本もある。
けしからん、わたし。
作家さんは、学生時代の元同級生Kちゃん。
当時は、新聞や他のメディアで活躍されていた。
最近はメディアでは名前を見たことがないが、おそらく地元でコツコツ頑張っておられることだろう。
その本も、今後楽しみにしている一冊である。
(ごめん、Kちゃん)

このKちゃんは、わたしの親友Yが進んだ学部にいた生徒さん。
(わたしは親友Yと同じ学校に進んでいるが、別学部)
Yと同じ学部のクラスメイトとして、Kちゃんをたまたますれ違った庭園で軽く紹介された。
軽く会釈したぐらいで、話したことはないはず。

ではあるものの、Kちゃんは後に作家としての道を歩み出した。
多分、教職の道にも進めたと思うが、結婚後、婚家の地で暮らした。
わたしの想像では、子育てをしながら、エネルギーを溜めたと思う。
都会ではない地での風習や因習に悩まされたのではないかと想像する。(わたしがそうであったように)

そのエネルギーの発露が小説であり、文化活動であったのではないだろうか。
かつて、仕事でわたしが受け持っていた、専門的刊行物があった。
Kちゃんは、とある県の行政機関が発行する、地元の河川を紹介する冊子を監修する立場で関わっていた。
地元から発信、活躍中の作家という肩書き。
そこで、1番最初に県の関係者一同が顔合わせをする機会があった。
わたしは編集担当者として顔を出したのだが、わたしはKちゃんの知り合いという触れ込み、前宣伝、自己PRをしていた。
まるで旧知の仲であるかの如く。
しかし、実際に会議の席で顔を合わせた時に、わたしを認識されるかどうか不安だった。
誰?この人?知らない・・・という展開。

学生時代に人を介して会釈しただけの間柄。
それと、同窓生が主催した実家古民家(商家)コンサートに参加した時に、Kちゃんも来ていた。
大阪市内の古い大きな商家で、1階は、「田の字」に配置された4つの和室の襖を全部外して解放され、広い客席になっていた。
蔵も改装され2階はカフェになっていたような??
ついでにかどうかは知らないが、Kちゃんの本を紹介していて、そこでサインをしてもらった。
たったそれだけの接触なので、Kちゃんがわたしを覚えているかどうか、自信がまるでなかった。

初顔合わせの日に、ドキドキしてKちゃんが現れるのを待っていたが、なんとKちゃんは都合で不参加になった。
ドタキャン。
わたしは、とてもホッとした。
あ〜よかった。

「Kちゃん!」「〇〇ちゃん!!」というサプライズ対面ならまだしも、
「Kちゃん!!」「・・・??」
と、不穏なムードが漂っていたかも知れなかった。
それでなんだか肩の荷が降りたような(なんにも役割も責任も果たしていないのに)、安堵感を覚えた。

という、やや苦い思い出、エピソード付きのKちゃんの本は、まだそのまま、ダイニングの棚に眠ったままである。


※写真は、息子が今年の母の日にくれた(LINEで送信)花束(商品)プレゼント、
交換期限を今月末に控えて、ギリギリに交換したもの。
この花束交換も、花屋側の問題で交換できず、わざわざ電車に乗って別の花屋まで出向き、やっと交換できた、いわく付き。
電子商品の交換店として地元では唯一、1店舗だけ紹介されている花屋にもかかわらず、電子商品と聞いただけで拒絶反応を示され拒否され、あたかも電子商品を持ち込むわたしが悪いかのような態度にムカついた。





東京暮らし

2023-10-08 | 思い出
書きたいことが思い浮かばない時は、、、他のブロガーさんの記事を読む。

ちなみに、わたしのブログに開設間もない頃からよく訪れていただくブロガーさんがいる。
その人が住んでおられる地域にはなんとなく懐かしい思いがある。

わたしは40年ぐらい前に東京に2年間暮らしていた。
結婚したばかりで、東京で第一子(長女)を妊娠、出産し、彼女が1歳になるまでいた。
(出産は、里帰り出産)
世田谷区の静寂な住宅街にあるマンション。
立地は芦花公園駅から徒歩5分ぐらい?
成城も近くにあり、付近の神社や公園にも行った。
(上記ブロガーさんの記事内にも懐かしい地名が時々出てくる)

夕方になると、芦花公園駅から隣の千歳烏山駅の途中まで、ベビーカーを押して散歩した。
夕暮れの、静かな住宅街のなんとも言えない静寂を感じていた。
ごく近所には漢方製剤老舗T会社の創業者一族のお宅と蔵があった。
(行ったことはないけれど、敷地が広いから隣接する場所も多い?)
わたしが駐車場で住居の鍵をなくして途方に暮れていたところ、そこに駐車していた誰かの車が移動して出て行ったら、その車の停められていた下に、鍵があった。
やれやれ、、、という思い出がある。
その困り果てた駐車場から見上げた場所が、創業者宅の蔵だったような、、、。
おぼろげな記憶だが。
また、学生時代の同級生(実家も婚家も大阪)が、目黒に住んでいて、遊びに行ったことがある。

