蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

失われた、ピュアなもの

2009-07-12 | 映画
「愛を読む人」を観た。

ストーリーを紹介するのは、やめる。
鑑賞しはじめて、すぐに、頭の制御装置が突然、止まり、感情スイッチがONになった。
予期せず、すっと、入ってきて、突如、心の琴線に触れた。
なにしろ、私は、全霊全身で魅入り、感動した。
いい映画だった。


1958年、ドイツ。15歳の少年と21歳年上の女性が恋に落ちる。
それは物語の発端なのだが、・・・・。
ハンナ(ケイト・ウィンスレット)は、ナチス戦犯としての暗い過去を背負う。
彼女に、ああいう過去がなくても、
二人はうまくいかなかったのは容易に想像できるけれど、
自分にはない、純粋なものを持っている少年に、泣けてきてしかたない。
思い出すだけで、涙があふれてくる。

純粋な少年が、初めて大人の愛を知る。
愛する女性と、ひと夏の経験をする少年は、キラキラ輝いていた。
表情ひとつひとつが、まっさらで、ウソ偽りのない心を表していた。
少年の頃の、ほんの一瞬だけ、そういう美しい瞬間があるのだろうか。
そのあまりの美しさに、心が痛んだ。


私にはない、ピュアなもの。
いつ、どこで、失ったのだろう・・・
純粋さは、年とともに失われる。
そもそも、そんなものは生まれたときから持ち合わせていなかったのかも知れない。

無垢などでなく、ただ無知なだけの若い時代だった。
生き方そのものが、不純と打算と保身、矛盾と欺瞞、マヤカシで成り立っている。
自分に正直な心、その心さえ、渇いている。
だからあんなに純粋な少年を見ると、頭を通過せずに、涙がこぼれる。
私には昔も今も、まったく純粋さのカケラも無い、そんな自分が情けなくもあり、
もともと無いものを取り返すことも当然できない、無力感。
いまさらながら、再認識した。
自分には、一生、ありえない、手に入れることのできない美しいピュアなもの、
例え、映画の中であっても、それに出会うと、切なく哀しい。

ストーリー展開から感じるのか、全編の美しい映像を通して感じるのか、
監督のワザで感じさせられているのか、俳優の卓越した演技のスゴサなのか・・・
あの映画を単なる日常の恋愛映画にしてしまっていないのは、
そのテーマ、手法によるものが大きい。
戦争という重い歴史を抱えたドイツの戦後の苦悩、歩みと、主人公たちの人生とを
巧みにオーバーラップさせている。
快楽的な、俗物的恋愛、というティストが全く排除され、
静かに深く、苦悩しながら、思いを醸成させている。

少年役のダフィット・クロスは、キャスティング決定時は15歳、撮影開始は16歳だったが、
SEXシーンは18歳になるまで待ったそうだ。
ケイト・ウィンスレットの、ぶっきらぼうな骨太ドイツ女性っぽい役作りも、とてもよかった。
その愛想のないキャラクターには、とても深い背景が隠されているのだが、
映画を観終えた後、それぞれの表情にはそれぞれの理由があるのに、あれこれ気付いた・・・。
(気付くのが、かなり遅い・・・)

男女の純粋な愛への不信感、永遠の愛を全面否定している私には、
衝撃的なメッセージとなった。

その後悔とも、懺悔ともとれるものが、私の心の中で反乱を起こしたのか、
涙は一向に止まらない。
上映中はずっと、映画終了後も、家路に着く途中の電車の中でも、
電車を降りてから家までの徒歩の間も、涙があふれ出る。

私はピュアなものだけの中では、生きていけない。
きっとハンナと同じように、せっかく社会に戻れるという日が来るというのに、
その直前に自殺してしまうのではないかと、思った。
雑菌、細菌がウヨウヨいる世界でしか、私は生きていけないのだろう。
もう、戻ることができない世界に触れ、心が悲鳴をあげているのか。
それとも、いつまでも頑なに固い殻を被ってないで、暖かい心を持つには年齢はない、
今からでも遅くないというシグナルを読み取ったのか。

あふれ出る涙の訳は、とても深いところにあるようだ。