蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

2022-07-16 | 思い出
今日は父のことを書きたい気分。

真面目で働き者でクレバーで勤勉な父。
戦争から生還したので、生きて帰って来れなかった人の分まで頑張って生きたのだろう。
きょうだいもたくさんいたのに多くは夭折し、生き残ったのは、父と妹のたった2人だけ。
そのきょうだい達の分の、目に見えない命をもらったのだろう。
大正から昭和、戦前〜戦後を生きた人は逞しい。
今の感覚で捉えて感想を言ったり、叱咤激励したりすると、時代錯誤になる。
わたしでさえ、昭和の人間。
まして、その親で大正生まれともなると、隔世の感。

ではあるが、その時代背景を踏まえた上でも、やはり頑張る人だった。
親でもあるので身びいきもある。
親を褒めることは自分を褒めることでもある。
けなすより、マシか?
あまり大きな声で周りに言うと、嫌われる。

と、前置きのいかに長いことか。
親を褒めるにもこれぐらい、但し書きを必要とするわたしは、何?
回覧板でもないし、ここは、わたし個人の閉ざされたプライベート・ブログ。
世間に何の影響もないのに、やたら警戒心の強い慎重なわたし。


父は文武両道タイプ。
真面目一筋。
質をキープしながらの仕事量が半端ない。
体力と気力と脳。
家族想いでもある。
そして、遊びの趣味はわたしとかなり似ている。
文系芸術系の遊び。
それでわたしは共感、共鳴、高評価している?
他人が見ると煙たいだろう。
まあ他人は他人。

というわけで、わたしは父を尊敬している。
短所もあり、いつも父はピリピリして、わたしにはこころ落ち着けない安らげない家庭だったが。
致し方ない環境だった。

標準より上でなくてもいいから、普通の平凡な、ゆったりした幸せが欲しい、、、と思っていた。
無いものねだり。罰当たり。
あれもこれも何もかもは無理だろう。
一つでも良いところがあれば儲けものだ。

※画像は旅先で見かけた風情ある旅館。



さらっと振り返る

2022-07-12 | 思い出
しゅるしゅるとブログを書く意欲が減退している。
世の中には何のカスリもしない。
とはいうものの、蝶ブログにお越しいただくお馴染みの方々。
大切なお客様。

さて、お座りいただくキレイなお座布団もありませんが、
今日もスタートです。

ブログ村エッセイで、実家の片付けの記事を読んだ。
良いご両親に育てられたブロガーさんだと改めてしみじみ思った。

わたしは文句や余計なことをブログで吐くが、わたしの場合も良い両親だった。
(まだ母は健在だけど)
真面目な働き者で勤勉な両親だった。
祖父も祖母も叔母も、真面目な人生を送ってきた。
地味で、名もない人々の暮らし。
その続きにわたしがいる。

おそらく、子供たちも孫たちも、こんなかんじで、真面目で地味な人生を送ることだろう。
DNAと環境か。
ひとえに健全な心身を授かったおかげだと感謝している。

ちなみに、こんな内容のブログは受けない。
別に、いいのだ。

涙からスタート

2022-06-22 | 思い出
何も予定のない、フリータイムデーに限って、早起きするわたし。
なぜ?
不思議だ。

しかし、朝、洗顔をするかのように、涙涙涙から一日は始まった。
一種の自分教、お祈りや読経タイムのようなものか、、、?
自分を静かに見つめる時間。

姑がある時、言っていた。
「お経読みながら、別のことを考えてたら意味ないねえ」

姑は、自分の祈りの内容を口に出して神様仏様にお願いする。
祈願内容を神様仏様に伝えるには声を出して言ったほうが良いと考えてのことだろうけれど、わたしは、横にいるわたしたち家族に聴かせていると感じていた。
こんなことを祈っているんだよ、と、言い聞かせる。
決して悪い内容ではなく、家族の健康、無事を祈る。
「○○に合格しますように」だとか、そんな具体的なお祈りはしてはいけないらしい。
「本望が叶いますように」だとか、「存分に力が発揮できますように」だとか、そういう、人事を尽くして天命を待つ路線。
神様仏様に頼るのではなく、自分で出来る限りの努力をしたあとに、お祈りする。
具体的に努力をしないで希望は叶わない。
そう姑はよく言っていた。
信心深い人ではあったが、肝心の努力は自分でしなければどうにもならないことをよく知って示唆してくれた。
先ずはやるべきことをやってから、そのあとは宗教祈願タイム。
そういう順序、流れになっている。

わたしが人として成長する中で、姑は大きな役割を担っている一人になっていると感じる。
自分の生き方を通して、わたしにいろんなことを教えてくれた。
わたしはぼーっとしているから、ちゃんと口に出して教えないと、気が付かなかったり、理解できなかったりする。
短気になることなく、丁寧に接してくれた。
姑も、また姑の姑に、姑が未熟だった頃に優しく教えてもらったらしい。
「何も知らない自分だったと、つくづく思う。よくあんな自分に、義母(姑の姑)は冷静に対応してくれたものだと、今になって思う」
と、未熟だった(今もだが)嫁(当時のわたし)を見て感慨深く気づいたようだ。
姑も(わたし同様に)良い上司に恵まれた。

姑が嫁いだ時、家にきょうだいはたくさんいたが、喧嘩もなく家庭は仲よかった。
生活は厳しかったが、仲良しは受け継がれるようだ。
少々口は悪くても、こころの中は悪くない。
暖かいハートを持つ皆さんだと、わたしは感じている。

もうわたしを脅かすものがない今だから言えるのだろうけれど。
今となれば、わたしの敵は、わたしでしかない。
だとすると、味方にしてしまえばよいわけで。
仲直りしましょう、わたしと、わたし。
涙タイムは、ブログタイムでもあった。
さあ、早起きした分、ブログも更新出来たし、あとは寝るだけ?
いやいや、まだ朝だし。

さて。
今日はどういう一日になるだろう。
爽やかにスタート!
楽しい一日の始まりだ。


追伸。
夢様へ。私信です。
若き日の出来事、読ませていただきました。
エネルギーや思いがひしひしと伝わってきました。
映画や音楽は魂を揺さぶることがあります。


重い

2022-06-13 | 思い出
今日の気分は、、、
なんとなく、おばあさん(姑の姑)のことを書きたくなった。
何度か、蝶ブログには書いているが、なぜかぶり返す。