わたしの結婚が決まった時、夫のいとこが住んでいる芦花公園にあるマンションに空きが出たと知らせてくれ、そのマンションに住むことになった。
いとことは別の階だったが、毎日、いとこの家に遊びに行っていた。
当時3歳と幼稚園児だった、いとこの子供たちはもう立派な大人になっている。
何年か前に、いきなりTV番組で(当時3歳だった)彼の大人になった顔を見た時にはびっくりした。
画面を見て、こんな顔になったんだ、、、と、想像は出来た。
名前もテロップで出ていたが、彼の名前だった。
大きくなるものだ。
後日、親戚のお葬式(お互い、親戚は共通)で会った時、幼い頃の話が出た。
彼は3歳だったにもかかわらず、わたしと部屋で遊んだ、マッチ棒を使った立体図面の遊びの様子を覚えていた。
これには、またまた驚いた。
幼児といっても覚えているものだ。


東京は、バブル景気、前夜。
当時、マンションを買った、いとこの仕事仲間が大儲けしていた。
いとこも、別に儲けるつもりではなかったとは思うが、たまたまバブル崩壊前夜にマンションを最高値で売り抜け、ラッキー。
世の中には、幸運を掴む人と、逃す人がいる。
わたしは、いつも儲け損ねる派。
あの時、ああしていれば、、、とタラレバで、悔し涙を流す、欲深い人間。
損をしたと嘆くより、得をし損ねたと嘆くほうが、より欲どしい。欲張り。

バブルは崩壊し、土地神話はガラガラと音を立てて崩れ落ち、、、、
言うまい、タラレバ悔し負け話。
命まで取って行かない。

借金して派手な攻め、切り込みをしていた人は痛手を被っただろう。
が、またゾンビのように復活している(こともあるし、復活しないこともある)。
時の運。
わたしは時機を掴むのが下手なので、勝負や賭けには出ない。
ローリスク、ローリターンを狙う、、、が、時には、ローリスク、ノーリターンなんてこともある。
ハイリスク、ノーリターンよりは、マシか。
ギャンブルは嫌いなので、それでよい。
リスクを取らないため、得るものも少ない。
まさに、ノーリスク、ノーリターン、省エネ。
省エネということでは、終始一貫か。
別に意図したわけではないが、結果的にそうなった感あり。

と、話は相変わらず逸れている。
どんどん枝葉に行って、戻って来れない。

東京に話を戻す。
東京は、大都会で、一つ一つの街がとても大きくて、その大規模な街がいくつもある、と感じた。
有名な人、もの、コトが身近にあり、人の層の濃さを物語っていた。
政治、経済、文化の中心地。日本の中心部、巨大な首都。
一人一人は、その大きなものの中の、一つだった。
遊ぶには事欠かない、あちこちに魅力が詰まっていた。
ではあるが、わたしは遊びには飽和状態になり飽きた。
遊びは、刺激にはなるが慣れてくると充実感を得られない。
麻薬のように、更にもっともっとと求め蟻地獄に陥るかと言えば、そんなことは全くなかった。
良い体験、経験が出来た、と享受できてラッキーだった。
たぶん、この遊びの経験は、脳と身体には形となって残っていないが、血液に混じって滋養の一部となって溶け込んでいることだろう。
拒絶反応も禁断症状も、どちらも示さず、流れる川のごとく。
一駅一駅、停まったり通過したりする駅のごとく。

若い時に経験していて良かった。
今のわたしの年齢では、都会の刺激より地方の落ち着いた静寂が心地よい。



男性からは幼い頃の話を聞いたことがない

2023-09-03 | 思い出
閲覧数の突然の乱れは徐々におさまり、もう1日、2日ぐらいでいつものアクセス数に落ち着くことだろう。
こういう作為的なことは、自然な結果を目安にモチベーションを保つ者にとっては弊害になる。
人気を売りにしているタレントや政治家、有名人が人気のバロメーターにしているのとは違い、一般人一ブロガーにとっては作り事ではない事実を反映したアクセス数でなければ、ブログシステムへの信頼が揺らぐことになる。
なかには、一般人のちょっとしたつぶやき(例えば、「保育所、落ちた」など)が世相に火をつけ、政治まで動かす事態になることもある。
わたしのブログはそういう類のものでは決してない。

前には、コピー盗用事件も何度かあった。
ブログの著作権は、ブロガーにあるが、まるまるパクられて、見知らぬブログにアップされていることもある。
けしからん「あだ花」にはキリがない。


突然、話はワープする。
昔昔、60年以上前、わたしが幼稚園児の頃。
幼稚園でお絵描きの時間があった。
いつも必ず、Y.Hちゃんが、わたしの絵を真似した。
幼稚園児のことだから、かわいいもの。
いつもいつもだったので、わたしは少しだけ不思議だった。
へえ〜、今回もか、と、事実を認証するのみ。
が、別にそれ以上の深い読みやツッコミはなかった。
感情を害するわけでも、真似するなと怒るわけでも、真似されるほど良いんだと自惚れるわけでもなかった。
彼女はやがてピアノの道に進んだ。
だから、分野が違うから問題ない。

