親戚の人に、昔の写真を見せてもらった。
昨年、他界した肉親の遺品整理をしていたら、大量の写真や手紙が出てきたそうだ。
わたしの祖父母や両親が、長きに渡って、かなり親しく関わりがあった、その親戚(年長女性)に宛てた手紙もあった。
1通は進学祝いをいただいことに対する礼状だった。私は当時、高校1年生。
母親に催促されて、渋々、嫌々、礼状を書いたようすが、ありあり。
字は丸っこく幼いし、内容は、非常識。
いくら親しみをもって書いているとは言えど、かつての高校生だった頃の自分には失望した。
もう1通は、その人の息子さんの結婚と、お子さんが生まれることに対するお祝いの手紙。
これは、ペン習字を習ったような筆跡で、丁寧に書かれていた。
内容もきっちり、しっかり、安心して読むことができ、成人女性らしい手紙に、ほっと胸を撫で下ろした。
(多少、途中で、ハラハラドキドキしたものの・・・)
当時の私は26歳。
もう30年以上も前である。
さて、今ならどんな手紙を書くだろう。
メールが簡単、便利、速い。
が、手紙には手紙の良さがある。
筆跡には、こころの込め方や、筆圧で当時の状況を推し量ることもできる。
なによりも、そのおばさんが、礼状とはいえ、わたしが送った、ひどいレベルの手紙を、大切に保存していたことに驚いた。
過去の自分に、不意に出会い、赤面した。
と同時に、おばさんの人生の一コマに、入れていただいたことを実感した。
セピア色の写真も、当時を偲ばせる。
80年近く前の写真も、いっぱいあった。
昭和10年頃の制服姿や晴れ着での記念写真、家族写真、結婚写真。
幼い頃、学生時代、青春期、青年期、熟年、壮年、老年の、親戚たちの顔、顔、顔。
わたしの顔も、ちょこっと入っているものがあった。
母(現在87歳)の母(母方の祖母)の若かりし頃の写真もあった。
なかなか、りりしく、整った顔立ちで、すらりと背が高く、スタイルも抜群。
わたしの知っている、あのおばあさんとは、違った顔だった。
父の出征直前に撮った思われる家族写真もあった。
両親である、祖父母の思いは、どんなだっただろう。
家の前で撮られたその写真の背景は、今、現在もまったく同じ姿をたたえている。
激動の時代を超え、時だけが移ろいでいっている。
その時々は激しく、しかし、今となれば静かに、絶対的な時間の経過を感じさせる。
一族、家族の歩み。
とても貴重なものだと、しみじみ見入った。
やがて姿を変え、時代に合ったかたちで継承されることだろう。
が、消滅していくものもある。
残るもの、残らないものは、自然淘汰される。
時の流れ。
そうとう強力なものでもない限り、時代の波には抗えない。
強い意志や、力がないと、次代には遺せない。
やがて、家も風景も変わり果て、ついには消滅し、シンプルに血だけが受け継がれる。
その血でさえ、途絶え、つなぐことが困難な時代になっている。
あの懐かしい写真を見て、ひとつの時代が終わったような気がした。
過去の幻が消えたように。
だが、こころの中には、しっかり残っている。いつまでも。
しかし、わたしがこの世から消える時とともに、その思いも消え去ることだろう。
せめて、遺せなくても、思いを伝えたい。
そういう気になった。