姑の姑(夫の父方祖母)Aは、小柄だが、キリッとした知的な明治生まれの女性。
婦人会で活躍もしていたようで、行動力があったと聞く。
わたしが初めてちゃんとAと話したのは、結婚してすぐ。
「ここは、あなたの家だと思って寛いでくださいね」と言われた。
ご挨拶のようなお手紙もいただき、今も保管してある。
(一回ぐらいしか読み直したことがないけれど)
ある日、真珠のネックレスをいただいた。
白いVネックのニットトップスの服をいただいたこともある。

かくしゃくとした、存在感のある人だった。
若い頃は、ぼんぼんじいちゃん(旦那さん)に振り回されたが、晩年は夫婦で旅行に出かけることもあった。
おじいさんを送った後は、寡婦で8年ぐらい過ごし、わたしの末っ子が生まれた半年後に病気で84歳で他界した。
菜園で胡瓜などを毎日もぎ取り、姑にもお裾分けしていた。
姑は毎日、 Aおばあさんの晩年には食事を作り持って行っていた。
偉いなあ、、、と感心する。

Aおばあさんは、昭和4年築の家におじいさんと住んでいた。
2度のリフォームを経て、今も現役の美しい(とわたしは思っている)家であるが、1度目の大規模リフォームの後に、わたしたち母子は1年間、その家に住んでいた。

Aおばあさんは、真面目な成績優秀な優等生だった。
だが、結婚相手(おじいさん)が、お洒落なボンボンだったため、何かと苦労した。
おじいさんの写真を見ると、カッコいい男性だった。
ああいう男性は、夫にすると苦労しそうだ。
実際、苦労したわけだが、、、。

姑の仏事で、ご近所に住む人とお話しする機会があった。
「おじいさんが、(ぼんぼんちゃん、故)Aおばあさんなら絶対に売ってくれない家を売ってくれた。ありがたいことだった」と、今も感謝の言葉を述べられる。
おじいさんは、夢のような話に乗って、次々に土地や家を手放していった。
夢見る、ぼんぼんちゃんだった。
そのせいで、かどうか知らないが、おじいさんの息子(舅)は、まあ堅物、石頭堅吉、「1足す1は、何が何でも2!」の人だった。
姑はよくぼやいていた。
無駄なお金、合理的ではないお金、納得できないお金はビタ一文と払わない主義(誇張表現あり)の舅と、考え方が合わずに困っていた。
わたしの目から見ると、姑こそ、何であんな無駄遣いをしたがるのか、理解に苦しんだ。
わたしは、舅派。
そのせいか、舅と同じ感性であるが故に、微妙に違う些細な点が気になって、あまりウマは合わなかった。

Aおばあさんには、さらに上に姑Bがいた。
夫の母(わたしの直属の姑)が新婚旅行中に、その大おばあさんBが亡くなり、急遽、新婚旅行の日程を変更して舅と姑は旅先から帰ってきたとか。
1951年没。
その時、姑の姑、Aおばあさんは、49歳。まだ若い。
翌年には初孫が誕生している。50歳で初孫。
これは、姑も40代中半で初孫なので、同じようなものか。
(しかしまあ、時代は変わり20歳ぐらい今のほうが結婚、出産年齢が遅くなっている)

と、それはそれとして。
姑の姑、Aおばあさんは、カシコイ人だった。
身長は低めで体重も普通だと思われるが、落ち着いた風情で、どっしりしていた。
話す言葉や、書く文章も、折り目正しいイメージで、近寄りがたいオーラを放っていた。
おちゃらけではないが、ユーモアやウィットも備えていたような気がする。
姑は冗談をよく言う、朗らかなタイプ。
ただし、脳の回転が速すぎて神経質。
わたしは、脳の回転が遅すぎるノーテンキ天然なので、接点がまるでなく噛み合わないため、衝突や摩擦も生じなかった。

おばあさんたちは、優秀でカシコイ人ばかりなのに、わたしの代になって急に質が暴落した。
子供への DNAは、わたし分を引き継がなかったようなので、やれやれ。
わたしは、単に、貸し農園のごとく、畑をお貸ししたのみ。
姑たちが横から上手に水をやり、肥料を足し、日射を調節した成果なのだろう。
だが肝心の種そのものは、あまり簡単には手に入らない貴重なものだったようだ。
子供たちはそれで良かったと思われるが、過保護の夫だけが修正されないまま、次の時代に移ってしまった。
母親の手によって自立能力を潰された。
潰されたものを今更、わたしは手を加えたくない。
と、突然、快晴後の土砂降り、天使と悪魔のように豹変するわたし。
ランダムに混ざっている。

Aおばあさんは、長男(わたしの舅)とソリが合わなかった。
厳しすぎる息子と、厳しいおばあさん。
似たもの同士のような気がする。
息子(わたしの夫)は、正反対。
わたしも甘々。
こんな夫婦では、姑が手を出したくなるのもわからなくない。
夫を非難することは、自分を非難するのと同じ。
自分のことは、嫌というほど非難しているが、あまりやり過ぎると(自省の念が強すぎると)こころの病気になってしまう。
まあほどほどに反省して、ほどほどに鬱憤も晴らして、、、と。

Aおばあさんのことを書こうと思っているのに、またまたまだやっていないタスクがじわじわ重くのしかかって来た。
そろそろ限界かな、と。
重い重いお尻を無理やり上げなければならない時が、目前。
ああ憂鬱。 
でも、グズグズ動かないで後で困るのはもっと憂鬱。
窮地に陥る直前の、窮地。
なんでこんなに、わたしはお尻が重いのだろう。
嫌になる。
(Aおばあさんのことは、もうアタマから飛んでいる)

それと、ブログ村さま
ずーーーっと、不具合が続きます。
どうにかなりません?