とは言え、自分で絵を思いつかないのは、独創性、オリジナリティの欠如である。
しかし、ピアノの世界でオリジナリティを生み出すのは並大抵のことではない。
まずはルールに則った演奏を基本にする。
作曲したりするのは別として、何百年も前からある曲を弾くのは練習の積み重ねしかない。
その後、道は分かれていくのだろうけれど。

無から何かを生み出すのは、エネルギーがいる。
時代が認めない、評価しないこともある。
芸術って、プロは大変。
商業化するにしてもそうだ。

こんな話、誰一人興味ないだろう。
書き手の深い考察も理解もなにもない。
上っ面だけすくって書いている。
確信しているが、観客ゼロのホームパーティは快適だ。

ホームパーティついでに。
わたしは、幼稚園の時からピアノと習字を習っていた。
ある山手高級住宅地に居を構える先生のお宅に毎週、坂道を上り階段を登って通っていた。
ピアノの先生は本職は学校の先生をしていて、アメリカンホームドラマに出てくるような背の高い優しそうな上品な夫さんがいた。
これまた絵に描いたような、上品でお利口そうな坊ちゃん(当時幼児と幼稚園児ぐらい?)が2人いた。
(わたしより、ほんの少しだけ歳下)

門を通って庭を歩き、右手側に玄関。
玄関を入って右手側には、ピアノのレッスンに使われている応接室がある。
左手側に進むと、お習字教室に使われている和室がある。
和室の前は縁側廊下になるが和室との扉(障子)は開け放たれている。 
ここでは、ピアノの先生のお姑さんにあたる先生が何人もの生徒に習字の手ほどきをしている。
玄関を見ずに門から真っ直ぐ歩くと、右側に習字和室を見ながら突き当たりに、小ぶりのサブ玄関がある。

わたしは、ピアノの後、習字だったか、習字の後、ピアノだったか、その時々に応じてだったか忘れたが、小学6年までピアノを習っていた。
習字は大筆の後、小筆になってから小筆が嫌でやめた。
百人一首のような、おかき(米菓子)の包装紙に書かれているような、いかにもいかにも、あんな文字がさらさらと書けたら大したものなのに、、、その手前、入り口でやめてしまった。
親も辞めるにあたり、何も言わなかった。
習字と入れ替わりのようなかんじで、算盤とバレエを習いたいと親にせがんだ。
親はバレエは少し難色を示したかも知れないが(忘れた)、算盤はすんなりオッケーだった。

ピアノは、同じ応接室内で生徒はレッスンを受けている子の次の順番を待つ。
そこに、わたしの大嫌いな悪ガキとよく鉢合わせた。
わたしとは幼稚園から一緒のS.Hである。
(あえて「君」はつけてやらない)
わたしが生涯でたった一人だけいじめられたのは、このS.Hである。
幼稚園のブランコに乗っているわたしをいじめた。
そのシーンはハッキリ覚えている。
最初で最後のごんたくれ。
(医師になったらしいが)
色白で、ひょっとこみたいな顔。
この子が同級生の他の子と、わたしが練習が満足にできてないピアノレッスンをくすくす笑うのだ。
耐えられないなら、ちゃんと練習してくれば良いものを、練習しない、わたしもわたしだ。
・・・・・

本日スケジュールの時間も差し迫り、キリがないので、昔日の話はちょっとストップ。

ちなみに、
ふと思ったが、高齢の男性たちのブログや話には幼い頃の話を聞いたことがない。
(一部、例外を除く)
大概は現役時代の話や、リタイアしてから頑張っていること等。
元気をいただくものの、幼い頃の時代、気に入らなかったのか、記憶にないのか、黒歴史で無かったことにしてしまいたいのか、人に話すほどのこともないのか、話しても自分は高揚しないからか、、、
いったい何故なんだろう?







子供の頃

2023-08-30 | 思い出
わたしが幾度となく蝶ブログで書いている、幼い頃。
田舎で暮らした昔日。
街の幼稚園に行くまでの日常。
近所の子供たちと遊んだ。
近くの野山に遊びに行く時には、当時、小学6年だった、皆んなの中では1番年長の女の子の小指をぎゅっと握って、みんなに着いて行った。
わたしは最年少だったと思われる。
この女の子は三人姉妹の長女で、わたしとは歳が離れすぎていて、あまり遊ぶことはなかった。
その下の妹たち(次女、三女)と遊んだが、主に三女のSちゃんは、わたしと(たぶん)同じ歳。
家は、隣の隣。
といっても田舎なので、一軒一軒が広く大きく、蔵や作業所、庭などもあり、さらに牛舎の坂を上がり、結構遠い。
彼女の家の玄関前で、座り込んで地面の土を石で磨いて遊んでいた。
何がしたかったのか、何が楽しいのかよくわからないが、つるつるした黒光する石の感触を覚えている。
家の中に入った記憶はあまりない。
彼女たちが、うちに来た記憶もあまりない。
3人の名前も覚えている。Mちゃん、Yちゃん、Sちゃん。
幼稚園に行く頃以来は、一度も会っていない。軽く60年以上前。
その家の子供たちは女の子だけなので、お婿さんを迎えたかも知れない。

