わたしの夫。
家事は全く全く全くしない。
生まれた時から。
たぶん、死ぬまで。
それは、兄も同じ。
それでも、ちゃんと暮らしていける。
不思議なような、オカシイような、どこか間違っているような。
ある程度の年齢の男性はそういう人は多いと思う。
田中角栄がトイレ掃除とか、してなさそう。
だれが、家事をしているか?
家族または、使用人。
昔はそういう時代。
父や舅、祖父は、家事と言えるようなことはしていたと記憶する。
掃除や修理、ゴミの処理、、、など。
人によるのか?
一人暮らし男性は、自分で家事をする。
きちんとこなす人もいるし、ゴミ部屋の人もいる。
女性もゴミ部屋の人もいるようだが。
昔、行っていた飲食店の、ある常連、高齢の大工棟梁。
奥さんをとうに亡くし、息子の嫁さんに、家事をしてもらっている。
「俺、洗濯できんから、、、」と棟梁。
「洗濯機がありますやん」とわたしが言うと、「よう使わん(使い方がわからん)」と。
ボタンひとつなのに。
あのかんじでは、到底、スマホやインターネットは無理だろう。
息子の嫁さんの手を煩わせることに、なんの抵抗もないことには驚いた。
棟梁は、寝たきりでもなく、健康そのもの。
飲みに出歩ける。
食事も、家事全てを息子の嫁のお世話になっているようだった。
他人の家庭だから、わたしには何の関係もないが。
その棟梁は、父世代。
兄や夫は、わたしと同じ世代。
家庭環境と、家族の意識のせいで、あんな人間になってしまった。
家事をしない、非・生活自立人間。
生活を共にしながら、ちゃんと教育できなかった、躾られなかった自分(わたし)の不甲斐なさを嘆く。
小学生でも、ちゃんとやっているのに、、、。
姉の夫は、家事はバリバリ。
何でもかんでもしてくれ、姉は超楽ちんらしい。
料理は姉のほうが得意だが、頑張って挑戦中のようだ。
やはり、自分(わたし)に甲斐性がない。
あんな非・生活自立型夫にしてしまった自分、情けない。
あんな人を残して死ねない、、、とは思わない。
そこは、わたし。敵も敵、わたしもわたし。
わたしがいなくなっても、家事などするわけがなく、ゴミ部屋にして、見るに見かねた娘たちが、なんとかするに違いない。
娘たちに迷惑をかけることになるが、本人は迷惑を掛けているだなんて思わないことだろう。
とは言え、娘たちはどう対応するのか、見ものではある。
令和の対応。
だが、夫を家事無能力者にしてしまったのは、やはり、わたしのせいか、、、。
娘たちに恨まれるかも知れない。
ちゃんと「立つ鳥跡を濁さず」にしないで、わたしがさっさと無責任に先にあの世に行ってしまったら。
だがしかし、大のオトナ。
実際のところ、わたしは手を放している。
自分とは関係ない。
人に迷惑を掛けていることぐらい気づかないのは、本人のキャラクター、個性、能力の無さ。
人に言われて気づくようでは、終わっている。
お金があっても、一人で暮らして行けないのは、かなりエグい。
死ぬまで気づかないなら、ずいぶん幸せ者である。
健康、お金、家族、、、以外の、また別のジャンルである。
健康寿命に翳りが現れたら、こんな悠長なことは言っていられない。
家事がどうこう、それどころではない。
まだ健康を維持できている今だけの贅沢なボヤキだろう。
ではあるものの、それまでの行いの積み重ねは、病気などで事態が悪化しても、わたしのこころの底に根強い意識として横たわっている。
だとすると、健康なうちに、理想的な行いをしておくほうが、精神的助けになる。救われる。
自分が我慢していると、それはやがて恨みに変わり、ろくなことがない。
食べかすを散らかしたり、こぼしたり、部屋などを汚される度に、ものすごくイラッとするが、自分はホテルの清掃員だと思えばよいのかも知れない。
深呼吸。
が、まだお互い健康なので、老人施設の掃除係には、なおかつ、なれない。
事態は必ず変わるので、良いことも悪いことも、今だけのことだ。
無常。