2022-03-12 | 思い出
突然、なにか偶発的に取っ掛かりがあると、するすると過去の回路が開通し、昔、昔の出来事が鮮明に思い出される。

「蘇る」とは少し色彩感覚が違う、小学校高学年頃の作文のようなトーン、色合いで「思い出す」。
あまりこころを掻き乱さない出来事なのだろう。

と、前置きが長い。

ある若い日、わたしは結婚1年後から年子を毎年産んで、3人目でダウンした。
病気になった。
その頃は、夫の仕事の赴任先を1〜2年置きに転々と変わっていた。
引っ越しの段ボールと共に子供の数が増えていった。
見知らぬ土地なので、知り合いはいない。
乳幼児を3人抱えて、子育てだけの毎日を送っていた。

当時は今の風潮とは違い、男は仕事、女は家事育児。
夫はただの一度も赤ん坊のオシメを換えたことはなかった。
(当然、姑のオシメも)
で、一人きりで孤軍奮闘していたが、夫が帰宅するのは憂鬱だった。
夫の世話に手を取られるからだ。
今では考えられない、隔世の感。
どこの惑星の話だろう???
我々は、宇宙人か?

まあそういうわけで、わたしは身体を壊して病気になった。
さすがに年子3人の乳幼児を抱えて、母親が病気になると、さて、どうしたか?
初めの頃は姑が遠方から泊まり込みで手伝いに来てくれた。
交代で実母も応援に駆けつけてくれた。
が、遠方でもあり、度々呼び出されては姑たちも対応できない。
さてさて、どうなったでしょう?
はい、ご想像の通り。
病気をしている本人の実家に転がり込むことが多いと思われるが、わたしの場合は、夫の実家にお世話になった。
夫抜きで舅、姑と同居。
長女は夫の実家の地元の幼稚園に入園した。
下の2人は、お姉ちゃん、行ってらっしゃい〜!と、お留守番。
私たち母子は、夫の祖父母が住んでいた別棟で過ごした。
昭和4年築だが、キレイにリフォームされ、建具も表面を新調され、柱や床は美しく洗いにかけられ、快適な住まいとなっていた。
しかも、3食昼寝付き。さらに、手のかかる夫はいない。
代わりに姑が手助けしてくれる。
天と地の差。
天国である。
姑、舅は孫たちを可愛がってくれるし、わたしの健康状態を気遣ってくれる。
あれを手伝えだの、働けだの、言うわけもなく、自宅療養の身であった。
一年の療養期間を経て、夫は単身赴任を終えて、我々は今、住んでいる家に合流した。

と、この時期は、時間はゆっくり流れた。
自分が持ってきた婚礼道具も全て夫の実家に入れていたので、荷物整理と言う名の、お遊びをしていた。
遠方で赴任中は、乳幼児と一緒くたの同じ檻内の動物園のような子育て期間。
服など選んで着ることもない、着ることも出来ない。
毎日が終わればそれで良かった、そういう期間。
それが100万馬力(昭和・死語を平気で使う)の助けを得て余裕の自由時間を得た。
荷物の中から自分の若い頃、着ていたお気に入りのお出かけ服を取っ替え引っ換え、着てみた。
風通しを良くしたり、陰干したり、服の具合いを確認したり。
そのためには、着てみるのが一番手っ取り早い方法だった。
こんな服、着てた、着てた、好きだったのよね、これ、やっぱり素敵、と、こころの中では、きゃあきゃあ、はしゃいでいた。
部屋で着るだけでは物足りないので、当時、通院していた地元の病院の受診に着て行った。
1か月にわたり入院もしていたその病院に、定期的に受診していたのは病状が落ち着くまで数ヶ月続いた。
その病院に受診する度に、若い頃の、煌びやかな生活感ゼロのオシャレ服を取っ替え引っ換え着ていたものだから、良く思わない人がいても想定内。
病気になっている人々が暗く辛い気持ちで通うところなのに、生活感無く、場違いでキャピキャピしているわたし(だったのだろう)。

ある日、主治医の○○先生の定例診察を受けていたら、後ろにいる看護師さんに言われた。
「あんた、○○先生と浮気しようと思ってんの?」
はあ?
思いも寄らぬ言葉に、意味が理解できなかった、、、が、3秒後に理解した。
快く思われてないことを自覚した。
しかし、なにも直接、言わなくてもよいものを。
わたしは○○先生に対する気持ちは主治医以下でも以上でもなかった。
わたしの主治医の先生。
なんでそんな人と浮気せにゃいかん?!
しかも、あんな閉鎖的な田舎で。

それにしても看護師さんの発想が気の毒で不憫だ。
そんな発想を抱く彼女の深層心理は、女性として満たされない思いがぎゅっと詰まっている。
鬱積した思いが捻じ曲がって渦巻いている。
触れずにそっとしておけばよいものをこれでもかこれでもかと毎回オシャレな服を着て現れる、浮世離れしたわたし。
わたしも、家の中と外とで空気の違いを楽しみ、メリハリを求めていたのかも知れない。
自分だけが一人で楽しんでいたのだが、周りの見る目など一向に眼中になかった。

思いも寄らぬ言葉を投げかけられたわたしだが、悲しいとか、怒りはなかった。
刺激しちゃってたのね、わたし、、、ごめん!
そういう気持ちだった。
一生懸命、なりふり構わず働いている目の前で、チャラチャラされたら気分も悪かろう。
チャラチャラしている自覚は全くなかったのだが、ああいった言葉を投げかけられて初めて気がつくという、ノー天気のわたしだった。

これを今、書いていて、恥ずかしかったとか、悪かったとか、配慮が足りなかった、とか、当時は全く感じなかった。
不思議なことを言う人もいるものだ、と思っただけ。
だが、女性のお腹に持った無意識、深層心理の何かを刺激するのはよくないことは確かだ。

他にも、別の地域で今思えば恥ずかしくなるようなことをぽそっと言って、たしなめられたこともある。
きゃっ!と叫びたくなるような大恥。
たしなめた人も人である。
胸に収めるなり、見過ごすことが出来なかったのだろう。
どうしても、言っておきたかったのだろう。
「あなた、何様なの?」と。

若き日は赤恥の日々。
年老いた日も赤恥の日々。
一生、赤恥の日々。
怒りとかではないからマシか。
わたし自身のキーワードは、「恥」かなと。

と、遠い昔のある日を思い出し、書き連ねることによって、少しは認知症予防になっただろうか。
長いだけのだらだら駄文であるが、まあ楽しかった。
めでたし、めでたし。
長駄文にお付き合いありがとうございます。
あれ?誰もいない、、、



不美人は不幸にはならない?