ガキ大将もいた。
家の向かい隣の男の子。Tちゃん。悪ガキ。
家の向かいには3人きょうだいがいた。
長男Yちゃん、次男Mちゃん、末っ子長女Tちゃん。
Yちゃんは小学生ぐらいの時に亡くなった。
皆んなで野原や川に遊びに行ったり、うちの家の外で、馬乗りや大縄跳び、ダルマさんが転んだ、など、元気よく皆んなで遊んだ。
昭和の遊び。
家の中では遊ばない。

わたしより歳下の女の子もいた。
(倉庫などを挟んで)隣の家。
AちゃんとKちゃん姉妹。
むこうの家に遊びに行ったり、うちにも遊びに来て女の子同士よく遊んだ。

全員、62年間ぐらい会っていない。音信不通。風の便りもなし。
といっても家は近所。地続きで、今も家はある(はず)。
1軒、女の子姉妹の家は無くなって、近年、隣りの親戚が(たぶん)土地を合わせて家を新築した。

向かいの家のおじいさんは、晩年、うちの隣の小さな離れ(一間だけ)で一人で住んでいた。
亡くなるまでの間。
小説や映画、昔のモノクロ写真で見るような、いかにも人生終盤のおじいさんだった。
たぶん、母屋からお嫁さんが舅さんに食事を運んでいたのではないだろうか。
その離れはおじいさん亡き後は、うちの土地と合わさった。

遊ぶには5軒の子供たちだけで十分。
一軒にだいたい3人いるから15人。
保育所同期仲間みたいなものだ。
親は介入せず、子供たちだけで遊んでいた。
古き良き時代。
(わたしの父の帰宅時、自動車音が聞こえると、子供たちは、わーっと散り散りばらばら三々五々、逃げ散っていく)

ちなみに、小川を隔た隣りは父の妹の家があり、歳の近いいとこ(女児)も住んでいたが、遊びには一切加わらなかった。
(今、思えば、何でだろう? テリトリーの問題か?)

わたしも3人きょうだいなので、仮に例え外部と接触がなくても、身内できょうだいで遊べる。

じつは、今回の記事で、この子供コミュニティにあえて名を入れていない子供たちがいる。
これはイジメや差別ではない。
これこそ子供は何の関係もない家の事情で、遊ばない、いや、遊ばせない。
家同士が、こじれている。
大人の雰囲気を子供は敏感に察する。
が、親や親の親がこの世を去り、こじれは形を変える。
うるさい人々はあの世。
まあ、その、当時遊ばなかった子供たちと、今、現在、姉は地元の諸々のことで、代が変わった元子供(現在、還暦過ぎ)とビジネスライクにやり取りをしている。
話は代々、昔に遡って、いくら当人が亡くなっていても、ややこしい。
姉に任せっきりで、わたしは報告を聞くのみ。
亡霊の皆さん、後世の人々が仲良くする応援をよろしくお願いします。





雨ニモマケズ風ニモマケズ

2023-04-27 | 思い出
わたしが高校を卒業した春の18歳、番茶も出花の頃(はい、昭和です)、新学期までの間、1ヶ月だけアルバイトをした。
勤務は、神戸の某有名菓子メーカー直営レストランだった。
その1ヶ月間しか顔を合わせなかった、後、半世紀近く一度も会ったことがない人々、、、なのに、今でも顔をしっかり覚えている。
提供されるメニューのスパゲッティ・ペスカトーレのガーリックの匂いや、ストロベリーパンケーキのほわほわした柔らかい甘い匂いも、昨日のごとく。

ホールで料理担当の口髭をはやした30歳??ぐらいの笑顔が親しみを感じる、味のあるお兄さん。
白調理服上下に、白長靴。
ウェイトレス、重鎮ボスとしては、真っ白い(と思えるほどの)ファンデーションに真っ赤な口紅で彩られた毒々しい唇の、都会の垢でスレて荒んだ、いかにも意地悪そうな性格が悪そうなひね曲がってそうな(形容長い)お姉さん。(あくまでも見た目)
ウエイターは、軽々ひょうひょうとした、東南アジア系の顔をした細い若い男子。
その他のウェイトレスは、地味だが、どしっとした重量系、貫禄ある若い女性。
さらに、小柄でキュートな若い女性。
もうひとりぐらい、ホールにおじさんがいたかも知れない。が、忘れている。

重鎮ボスには、わたしが4月から通う学校の名前を噛みそうになりながら彼女の口から発するのを何度か聞いた。
休憩時間は、別の場所に休憩所があったと思う。
ご想像の通り、わたしは「大正の姫」と侮蔑を込めて呼ばれていた。
当たっている、うまいこと言う。
が、いじめられた記憶は全くない。鈍いだけかも知れないが。
彼らと話をした記憶も全くない。
共通話題もなくお互い無関心、無関係なのだろう。
今思えば、わたしは浮いていたのだろう。
たった1ヶ月だけのバイトだし、問題が起きてもつまらないし、皆の意識下になかったのだろう。
期待もされず邪魔にもならず、いてもいなくてもよく、流れて来る石の一つだったのかと。(石って、流れる?)

