書くことが大好きなわたしでも、なんでもかんでも書けばいいってことはない。
書くことにもエネルギーがいる場合もある。
書く気力が起こらない時もある。
最近、どうも気持ちが薄くなっている。
空気が薄くなっているかのごとく。
なにがなんでも、こうでなければならない、という根性がなくなってきている。
それがだめなら、これでも、いいわ。
それもだめで、あれもだめでも、まあ、しかたない。
老人力のマイナス効果。
持ち点数がどんどん減っている。
充電力が落ちている。
弱っている、ともいう。
実母が「寂しい、寂しい、会いに来て」と、しょっちゅうアプローチしてくるが、
寂しさを人に紛らわせてもらおうという根性は、どこから湧いてくるのだろうか。
人里離れた奥深い山の中の一軒家にひとりで住んでいるわけでもなし、優しく手厚く世話をしてくれる、たくさんのスタッフに囲まれている。姉と私が個々に毎週、顔を見せている。
自宅に居た時は、好き勝手にできていたから、寂しくなかったというわけか。
好き勝手にできないから、寂しい、って、これまたおかしい。
母は老化で、こころも、アタマも壊れかけているので、あまりまともに受け取っても、わたし自身のためにはよくない。
「自分の寂しさを人に解決してもらおうなんて、おかしいよ」
と、思い余ってわたしが言うと、
「あんたには、歳とった寂しさがわからないんやっ!」と、キーっと逆切れされた。
「若い頃は、辛抱して、寂しさに耐えていたんや!」とも言う。
はあ??? いよいよ、アタマがおかしくなっている。
若い頃は、もっともっと激しく、まるで動物のごとく本能まる出し、感情のまま、こころのまま、喜怒哀楽を出していたではないか。
アタマにキンキン響く母のヒステリーのせいで、わたしは、感情や気持ちを表に出せない子供になってしまったというのに。
自分の若い頃のことを、理想の自分とすり替えている。
そういう人に対して、まともに相手をしていると、こちらは、すり減り、神経が痛む。
人として壊れかけている今となれば、時効であるが、わたしの傷は癒えないまま、一生抱えそうだ。
成人すれば、自分のことは親のせいでもなんでもない、ということは重々承知である。
親には感謝の気持ちも絶大であるが、同時に恨みもそうとう抱いている。
実母はいいなあ、羨ましい。
若い頃から、悲しい時や失敗した時は、わあわあ泣いたり、わめいたり、八つ当たりしたり、嬉しい時は、涙を流して大喜び。
まるで子供だが、愛すべき子供、というようには、とてもわたしには捉えられない。
落ち込みを引きずったり、反省することなどなく、その瞬間、その瞬間が終われば、それで終わり。
痛い!熱い!まぶしい!ムカつく!悲しい!嬉しい!楽しい!食べたい!眠い!欲しい!疲れた!気分が悪い!スッキリ!
本能のままに生きている。
それも、決して、年取って、恍惚のひとになってからは、ではなく、
若い時から、今もずっと。
そりゃあ、ストレスなんか溜まらないだろう。
「ストレス」「鬱」などという言葉は、母の辞書には存在しない。
さらに、「劣等感」も存在しない。
あるのは「自我」のみ。
本当に幸せな人間である。
「子供は親の欠点を愛するものだ」という説があるが、決してそんなことはない。
欠点は欠点で、わたしは愛していない。とても愛せない。
ねちねちと根に持つ、暗い陰湿なタイプではないので、まあ、まだマシ、差し引きゼロか。
欠点と長所は、背中合わせなので、見方による。
自分が耐えて、人のために尽くすタイプではないことだけは事実だ。
しかし、よおく考えてみると、そのDNA、引き継いでいそうな悪い予感、、、、。
あまり人のことは、言えない可能性が、、、。
反面教師として、良くない面は、気を付けて真似しないで、良い面は、取り入れよう。
しかし、自分を救うために、人を踏み台にするのは、良くない。
バランスが大事である。
今日のわたし、けっこう、弱っているようだ。
空腹なのに、検査を控え、食べてはいけない状況。
健全な精神は、満たされたお腹に宿るようだ。