2022-02-12 | 思い出
さて。
今日は昔話を。
過去から現在、そして未来もずっと引きずって行くだろう、わたしの自立心の無さについて。
正確に言うと、自立心はあるのだが、気持ちの上だけであって、実質は伴っていない。
それ、自立してないのと同じ。
(※身体に問題があって自立出来ないケースには言及していません)

精神的に自立出来ない、精神的な病気も今回は横に置いておき、、、
健康な心身を持っているにも関わらず、自分が自立していないことについて書きたい。
あ〜、前置き、説明が長い。
昨今は、世の中は何かとデリケートになっているので気を使う。

で、話を戻す。
わたしは自立心はあるものの、サボりなのでどうもいけません。
つまり、最後のあたりで、踏ん張りが効かない。
ここぞ!!というところで、スタミナ切れ。
なので、いつも、ああ今回もダメだった、、、となる。

30歳ぐらいの時。
アメリカにほんの短い期間、ホームステイした。
未就学幼児3人、日本に置いて行ったので、その間、姑(故人)には大変お世話になり、今も頭が上がらない。
足を向けて寝られない。(どの方向?)
ホームステイ先は、コンピュータ関係?の仕事をしていた35歳?ぐらいの独身女性。
大柄で明るい、大まかなさっぱりした性格。
二階建ての回廊型アパート。テラスハウスのようなもの?
建物に囲まれた真ん中に、共有の庭があった。
カリフォルニアの青い空。
メキシコ国境に隣接した街だった。
彼女は、(ちょっとオンボロではあるが)マイカーで仕事場に通っていた。
当時、わたしは喘息を患っていてMAX飲み薬を飲んでいた。
そのことを彼女は電話で友人に話していたのを覚えている。
彼女のお楽しみの日課は、仕事を終え帰宅後、留守番電話のメッセージを聞くことと、送られてきた手紙を読むこと。
電話もしていたかなと。
何しろ独身一人暮らしではあるものの、わたしの拙い英語にびっちり付き合ってくれるほど暇でもボランティア精神旺盛でもない。
わたしは彼女に何を話したかよく覚えてないが、彼女は友人には休養(バカンス)で来ていると説明していたような。
お遊び、ってことだ。

確かにお遊びである。
子供を置いてまで、家族に迷惑をかけてまで、必死の覚悟で日本を飛び出してきた気迫はゼロ。
あんた、何しに来たの?の世界だろう。
一応、名目は語学研修なのだが、自分で言うのもへんだが、笑ってしまうレベルだった。
わたしはそういう、何か真面目風、まとも風、お勉強風を装って、たんに実体は遊んでいるだけ、ということが多い。
本人は真剣なのだが、実践レベルが低く努力が伴っていない。
パッケージや包装紙はカッコいいのだが、中身はお粗末そのもの。
表面の体裁を磨いて底上げしているのに過ぎない。
磨くべきは、中身なのに。
どうも、外側から中身に移行すると力尽きるようだ。
それなら、外側には目もくれず、黙々と着実に努力し積み上げていけばよいのだが。
若き日は、まずは外側から、器から、見た目から入ることが多い。

やがてメッキが剥がれるのには時間はかからなかった。
つまり、お遊びだけの人生体験に過ぎない時間を過ごした。
しかし、そのお遊びは、わたしの血となり肉となって、それ以後のわたしを肉付けしてくれている。
骨格や内臓は、生まれつきのものだろうけれど、オプションは彩り自由。

当時は若かったので、意気込みも強く、クラスメイトを寄せ付けないオーラを放っていた。
日本から一緒に行った人や、現地日本人とは絶対に話さないぞ!と決めていた。
なので、アフタークラスはいつも一人行動。
休日は、ホストファミリーの女性が、BFの家やお友達のパーティーに連れて行ってくれた。
その他の時間は、わたしは国籍不明の自由人となっていた。
現地に馴染みすぎるせいか、わたしは日本人に見えないこともあり、結構驚きだった。
ショッピングもよくして、日本でも30代はアメリカで買った服をよく着ていた。

だが、ホームステイ先から旅に出ることはなかった。
毎日、授業が終わって午後、ぶらぶら近場をうろちょろは出来ても、遠くには能力不足で一人では行けなかった。
そのあたりから、わたしの人を寄せ付けないオーラは変化していったようだ。
自立心は何処へ?
今となっては、幸運だったとしか思えないが、たまたま良い人に出会い、善意、善行を受けた。
運が悪いと、そこから不幸が始まるのだろうけれど、本当にわたしは運が良いとしみじみ思う。
だが、その出来事をキッカケに急に人生が大展開するかというとそうではない。
また運良く、楽しく元の位置に機嫌良く戻ることができた。
幸運の、善良な人物は、一人ではなく二人。
一人は、同じ授業を受けていたか、前後の授業を受けていた男性。
日本企業勤務で、英語研修のため現地在住?単身赴任?
もう一人は、同じアパートの住人のアメリカ人男性。
共通点は二人とも男性で、善人。そして、何よりも紳士!!!
あちこち、連れて行ってもらった。ミニ・ジャーニー。
結局、ラクして安心安全に観光を楽しんだ。
自立した行動どころか、親切な人々に助けられた格好になった。

わたしは今まで悪い男性と縁があったことがない。
これは何だろう?
わたしに、悪人を呼び寄せる力がない、、、
わたしは、悪人を魅了する魅力がない、、、
ではあるが、大きな人生の岐路となり、悪人や善人と発展があるかというと、、、
たんにただ楽しい思い出に留まり、人生はまた元の路線に戻っている。
本線から外れることは決してない。
というか、善人を引き続き人生に取り込む、そんなパワーも魅力もないのかも?
人を狂わせる、あるいは自分が狂う、クレイジーな要素がないのだろう。
美人じゃないから、、、仕方ないというか、まあ仕方ない。
淡々と我が道を行っている。
が、周りは善人のみに彩られ、良い思い出しかない。