お客さんでは、後のボーイフレンドになる男子が彼の友達と通って来ていた。
その友達と、どうしたらわたしに声をかけられるのか、相談していたらしい。
友達も後のボーイフレンドもわたしも、同じ歳だった。
このボーイフレンドは、背も高くカッコよくオシャレで頭も良かった。シティボーイ。
降って湧いたような恋バナ。
今も顔、はっきり覚えている。
懐かしい話。

それはそれとして。
学生時代、大手百貨店で夏季バイトをしたことがある。
その中に、仕事をしたことが全くない、ピカピカの奥様もバイト仲間としてご一緒させていただいた。
貫禄ある部長みたいな上の方とお茶に二人で行ったことがある。
この部長は、わたしを実社会にはかすりもしない人間のように感じているのではないかと、言葉の端々から感じた。
社会との接点はまるでない、空間に生きている、無味無臭、人畜無害な若い女性??
おどろおどろしい世界に、誰もわたしを誘ってくれなかった。
わたし自体もぜひ誘って欲しいとは思わなかったし、別に興味津々でもなんでもなかった。

また違う機会に、とある夏季講習で知り合った男子大学生に、ドライブに誘ってもらったことがある。
同じく彼も、わたしを別の惑星の住民のように感じたように思う。
着いて行ける、着いて行けない、ではなく、接点がない、という宇宙人ぶりをわたしは発揮していたような気がする。

生活感もなければ、生きている熱さもなければ、退廃的でも悲観的でも悲壮でもない、、、
社会に出たとは言え、社会には全く出ていなかった。

今も社会に出ていないような実感がある。
きっと一生このまま、社会には出ない、病室療養か、自宅軟禁か、施設収容か、そんな感覚がある。
だが、閉じ込められている部屋の鍵はない。
あるとすれば、住宅警備システムのロックと解除。
自分で開けたり閉めたりする。
外出、外泊自由なのに、快晴でも一歩も外に出ない日もある。
別にこころを病んでいるわけではない。
自分の城なんだろう。
頑丈な城を長い時間かけて築いた。
(期間限定で時々、お城食堂に、ちびっ子とその親達が無料食事をしにやってくる)

わたしは遠くに行っても、ちゃっかり元に戻ってくる。
別に誰が待っているわけでもない。
なんの束縛もない。
自分で勝手に戻って来る。
お掃除ロボットのルンバみたいに、お掃除が済んだらチャージ器に乗っかる。

時を戻そう。
高校卒業時の春のバイト。
一人だけ浮いているのに、いじめられても何の不思議もないのに、なんの摩擦もトラブルも不安も不満もなかった。
これは、何なんだろう。
これに共通するものがあるように思う。
天然自己装置??

幼稚園から高校卒業まで、わたしは1日たりとも雨の日も風の日も休まず学校に通った。
わたしの子供たちもそう。
質はともかく、身体とこころが丈夫なんだろう。
「健康は健全なこころから」かと、宇宙人らしからぬ当たり前のことを思う。

追記
だが、こころは健全でも病気になることはある。


明暗

2022-12-26 | 思い出
小学校高学年での担任Y先生。
義務教育なのに、スパルタ教育。
クラスで結果はハッキリ出た。
2組あるクラスのうち、わたしのクラス、Y先生組の難関私学合格率はもうひと組を遥かに上回っていた。
まるで私立の塾のようだった。
巻き添えになった一般生徒は、苦しかった。
なぜなら、モチベーションもないのに、無理やり一緒に引っ張られて行ったからだ。
トップクラスに照準を合わせて授業を進められると、普通の生徒はどうなるか?
落ちこぼれるか、バテる。
さらに、トップクラスの生徒は(後の想像だが)難関校向けの塾にも行っていたのではなかろうか。
ダブルワーク。
そんな生徒と同じトラックを走らされたのでは、かなわない。
無茶である。
ほのぼのしていた小学生が、いきなり勉強地獄に放り込まれた。
しかも、母親との個人面談では、「お母さん、ご家庭でもっと勉強させてください」とY先生に圧をかけられた。
家庭は父の病気で大変な時期だったこともあるし、わたしまで手が回らなく、母は、全然先生の言うことを馬耳東風で、わたしには手をかけなかったが。
定期的に出される大量の課題が迫ってくる中、家庭でのサポートなし、現場(学校)での圧力に押しつぶされそうになった、、、が、タフなのか鈍感なのか、なぜかこころは潰れなかった。

その時の級友やら、その後の級友やらは、わたしとは全く接点のない世界で活躍している。
とても誇らしい気持ちになり、応援している。
が、私事であるような、ないような、自分とは違う属性の他人なのに変に近い、不思議なものでも見るようだ。
距離感を掴みにくくなる。
自慢したとすると、自分のこと、偉業ではないので、みっともないだけだ。恥ずかしい。

たまたま一定期間、同じクラスにいただけのご縁。しかも小学生高学年。
とは言え、あの年齢で、ほぼほぼ人生のコースは決まりつつあった生徒が多かった。
小学校の同窓会は今まで一度たりとも行われなかった。
言い出しっぺ的存在がいなかったのだろう。
あのクラスではねえ、、、
女子も男子も飛び抜けて素晴らしい頭脳の持ち主が揃っていた。
が、明暗がはっきり別れ、中には、隙間に染み込み埋没する生徒もいたが、卒業以来、一度も顔を見たことがない。
嫌だったんだろなあ、きっと。





