蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

正常ではないものには、正常に接してはいけない

2016-08-05 | 老い

なーんも、やる気が起こらない。
ひたすら暑いだけ。

このごろ、時間を持て余している。
やるべきことは、いっぱいあり、期限も迫っているのだが、
かなしいかな、「やる気」というものが蒸発してしまっている。
どこ行った?

「壊れている状態」と、「壊れかけている状態」と、「壊れていない状態」の、ちょうど中間、
行ったり来たりの人物が、
なんと同時に二人もわたしの肩に乗っかっている。
まともに、まじめに、深刻に、真剣に、真摯に相手をしていると、こちらが壊れてしまう。

実母に、義母の壊れている状況を報告すると、大笑い。
まじめな顔で、「こうすればいいのよ」とアドバイスする。
実母も、そうとう、壊れているんだけどね。自分のことは、わからないようだ。
しかも、わたしに古い倫理観を押し付け、いろいろ説教してきて、どっと疲れる。

義母には、実母のことを話題にすると、羨ましがる。
つい先々月までは、実母が義母のことを羨ましがっていた。
どっちもどっち。切迫、僅差。勝負がつかない。

いっそ、すっかり壊れていれば対応もしやすいのだけれど、
中途半端なのが、いちばん困る。

実母は、壊れることに関しては、義母より1年、先輩である。
年齢もちょうど1年先輩。
今は、自分が自立できないことを自認している。
自宅での自立できなくなってきた修羅場を(家族が)乗り越え、老人施設に入所しているので、本人も家族も状況的には落ち着いている。

問題は先々月から壊れかかった、壊れ新人のほうの義母。
今、病院に入院中なのだが、はやく退院したいと言う。
病院も社会的入院は認めてくれないので、もうすぐ退院期限が来る。
病院と義母、両方の思いが一致しているから、それはそれでよいといえばよいのだが。

義母は、人の言うことを聞かない。
前々から「聞こえない」というから、入院したこの機会に、耳鼻咽喉科を受診して、補聴器を作ったのに、
補聴器をつけても、気にいらない話の時は、補聴器のスイッチを入れない。
スイッチを入れても、聞こえない。頭のスイッチを入れない。
一方的に自分の主張だけをする。
こちらの言うことは、まったく聞く気なし。聞こえない。理解できない。
ただただ、一方的。
現在の状況が把握できずに理解できないのに、
価値観、ものの考え方、慣習、行動、生活、親戚付き合い、、、、いろいろ、
「時代が変わって、価値観も変わっている」とわたしが言っても、まったく馬耳東風。
補聴器があっても、耳に入らない。
延々と自説を唱える。
これが、ものすごいストレスになる。
拷問のように感じる。

まだこういう状態に慣れていないので、機械のように聞き流すことができない。
看護師さんや、スタッフの方々のように、病人に理解ある接し方ができない。
体が病気ならわかる。
頭も病気で、ワガママいっぱい。
ほとほと疲れて、お見舞いに病院に行っても、席をはずしたくなる。
実際、耐えきれなくなって、一人で家から持ってきたインスタントコーヒーで、休憩室でコーヒーブレイクをしている。
自分のことは自分でできない、理解できない、自立していないのに、いっぱしのことを主張する。
しかも、自分が壊れていることを自覚していない。

くたくたになっているところに、実母から何度も電話が入る。
「またお見舞いに来てね~。寂しい、寂しい。待ってるからね~」
毎週行って、直近では昨日、行ったばかりなのに。しかも電車、バスを乗り継ぎ、片道2時間半かかる。
一昨日も昨日も、今日も、この電話の繰り返し。

夫は、自分の愛する実の母親の認知症の現実、事実を認めたくない。

おかしなことを言うので、「ほら、こうしてたでしょ」、と、去年の証拠写真を見せても、「違う。まったくそんなことはしない。したこともない」と言い張る義母。
また一方では、証拠の留守電を聞かせても「自分じゃない」と言い張る実母。

わたしのことを認知症だと、夫が言うこともある。
冗談とも本気ともとらえられなく、わたしは本気で頭にくる。

頭の壊れている人々に囲まれ、いろんな要望をつきつけられ、接していると、
本当にこちらまで頭がおかしくなる。
頑張りすぎては、こちらが壊れる。

自分なら、心身健康なうちに、はやめに、現世とおさらばしたいと真に思う。
でも、そんな矛盾のある設定は、(不慮のアクシデントを除いて)不可能である。

 

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人のため? 人のせい?

2016-08-03 | わたし
私信です。
メールいただき、ありがとうございます。
自分の道を変えてまで、親を喜ばせたいか、ですね。

そんなふうに考えてみました。
以上。


話は変わります。

自分がそうしたいから、そうする。
人にこう思ってほしいから、こうする。
相手を喜ばせたいから、ああする。

しかし、
喜ぶ相手のためなら、苦痛や不快は我慢し、努力する。
となると、ちょっとズレてくると思う。
相手のために受ける苦痛までが喜びで、生きがいなら、どうぞ。
止めません。
相手に苦痛を与えてまで、従わせたり、合わさせたり、我を通すのもNG。
共存共栄がベスト。
ただし、協調性は必要。

でも、ある程度まで自分を成長させるにはその過程には忍耐や苦痛も不可欠である。
それは、自分のため。
決して相手のためではない。

昨夜のNHKテレビドラマでも、妻夫木聡が演じる、ダメパパが、ドラマのラストに11歳の娘にそんなことを言っていた。

「こんな扱いをされて、私がダメな大人になったら、ダメ親のせいだ」
と娘が嘆くと、
「人のせいにするな。絶対にそれだけは、やめろ」と。

なんだって、自分という軸が基準である。

自己チュー人間の行方

2016-08-01 | わたし
20年後。
老人ホームに入る前夜。

子供たちは、定年前夜。
孫たちは、就職前夜。

欲をいえば、老人ホーム面会、最後あたりで、ひ孫の顔。
(そこまでは、期待してないけれど)

トコロテン式(並行、押し出し移動)に世代が移行している。
不思議なようで面白いけど、当たり前。

その当たり前の平凡な人生コースを歩めたら、幸せなんだろうなあ。


そう言えば、趣味仲間と意見が合わず、ケンカした時に、
「孫の成長だけを楽しみにする老人になってください」
と捨てセリフを吐かれた。
侮辱の意味が込められていた。
「あんた自体には、なにもないね」、と言われたような気がした。

そんなわけないじゃないの!
家族だけが楽しみ、生きがいなんて。
私が、一番望んでいないパターンだということを知らない、この趣味仲間の人に、ものすごく距離感を感じた。
自分しかない、わたしなのに。

自分自身が一番大切な自己チューを自認するわたし。
自分を一番可愛がると、究極は、自分が居ない後の、未来につながるようだ。
自分につながりがある人々の行方を、自分が消滅した後に、楽しみにしているのか。

意外で、味わい深い、今朝の自分の想いである。