幸運なのだろう。
というか、悪人はわたしのような天然は接点がないのかも知れない。
外の世界の人には何のアピール力もない。
何のインパクトもない。
いるかいないか、わからない。

わたしなんぞ、騙そうと思えば赤児の手をひねるかの如く、騙しやすいのだけれど。
「僕は国際秘密情報員だ」などと身分を偽ると、興味に駆られて根掘り葉掘り聞いてしまいそうだ。
どこのスパイ?任務は?経歴は?報酬は?
もし、惚れてしまって、聞いてはいけない、などという展開になったとしたら???
しかしスパイは現地の人と深い関わりは持ってはいけないはず。
うーーんーーー。
興味よりまず、疑うだろう。
本当??と。
スパイだなんて自分で言っている人ほど怪しい人はいないと思う。

人を騙すには目的がある。
お金目的の詐欺。
あるいは、恋愛のゴタゴタ。
結婚詐欺は両方の要素を兼ね備えている。
お金絡みがわかりやすいけれど、権力闘争なんかも騙し合い。
自分は国家の上層部にいる人物だ、とか、業界の頂点の人間だと言われると、情報網を使って調べるだろう。
あるいは、ツテがないと探偵社に依頼するかも知れない。

アンダーグラウンドにいて一般探偵社では調べようがない人だったりすると?
アンダーグラウンド専門の探偵社もあるので、犯罪歴あたりで黒い履歴で引っかかる?

と話は逸れに逸れている。

自分は騙されないゾ!と確信している人ほど騙されやすいらしい。
あまりにも当たり前過ぎて見逃す盲点みたいなものがある。

悪人はわたしをどのように騙せばよいか、である。
高校生の頃、別の高校の生徒達とも交流があった。
当時、すでに社会人になっている、友達の友達の友達もいたが、皆んなで合流して遊びに行ったことがある。
全くカスリもしないほどわたしは接点がなかった。
言葉はどうにか通じたが、身にまとう雰囲気が相容れなかった。
幸か不幸か、わたしの人生を波瀾万丈にするには、彼らはやや迫力が欠ける。
波瀾万丈とは、頂上と最低の上がり下がりがあり、わたしは頂上はさほど熱望しなかったが、bottom(底)は嫌だった。
誰でもそうだと想像するが、わたしは今より上には憧れ努力の真似事はするが、下には落ちないようにしようとする。(いわゆる向上心)
平凡な日常を送るわたしには、多種多様の出会いが無かったのかも知れない。

まあわたしは、今の波風が立たない毎日が気に入っているので、それも悪くない。

今日はちっとも終わらないので、このあたりで強制終了します。


静かな人

2022-02-10 | 思い出
今日は認知症進行速度を緩める効力と、たんに自分が楽しいだけの、お読みになっても毒にも薬にもならない、つまらない内容です。

と、最初に前書きすると、迎合やら、ウケやら、感想やら、評価やら、気にせず気楽に書ける。
可愛いげがない。

で。
今日の文字、無駄遣いは、「思い出」。
高齢者にありがちな、「昔は良かった、、、自分は偉かった」
あるいは、「昔は大変だった。それに比べて、今の人は、どーこーあーこー」
に、今日はならない予定。あくまでも、予定であるが。

誰も知らない、無名中の無名人である、超個人的肉親の人物の思い出を辿る。
(蝶ブログには最低一度は綴っている)

父方の祖父。
わたしが3歳半で他界。(享年72歳)
記憶に残るのは優しい祖父。
廊下を渡る離れで、晩年は脳卒中で伏していた。
祖母が自宅で介護、看護。
祖父の部屋に行くと、袋物のお菓子を出してくれた。
後遺症のため手が不自由なので、脇に袋を挟んで、口に咥えて(歯で?)袋の端から開封していたのをよく覚えている。
あとは、井戸前、蔵前の、家屋の壁に面して木製の120センチ?(150センチ?)ぐらいの大工道具入れ家具が置いてある土間スペースに立って、夜のおかずになるニワトリをぶら下げている姿をうっすら記憶している。
のだが、、、わたしが3歳半で亡くなり、それまでは病気だとすると、伏している期間は短く、病気発症はわりと遅かったのか?
でなければ、昼間、作業している祖父がわたしの記憶にあるとすると、0〜2歳で覚えていることになり、わたしは天才級に記憶力が良いことになる。
そんなはずはないので、ニワトリ男性は別の人である可能性がある。
父はあまりそういう作業には関わらないので、その人物は父ではないとたぶん思うのだが、、、
ひょっとすると、母の兄(伯父)とか?
今となれば、確認のしようがない。
祖父の思い出は、お菓子と、お葬式当日だけ。
大人たちが大勢集まり、当時5歳半の姉と、いつもとは違う雰囲気に、はしゃいでいた。
姉が祖父の顔にかかっていた白い布をちらりとめくったりして、こっそりイタズラして遊んだ。
3歳半でも、記憶というものは強い。
心理学的には、幼い頃、災害や事故に遭うとトラウマになることだろう。
その3歳半を最後に、それ以前の幼い頃の記憶は祖父に関してお菓子以外にはあまりない。
子供は、日頃貰えない、既製品の市販のお菓子が印象に残っているのだと思う。
兄や姉はわたしより歳が上なので、もう少し祖父のことを覚えているだろうけれど、わたしはお粗末な記憶しかない。
そう言えば、お葬式に遠方から来て参列した親戚の子供たち、兄弟(小学校低学年?)二人で大げんかをしていた。
それがお葬式の時なのか、法要の時なのか定かではないが。
二人とも、その後もよく知る人物だ。
わたしより弟は5歳ぐらい上、兄は7?(8?)歳ぐらい上。
団塊の世代である。

祖父は、モノクロの写真でしか知らない。
わたしが直前見て知っているのは、3歳半までだが、明治生まれの祖父を取り巻くヒストリーがある。
今日は書く気がしないので、またそんな気になれば書くかも知れない。