恋愛未満

2022-12-17 | 思い出
わたしは、努力してそうなったわけではないのだが、たまたま結果的に、ドロドロ沼にはまらない。

30代前半のある日。
語学研修という大義名分(笑ってしまう中身、実力)で、アメリカに単身、2週間滞在したことがある。
そこでは、日本語をシャットアウトするために日本人とは絶対に仲良しにはならないゾ!と固く決め、語学研修同級生との間にバリアを張っていた。
クラスでは誰とも話さず、ホームステイ先の女性と話していた。
授業は午前中に終わり、午後は周辺をうろうろ。日本人ではないようにも見えたようだ。
スーパーマーケットのコットン衣料などをちょこちょこ買ったりして、帰国時にはスーツケースの荷物は明らかに増えていた。

それは良いとして。
ホームステイ先の女性は独身キャリアウーマンだったため、どこかに連れて行ってもらうのは、週末だけ。
恋人の家や、家族で住むお友達の家でのパーティなどに、同行させてもらった。
それは良いとして。
研修クラスでは、後半になると、バリアに異変が起きた。
わたしが疲れてきたのか??

緊張の糸を張り続けられなくなったのか、よくわからないが、日本企業に在籍する、企業から研修に派遣されている日本人男性と言葉を交わすようになった。
アフターレッスンに、一緒に行動したりした。
急激な接近、展開ではなかった。
帰国後にも、グリーティングカードをもらった。
お互い、悪い印象は持っていなかった。
が、今思えば、明らかに行動や気持ちをセーブしていた。

わたしは、日本に残した家族のことを思って頑張って自制したわけではない。
自然体。
先方の男性もおそらく自然体だろう。
外国での一時のアバンチュールを楽しもうと思えば出来たのかも知れないが、そんなことは思いつかなかった。
相手も、企業から派遣された研修の身、日本での家族もある。
お互い、薄っすら、その先には何かがあったかも知れないが、二人の繋がりは淡い思い出として残った。
どちらかが、ほんの少しでも動くと何かが起こったとしても、その時のタイミングは、そういう時の縁ではなかった。
ああ、良かった。
ドロドロにならなくて。

情熱家の人や、日常を離れた異国での精神高揚から海外で知り合って結婚する人もいる。
お互い独身なら何の問題もない。
離婚して再婚したり、山あり谷ありの人もいる。
わたしには、自然体で、その道はない。
ドロドロは無意識に避けているのだろうか。
→ドロドロ回避本能。
が、偶然、ひょんなことでドロドロに、なんてこともない。

わたし自身に関する考察。
自分のエネルギーはプラスに向けて使う傾向にある。
仮にマイナス時期があったとしても、次のプラスに向けての逆噴射チャージ期。
飛び上がるために、身体を屈める(かがめる)、それと同じ。
あえてマイナスの海には飛び込まない。

ではブログは?
プラスでもないのに、延々とやっている。
これは駆け引きなしの、他からの見返りを求めない、たんなる趣味。
じつに、あっさりしている。


平安顔

2022-09-08 | 思い出
平安時代なら、わたしは、きっとモテモテだっただろう。
まず容姿。
髪ボリュームが通常人の2倍。(今は老化で減少)
美容院の人に、「2倍料金をいただきたいです」と苦情を言われたことがある。
すみません、、、。
(でも髪が少ないお客さんは減額されるわけではないでしょうし、そのあたり調整してください、、、)
ボリュームが多いからといって、ツヤツヤ艶光りしているかというと、、、否、天然パーマ。爆発頭である。
まあそれはそれとして。
髪は美人の必須条件。
これは質を言っているのだと思うが、量なら負けなかった。

次。
顔。目が能面の如く細い。
が、お歯黒の能面のような無表情ではなく、
オタフク、福顔。
しかし、明治以降、西洋かぶれの日本人の憧れ美意識は、、、昭和、平成、令和においては、時代遅れ顔。
でも、平安時代の絵物語のお姫様顔。

さて次。
さらさらさら、、、恋文が得意。
これで王子様(源氏や、時の権力者)をゲット!
通い婚してもらえるかも?
宮中では女性同士の熾烈な争い?
科学でも数学でも経済でも歴史でもなく、国語、作文能力だけを問われるなんて、最高に嬉しい時代。

というわけで、平安時代なら、少なくとも今よりはモテたはず。
生まれる時代を間違えた?
が、平安時代に生まれてもお姫様的ポジションとかけ離れた場所に生まれていたら、文のチカラなど、まるで関係ない。
識字能力がないのだから。読み書きが出来ない。
チカラの発揮しようがない。

ちなみに、わたしは、歯車が大きすぎて、一般の歯車とは合わない。
わたしの一回転と、皆さんの一回転では、回る時間が違う。
それだけならどうにかなる。
どうにもならないのは、歯車の歯のサイズが違うと噛み合わない。
なので、円周の大きさは違ってもいいので、歯のサイズが合う場所に自分の身を置く。
そうしなければ生きていけない。