簡単な目に見える、さらっとした思い出シリーズ。
はい、次、祖母。
祖母は、わたしの記憶によく登場する。
わたしが生まれた時から、祖母が亡くなる時までのお付き合い。
母が仕事で忙しいので、平常の家事は祖母が担っていた。
畑から野菜を摂ってきて、煮たり焼いたりしてそのまま食卓へ。
季節のツクシもアク抜きして調理後、食卓へ。
そこらへんにあるものは、なんでもかんでも食卓へ。
わたしは、来る日も来る日も単調な野菜のおかずにうんざりしていた。
茄子の素揚げとタケノコの天ぷらは好きだったけれど。
今の健康な体は祖母が作ってくれた食物のおかげだと、とても感謝している。
やがて祖母は、コロッケを作ってくれるようになり、わたしはそれが大好物だった。
野菜は自然に勝手に生えてくるわけではなく、育てているのだが、生業にしていないため家庭菜園の域を出ないにしても、作付け面積は広かった。
ほうれん草、小松菜などの葉物、トマト、きゅうり、茄子、大根、じゃがいも、などなど、祖母が一人で育てていたように思う。
朝夕、1日2回、玄関周りの板間を雑巾掛けしていた。
雨戸の開け閉めから始まり、きちんと家事をこなす働き者だった。
(その雨戸、開閉にコツがあり、なかなかすんなり行かず、今もわたしを手こずらせている)

晩年、「わたしみたいな(何の取り柄もない)者をおじいさんは可愛がってくれた」と祖母はぼそっと漏らした。
その時は、わたしはなんとも思わなかったが、今、これを書きながら、涙が止まらない。
明治の女性には頭が下がる。
祖母は、喜怒哀楽をあまり表さない、静かな人だった。
無口で大人しいが、芯はしっかりしていると思う。
息子(わたしの父)は、生き残った息子の中の貴重な一人で、大人しいとは言い難いキャラクターだったし、加えてその嫁(わたしの母)は更に激しい人だったから気苦労もしただろう。

わたしたちが父の仕事場近くの家に引っ越した後も、田舎のだだっ広い家に一人で住んでいた。
(頻繁に家族は帰っていたが)
が、88歳の時に、父の仕事場のある家に身を寄せ(というか、引き取られ?)91歳で他界した。
祖母のお葬式には、わたしは生後7ヶ月の長女を連れて参列した。
祖母方の親戚の女性が、泣きながら「おばあちゃん、おめでとう」と言っていたような。
長寿で寿命を全うした、祖母だった。
今のわたしには、ありがとうという感謝の気持ちしかない。
どんな感動的な映画を観るより、なぜか泣けて泣けてたまらない。




隙間の家

2022-01-29 | 思い出
(※写真と記事は無関係です)

・・・
昔、子供の頃に過ごした家。
実家1(田舎)と実家2(街)の隙間にあるような家。
これもある意味、実家というのかも知れない。
実家1は、大正時代建築の田舎の古い家。
実家2は、父の仕事場。
実家3が、田舎と仕事場を繋ぐ家。
田舎⇄仕事場⇄その家⇄学校

3つの家を行ったり来たりしていた。
わたしのベースを作ったのは田舎の家。
自然に囲まれたのどかな風景。
父が生まれ育った田舎の家で、わたしたちきょうだいも生まれ(途中まで)育った。
1番多感な時を過ごしたのは、隙間の家。
わたしは小学生高学年から22歳まで。
姉は中学1年から23歳まで)
今もハッキリくっきりその空間を手に取るように覚えている。

両親は主に仕事場で仕事をしていて、ほとんどその家には寝に帰るだけ。
子供たちだけだった。
姉、兄、わたし。
姉とわたしは、二階の奥の和室の窓側(東)(床の間と反対側)に背中合わせに勉強机を置いていた。
兄は二階の手前の和室を独り占め。
窓側(北)に勉強机を置いていた。
兄は中学3年から18歳までそこで暮らした。

兄が出て行った前後に、姉が一階の勝手口近くに増築された洋室を、個室として確保。
わたしは、姉がいた時は畳に布団を並べていたが、姉が居なくなった和室に、ベッドを置いて、一人でいた。
兄が居なくなった和室はそのまま使われず、わたしの和室に行く、たんなる通り道となった。
兄がいた和室は6畳ぐらい?
わたしたち姉妹の和室は、8畳ぐらい?で、畳に続いて、腰から上に窓のある板の間(東側)があり、更に人が通れるぐらいの幅数十センチの木製ベランダ?付きの上から下まで窓一面(南側)に面していた。
そして、床の間(西)(続きに違い棚付き)があった。
木製ベランダは、雨戸を閉めるために作られていたと思われる。
周りには陽光を遮る高い建物はなく、明るい。
一階はガラリと格子戸を開けて玄関があり、3歩?ぐらい進んで玄関を上がると、2畳か3畳程の玄関前の畳敷小部屋?(待ち合い?)。
そこを通って、右手側に改装された洋室(田舎の家から搬入されたと見られるピアノと、応接セット、ステレオ。昭和色そのまんま)、左手南側に和室2室続き(道路南側和室前には小さな細長い庭、その前は道路から隔てるための塀)、北側、お風呂とトイレの前に小さな庭、台所、カー・パーキング・スペースがあった。
50坪ぐらいの敷地に建てられた、しっかりした戦前の街の家のようだった。
十分、レトロ感ありありだったが、機能性は良いものの、住み手は忙しく、ほったらかし風だった。
姉は途中から増築洋室に移ったから良いものの、わたしは、畳にベッドという、いかにも時代の継ぎ目の、生活優先、インテリア感覚を無理矢理押し殺したような部屋だった。
特に二階のわたしの部屋は、当時(60年以上??前)流行った、かなり暗い濃い色に、キンキラが散りばめられているような和室仕様の塗り壁で、エグかった。
そのエグい塗り壁の色違いが、夫の実家の別棟に施されていて、わたしはそのテイストが嫌いだった。