かつて、高校を卒業したばかりの春休みに、大手企業が経営するカジュアルレストランに1か月、アルバイトをした。
そこでわたしの付けられたあだ名(ニックネーム)は、「大正の姫」。
どうせなら江戸か平安がよかった、あるいは昭和(その時は昭和だった)。
でも大正だった。
きっと、ピントがボケていて話にならなかったのだろう。
嫌味を言っても、怒っても、注意しても、わたしは宇宙人みたいだったのかも知れない。

ではあるが、、、(ここで少し声を大きくする)お客さんとして来店していた、同じ歳の男子とお付き合いすることになった。
彼は同学年だったが、一浪して次の年には大学に入学した。(世間的に見ると成績優秀)
大正の姫も、一応、女の子なのだ。

と、どうでも良い自慢話。(これは自慢なのか?)
昔話ついでに、もう一つ。
国立K大学法学部の現役生で司法試験を受ける、苦学生がいた。
彼は勉強の妨げになるからと、わたしとは一回会っただけで、その後は絵手紙をくれた。
実直な狸が幼い女の子を守る絵。
思いを絵手紙に託してくれた。
意志の強い、真面目な学生さんだった。
その後、法曹界で活躍されていることだろう。
しかし、彼とはどのタイミングで知り合ったのか?
よく覚えていないが、おそらくわたしが19歳ぐらいの時だろう。どこで??
うーーん、、、
K大学○○学部○○部のダンパか?
社会人とは知り合わなかったと思う。

ところで関西でKで始まる大学はたくさんある。
国立私立含めて、いっぱい。
特定しにくいから気楽だ。

昔は誰しも若かった。
華やかし頃。
平安でも大正でも昭和でも、皆んな若い頃があった。





誰もいない家

2022-08-06 | 思い出
わたしの母の実家。
わたしは今まで何回葬儀に参加しただろう。

参加した時系列に順を追ってみる。
祖父(母の父)、おじ(母の兄)、祖母(母の母)、おば(母の兄の妻)、いとこ(母の兄の長男)、さらに、いとこ(母の兄の次男)。6名。
結婚して家は出ているが、母の姉も。

これだけのたくさんの母の実家の人々や暮らしを知っている、、、にもかかわらず、消えた命に対して新しい命のなんと少ないことか。
少子高齢化どころか、無子高齢化である。

わたしが実際に訪れたり話したり飲食したりして知っている母の実家。
母の両親と共に、母の兄(長男)夫婦には3人の元気な男の子たちが一つ屋根の下に暮らしていた。
一人亡くなり、二人亡くなり、、、年齢とともにこの世を去る。
そして誰もいなくなった。
明るく生き生きしていた7人家族は、時と共にいなくなった。

この中で一人だけ末子の男の子は、まだ親が存命の頃、早々に婿に行った。
3番目末っ子男子なので、大きな家から婿養子の口がかかった。
彼は婿に行った先で、子供や孫が生まれている。
今、仕事が休みの日には息子とともに、誰もいなくなった自分の実家や実家関係の諸々の管理に通っている。
婿に行った先と、自分の実家、両方見ることになり、大変だろうけれど。
また、手助けしてくれる息子さんもまだ若いのに仕事の合間を縫って頑張り、なかなか親の教育が行き届いているようで感心する。

全国でこんな家はたくさんあるだろう。
実家を見るのは、婿に行った息子に限らず、嫁に行った娘さんだったりする。
というか、娘さんのほうが圧倒的に多いだろう。

母の実家、今も手が入りキレイにしてある。
幼い頃、母の実家にはお正月や法事などで何回も訪れたことがある。
半世紀以上経っても未だにしっかり間取りや雰囲気を覚えている。

作業場、農具小屋、前庭、敷地内菜園、蔵、母屋、せんだい(庭)、、、
土間にある台所、浴室、トイレ、、、水回りは少し切り離されている。
台所とは土間続きの別室の食堂。
仏間は田の字型に続く畳部屋にあり、法事の時などは、襖を取り外し、何部屋か続けて開放的に広々使う。
田舎の伝統的な美しい日本家屋である。
どの家もそういった造り、体裁、配置になっている。

母には2人の兄以外に、10歳上の姉と、10歳下の妹がいる。
母を含め女性は3人とも結婚して家を出ている。
母の妹は、親が大反対した恋愛結婚をした。
認めてもらえず実家の敷居をまたがせてもらえなかった。
だが、子供が2人出来て、ある程度大きくなってからやっと出入りを許された。
しかし、酒豪揃いの嫁の実家は、飲まないお婿さんには肩身も狭く、いつも叔母の夫は、わたしたちの女子供テーブルに静かに小さくなって座っていた。
叔母は理数系女性で職業的にも経済的にも自立し、専業主婦ではなかった。
キビキビした現代風の女性だった。
母のようなダンプカー的な胆っ玉だけで押し通すタイプではなく、ちゃんとした専門分野を持っていた。
そのせいかどうかは別として、旦那さんは優しい雰囲気を漂わせ、静かで大人しかった。
ヒモ的な要素があるのかしらんとわたしは勝手に思っていたが、後年、聞くところによると、ちゃんとしたマトモな職業を持つ、ちゃんとした社会人だった。

と、話は逸れている。

母の実家の思い出話。
幼い頃から見ている母の実家ではあるが、誰も居なくなった今も、外から見るとキレイに整っている。
少し前に、その前庭でいとこ(次男)に会ったが、整然としていた。
その時は大きな犬を飼っていて、家(敷地内)は整えられていた。
几帳面な性格がうかがい知れた。
あのいとこも、もういない、、、。
一人一人、いなくなる。

が、まだ切実ではない。
70歳ぐらいは、第1期さよなら期だ。
まだ第2期も第3期もある。
そして誰もいなくなった、、、というにはまだ時間は残っている。
少なくともわたし自身の家庭では。


母が作る嫌いな料理

2022-08-02 | 思い出
日曜の夜は、わたしは唐揚げ屋さんになった。
量は1300gと、さほど多くはないが、揚げ続けると唐揚げ屋さんの気分を味わった。
ずっと揚げ続けるのは、キッチンにも自分にも油が回る。

不思議なのは、孫たちが揚げているところを見たがることだ。
「油が跳ねて危ないから近寄らないで」と何度言っても近寄って来る。
「離れて!」とキツく言うと、わざわざ食堂から椅子を運び込み、それに乗って遠巻きに見学している。
なんで見たいのか、よくわからないが、見たいのだろう。
2歳女児が近寄ってくると、もうお手上げ。
全力で怖い顔をして遠ざける。
すでに作っておいた、お惣菜を大皿に盛り付けて流し台横の調理台に置いていたら、彼女は背伸びをして手を伸ばして大皿の端っこを掴もうとする。
「ああ〜、だめだめ、だめよ〜」と、大皿を2歳児の手の届かない炊飯器の上に不安定ながら置き替える。
蓋がカーブしている炊飯器の上なんかに置いて、ひっくり返したらどうする気?わたし。
で、また違う置き場所をお皿を持ったまま、うろうろ探す。
料理どころではない。

と、唐揚げ屋さんをしていたせいで、一個たりとも食べる気がせず。
おかげで、翌朝はまあなんと体重減少だこと。
当然の結果なのだが、少し嬉しかった自分もどうだか。

唐揚げは、キッチンがべとべとになるし、食器棚や中に入っている食器までべとべとする。
そのせいもあり、娘一家は自宅では揚げ物はせず、揚げ物はいつもうち(親宅、実家)。
とほほ、、、ではあるが、「おばあちゃんちの揚げ物」と、ほんの少しでも記憶に残ればいいかなあと。

ちなみに、長女は、育った実家(親元、うち)では、いつも夏はソウメン、冬はおでん、だったので、うんざりして大嫌いだそうだ。
おでんは、時間がかかるのに、ケシカラン。
それで長女宅では、ソーメンやおでんが全然食卓に上がらないせいで、うちでは大人気。
しかしながら、そんなに長女にソーメンとおでんを嫌いにさせたとは、、、かと言って、わたしは別に反省はしていない。

まだ田舎に住んでいた、わたしが小学生にもなるかならないかの幼い頃、お腹が空いたわたしたち姉妹は、姉の提案で、バターに砂糖を振りかけて、こっそりオヤツとして食べていた。
ちょっと塩が効いたバターが砂糖の甘さと口の中で混ざって溶けて、とても美味しかった。
これは、お菓子、スイーツの原点かも。
というより、原材料そのもの。手を加えられていない。

わたしがもう少し大きくなって中学生ぐらいだった頃、母に食事メニューについて不満を言ったところ、
「望みすぎ。ええかげんにしとき」とたしなめられた。
なるほどと、すんなり納得した。
2歳上の姉が皆んなの不満をカバーするかのごとく、美味しい手作りミートソースのスパゲッティだの、ブラウンルーから手作りしたビーフシチューだのを作ってくれて、とても感動もので喜んで食べた。
父は父で、近所の昔ながらの洋食屋さんからビーフカツレツやビーフカツカレーを時折り出前注文してくれて、それはそれはプロの味を堪能でき、泣くほど(大袈裟)感激した。
成長期でもあったせいで、それらはとびきり美味に感じた。

長女に、「おかあさんの『母の思い出の料理、味』は何?」と問われ、うーーん、としばし考え込んだ。
母の失敗作や嫌いなメニューは即座に浮かぶものの、美味しかった料理は思いつかない。
それは、母が自分好みの味、材料で料理をし、子供の口、好みを無視していたからに他ならない。
子供の好きなものを作る、などということはなく、自分が食べたいものを作る母。
自分中心主義。ブレない。
それはそれで、一本、筋が通っている。
が、、、。

祖母は、わたしたち子供(孫)の好きな料理も作ってくれた。
これらは思い出に残る。
結局、成長期にこころに残る食べ物は、祖母の料理と姉の作ってくれた料理と、父が取ってくれた洋食屋さんメニューと、最後に、母の(子供の口に合わなかった)マズイ料理。
母、かわいそう。
(他にも賄い係のおばさんや、おばあさんたちが作ってくれた料理でわたしたちは成長したのだが)

これ、子供に嫌われる料理を印象付けたわたしも、母と同じような役どころになっている。
歴史は繰り返す。
しかし、納得がいかない。ぷんぷん。

※写真は、娘婿(次女の旦那さん)が作ってくれたお誕生日メニューの一部。前菜、オードブル。