が、立地は抜群。
学校の生徒の中では、一二を争うほど学校から近かったのでは。(一二の成績を争うほどなら良いが)
とはいうものの、学校に隣接する、学校の真横に家がある生徒が二人いて、その子たちには近さでは負けたが。
電車通学の生徒が少なくなかったため、学校から駅までの、休憩場所にはぴったり。
駅も、電車やバス、色々。
駅を利用して、東西南北、あらゆる方向から生徒が通学していた。
その中で、駅に向かう道の、ど真ん中にある家だったので、クラスメートのほとんどは来たことがある。
親が不在なこともあり、気軽に皆んな寄ってきた。
ただし、悪の巣にはならなかった。
悪自体が存在しない学校だった。
わざわざ遠路遥々通う生徒、嫌なら通わない。
登校拒否生徒はいたのだろうか?
せっかく勉強して受かった学校だから、辞める生徒はあまりいなかった。
地元では優秀でも、地元を離れると優秀な生徒だらけ、、、という話はよくある。
緊張の糸が切れ虚無感に襲われたり、、、。

わたしは、そんなイバラの道を経ず、くじ引きで合格した。
運がいいのか、悪いのか。
(その後は、くじ引きはなくなったようだ)
うちぐらいだ、遠路でもなんでもない、すぐそこ、至近距離に家があるのは。
学年をまたぐと、数人、近くの子もいた。
ちなみに、学校というものは、近ければ近いほど便利だ。
というわけで、秀才の皆さんの中に混じって、家が近いわたしがいた。

家の構造よりも、学生生活と切り離せないのが、実家3・隙間の家。
実家1も実家2も(2は姿形は変わったものの)今も存在するが、実家3はもうない。
今は、知る人ぞ知る地元老舗店舗の駐車場になっている。

この隙間実家、、、昼と夜の顔がある。
これを書き始めるとまた長い。
まだ今の年齢では書く気がしない。
もっともっと歳を重ねたら書くかも知れないし、書かないかも知れない。

一人称

2022-01-20 | 思い出
閲覧数の神様は、何ごともなかったかのように以前のままの佇まい(閲覧数)。
むしろ下降。
もうどうでもよい。

さて、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い話。
書いてどうなるものでもないが、書きたい時に書くのがわたし。

小姑は実家に来た時、自分のことを「○○」と名前を呼び捨てにする。
例えば、ルミ子だったら、「ルミ子、そう思う」「ルミ子の分も欲しい」という具合。
わたしは、あの一人称の呼び方が癇に障ってしかたなかった。
(「ルミちゃんねえ」「ルミたんが、ね)よりは、マシか)
誰も教えもしないのに、うちの3番目孫は3歳で自分のことを「わたし」と言うようになった。
ついでに、話は逸れる。
孫たちは親のことをパパママと呼ぶのだが、それは世間体を考えて。
ほんとうは、「おとうちん」「おかあちん」なのだが、皆んなと呼び方が違うのが恥ずかしいようで、親は決してお互いパパママと呼び合っていないのに、孫たちは世間の風に負けたようだ。
あっさり迎合している。
わたしは、おとうちん、おかあちんという呼び方が大好きなので、いまだにひとり、娘夫婦のことをおとうちん、おかあちんと呼んでいる。
家の中に世間の風は入って来ないから気楽。

それは脱線話であり、本筋に戻す。
孫が社会人にもなろうというのに、「ルミ子ねえ」は、なかろうとわたしは思う。
さすがに最近は言ってないかと思うが、30歳〜40歳の頃はそう呼んでいた。
ついでに、小姑は母親のことを「ママ」と呼んでいた。
ひ孫が出来ようが、これは今でもだろう。
各人、好きに呼べばよいと思う。
が、育成背景、環境を知っているわたしには、また違う響きを持つ。

国が違うと呼び名も違う。
だから、末端現象だけ捉えると、何の問題もない。
たんに、わたしが背景や方針が嫌いなだけだろう。
なぜこんなに、何十年経ってもブログにツラツラ書き連ねるほど嫌いなんだろう。
まあ、いろいろある。
過去の思いは、醸成され、違う質に変化している。
「美化」は、その反対語。
「思い込み」、あげくのはてには話を盛って無自覚捏造?

小姑自体はとても良い人、好人物。
意地悪されたわけでもなんでもなく、むしろ気遣いしていただく。
小姑自身を憎むことは全くない。
わたしに恨まれる筋合いは全然ない。
では何を?
おそらく、その背景、現象だろう。
誰も悪くない。
組織の力、全体責任、必要悪、愚衆、、のように、ピンポイントで人物を特定できない。
登場人物は皆、良い人。
時代の価値観やうねり、流れで、光の当たり方は変わる。
それだけのこと。

わたしはそれに気付いているが、小姑は気づいていない。
気付くのが良いかというと、決してそんなことはない。
気付かない方が、幸せなことは多い。
気付いたからといって、不貞腐れているだけで何もしないなら、気付かず明るく前向きに行くほうが、ずっとずっと楽しい。
気付いた側から気付かない側に何やら言ったところで、人の幸せを邪魔するようなことは、すべきではない。
対岸の火事、出来事。
「あなたのためだから」と一時CMで流行ったことがある。
全然、あなたのためでないことを皮肉る時によく使われたフレーズだ。
押し付けがましい主張の正当化。

気付いたり、憎んだりしても建設的でないなら、無意味だ。
改善に向けて努力、実践するならいざ知らず。
あ、そう、と軽く、人の人生には立ち入らないことが賢明かと思う。
自分には自分の人生。
人には人の人生。
お互いに楽しく時を重ねていけたらよい。

悪口を書いてスッキリする予定が、モヤモヤするだけになった。
他人を悪人にして、他人のせいにできると、モヤモヤしないのだが。
自分軸というものは、自分で落とし前をつけなければいけないので、厄介だ。

現実とお花畑

2021-12-24 | 思い出
最近、あまり夢を見ない。
若い頃は、子供時代の夢をよく見ていたように思う。
まだ自分も幼かった頃(推定)、印象に残る夢は、
田舎の実家の庭、子供部屋がある場所の屋外周辺。
窓の下近くで水のせせらぎ、、、(生物の自然現象、排尿)
気持ち良い瞬間に目が覚めると、夢時間と同時進行で、おねしょ。
そういう夢を見ている夢。何回も。
まだ未だに、おねしよ? 
さすがに、今の年齢ではそれはないのだが、将来はあり得る。
いや、時計を逆に回した、幼い頃の逆の時間に近づいてきているのか。
笑えない、、、この夢の話。

しかし、子供部屋があった、田舎の実家の様子は手にとるように瞼に浮かぶ。
子供部屋はリフォームしてから、我々3人きょうだいの部屋を新たに増築?改築?された。
最低一度は、蝶ブログにも書いている。
兄は、小窓がある面に勉強机。(窓の向こうは庭、小さい小さい人工ため池、その向こうには祖父が伏していた部屋があった)
勉強机が置かれた壁の続きにピアノ。
その面の壁は終わり、新しい直角に続く面になり、一面窓。(窓の向こうは庭を挟み、鶏小屋)
またその面が終わり、直角の面(ピアノが背面)、上半分窓。(窓の向こうは、自家栽培畑を見下ろす)
その続いた2辺の上半分窓の下あたりに造り付けの勉強用にカウンターのようなものが設てあった。
一面は、姉、一面はわたし。
カウンターは直角に続けて作られていた。
兄の机の背後に当たる面には、2人掛けソファが真っ白いカバーをかけられ置かれていた。
部屋の続きにはトイレ。
トイレのその続きには和室の縁側の一面に続く。(縁側の前は大正時代の庭=せんだい)。
兄の机がある方には、別の和室や2階への階段上り口に接していた。
その和室は納戸と呼ばれる部屋で、祖母の和ダンスや、階段下にはわたしの人形などオモチャを入れていた。
納戸ではあるが、天井近くから床まである掃き出し窓があった。
ガラス扉を開けて下に降りると、左に子供部屋、右手に少し行くと、小さい小さい人工ため池に進む。
その部屋は現在の仏間になる。

私が中学生頃(半世紀前)に大規模リフォームをして、子供部屋はなくなった。
子供部屋は代わりに何に姿を変えたのだろう?
たぶん中庭の一部になった?

祖父が晩年伏していた部屋は今もそのままで、男女別トイレは、バストイレに改装された。
さらに次のリフォームで、再度浴室は趣向を凝らしたものから明るい機能的なものへと変わった。
台所は、2度リフォームされたが、昔の釜戸、へっついさんなど、薪部屋、味噌部屋、その他は大正時代のまま。
建築当時、地元の学校に赴任してきた新任先生が住む小さな家も別に敷地内に独立して建てられていたが、わたしが知っている頃には二間?あった和室の畳をあげて、収穫したジャガイモを一面に並べてあった。
ジャガイモを取りに行くのは、畑の時もあるし、その家に取りに行くこともある。
その家に住んでいた若いN先生(会ったことがある)が後に結婚して、美しいウエディングドレスの結婚写真を見せてもらったことがある。
美人で溌溂としたキビキビ、スタイリッシュな先生だった。

わたしは家屋の歴史、移り変わりと同時並行して時代を進んできた。
大正時代に建てられた家に、生まれ育ち、やがて家も庭も変遷してその時間の推移と共に大きくなった。
家はリフォームやメンテナンスを重ね、風格を増していった。
だが、巨大化したマツシタPanasonic、中内さんのダイエーのように、維持することが、時代の流れに追いついていかなくなった。
コンパクトなものならエコ時代にマッチする。
が、生活費の比ではない維持費が必要となると、次世代には荷が重く、背負いきれない。

最初は静かなスタート、低空飛行で滑り出し、やがて一気に上昇し上空へ。
空を見上げたり、空から見たり、見下ろしたり。
これは田舎の実家家屋の推移と共に、わたしが学生時代を過ごした父の仕事場地域へと軸足を移し、変わりながら時間は流れた光景。
田舎実家と、市街地仕事場地域は、同時並行し、徐々に重心をスライドしている。
と同じ時期、戦後の高度成長期とも重なり、日本は大きく成長した。
が、、、成長の後に来るものは停滞、衰退。これは世の常。無常。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

美しい物を目の前で手に取り、見て、愛でて、心洗われる空間で過ごせた経験は、決して無駄ではない。
たとえ、消滅しても、こころの中には、はっきり肌感覚で生きている。
自分の手を離れても、美術館や旅先、街中で目に入ったり、その空間に佇む時間は至福のものとなる。
自分にとって最高のもの(自分比)を経験することは、幸せなことだ。
それを感じるのが実際のリアルではなくても、映像や音響であったとしても、自分の中に培われたものは一生ものである。
わたしの幸せのこころの素のところまで、導き誘引してくれる。
(家自体はまだ実在しているが、いずれは消滅するだろう)

これ以上のものを築きあげようという意気込みはない。
今まで体験や脳内でインプットしてきた材料を自分なりの、オリジナルな感性で作り直す、組み立てるのが、今後の楽しみである。
自分のこころの中は、とてつもなく深く広いので、まだまだどう変化させることも出来る。
暖かく、気持ちの良いもので満たしていきたい。


と、ここで予約タイムセットしてあるラジオが鳴り出した。
が、、、ジージーガーガーガー、、、雑音のみ。
あ、またもや孫の誰かがダイヤルをぐるぐる回したようだ。
おそらく、2番目孫(小学1年)だろう。
昨日、上2人小学生男児チームが来たから、(あとから保育所女児チームが来たが)、
その時にイタズラしたのだろう。
もう〜、まったく、、、!!
今日も早くから来て昼食から始まり、うちは(自分の孫のみ)学童保育場となる。
それにしても、キャーキャー走り回る4人に、うちは学童のみならず、ミニ託児所かと。
フローリング床も、べこっと凹んだ傷があちこちに付いているのを発見した。
お気に入りの木製、趣きある椅子も不具合が見つかった。
絶対、犯人は孫!!
ラジオは、なかなかお気に入りのいつものFM曲にチューニングできずに、嫌いな歌手(椎名林檎)の曲が延々流れ続けてイライラ。

せっかく夢のような気分でうっとりブログ遊びをしていたのに、現実に引き戻された。
この現実と夢を行ったり来たりの、脳内架け橋が、自分の蝶ブログである。

脳内遊びにお付き合い、お読みいただき、ありがとうございます。

さてさて、男児ギャング来襲時間を前に、準備までのあと少しの時間、1人遊びに耽ろう。
あ、もう残り時間がない!

※写真は孫の家の宿題。
10.506kg=?gが、どうしても不正解。