蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

オナカスイタ

2016-12-08 | 日々のこと

書くことが大好きなわたしでも、なんでもかんでも書けばいいってことはない。

書くことにもエネルギーがいる場合もある。
書く気力が起こらない時もある。

最近、どうも気持ちが薄くなっている。
空気が薄くなっているかのごとく。

なにがなんでも、こうでなければならない、という根性がなくなってきている。
それがだめなら、これでも、いいわ。
それもだめで、あれもだめでも、まあ、しかたない。

老人力のマイナス効果。
持ち点数がどんどん減っている。
充電力が落ちている。
弱っている、ともいう。


実母が「寂しい、寂しい、会いに来て」と、しょっちゅうアプローチしてくるが、
寂しさを人に紛らわせてもらおうという根性は、どこから湧いてくるのだろうか。
人里離れた奥深い山の中の一軒家にひとりで住んでいるわけでもなし、優しく手厚く世話をしてくれる、たくさんのスタッフに囲まれている。姉と私が個々に毎週、顔を見せている。
自宅に居た時は、好き勝手にできていたから、寂しくなかったというわけか。

好き勝手にできないから、寂しい、って、これまたおかしい。
母は老化で、こころも、アタマも壊れかけているので、あまりまともに受け取っても、わたし自身のためにはよくない。

「自分の寂しさを人に解決してもらおうなんて、おかしいよ」
と、思い余ってわたしが言うと、
「あんたには、歳とった寂しさがわからないんやっ!」と、キーっと逆切れされた。
「若い頃は、辛抱して、寂しさに耐えていたんや!」とも言う。

はあ??? いよいよ、アタマがおかしくなっている。
若い頃は、もっともっと激しく、まるで動物のごとく本能まる出し、感情のまま、こころのまま、喜怒哀楽を出していたではないか。
アタマにキンキン響く母のヒステリーのせいで、わたしは、感情や気持ちを表に出せない子供になってしまったというのに。

自分の若い頃のことを、理想の自分とすり替えている。
そういう人に対して、まともに相手をしていると、こちらは、すり減り、神経が痛む。

人として壊れかけている今となれば、時効であるが、わたしの傷は癒えないまま、一生抱えそうだ。
成人すれば、自分のことは親のせいでもなんでもない、ということは重々承知である。
親には感謝の気持ちも絶大であるが、同時に恨みもそうとう抱いている。


実母はいいなあ、羨ましい。
若い頃から、悲しい時や失敗した時は、わあわあ泣いたり、わめいたり、八つ当たりしたり、嬉しい時は、涙を流して大喜び。
まるで子供だが、愛すべき子供、というようには、とてもわたしには捉えられない。
落ち込みを引きずったり、反省することなどなく、その瞬間、その瞬間が終われば、それで終わり。
痛い!熱い!まぶしい!ムカつく!悲しい!嬉しい!楽しい!食べたい!眠い!欲しい!疲れた!気分が悪い!スッキリ!  
本能のままに生きている。
それも、決して、年取って、恍惚のひとになってからは、ではなく、
若い時から、今もずっと。

そりゃあ、ストレスなんか溜まらないだろう。
「ストレス」「鬱」などという言葉は、母の辞書には存在しない。
さらに、「劣等感」も存在しない。
あるのは「自我」のみ。
本当に幸せな人間である。

「子供は親の欠点を愛するものだ」という説があるが、決してそんなことはない。
欠点は欠点で、わたしは愛していない。とても愛せない。
ねちねちと根に持つ、暗い陰湿なタイプではないので、まあ、まだマシ、差し引きゼロか。
欠点と長所は、背中合わせなので、見方による。
自分が耐えて、人のために尽くすタイプではないことだけは事実だ。
しかし、よおく考えてみると、そのDNA、引き継いでいそうな悪い予感、、、、。
あまり人のことは、言えない可能性が、、、。

反面教師として、良くない面は、気を付けて真似しないで、良い面は、取り入れよう。
しかし、自分を救うために、人を踏み台にするのは、良くない。
バランスが大事である。

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今日のわたし、けっこう、弱っているようだ。
空腹なのに、検査を控え、食べてはいけない状況。
健全な精神は、満たされたお腹に宿るようだ。


枯れていくのか、枯らしていくのか

2016-12-06 | 

今日は、前アップ時より、ちょっと落葉。
見る度に薄くなる、うら淋しい、男性の頭髪のごとく。
かくいうわたし、女性も、だんだん髪が抜け、ウィッグにしようかと。
つけまつげの次は、ウィッグか。
では、もうしばらくすると、入れ歯、杖かな?

義眼、義肢までは、まだ少し時間がありそうだ。

先日参加した法要、(超高齢に比べて)(わたしを含む)比較的若い者たちが、重鎮の高齢者の皆さんを差し置いて、次々と奥から脚が悪い人のための椅子に座り、占領。
それは、本当に脚が悪いからなのだが、高齢者の皆さん、ちゃんと座布団に座っておられる。

「お年寄りを差し置いて、若い者が先に座って申し訳ないですね」と、隣の椅子に一番はじめに座っている、これまた超高齢ではない親戚に、こそっと言うと、
「脚が悪いのは、れっきとした障がい者なんですから、年の若い若くないは、関係ありません」と、きっぱり。
なるほど。
堂々としていたら良いのか。
なんだか、不思議な開き直りをしている、超高齢でもなく、若くもない我々、脚の悪いメンバーたち。
主催者も、座布団に座れない、わたしと同世代。
我々は、とっても中途半端なお年頃。


ちなみに、わたし、メガネ歴半世紀、コンタクトレンズ歴は、48年で、それだけは早かった。
だからといって、いいことは、全然ありませんが。


いただいたお歳暮、↓こういうのも癒される。
ただし、わたし、ガーデニング・オンチで、生物、長くて三カ月しか保たないのが、哀しい。


色づき、あとは落ちるだけ

2016-12-03 | 


今年のモミジは、ブサイク・モミジ。

植木屋さんは、今回で2回目採用の若いイキのいいお兄ちゃんだったが、1回目は良かった。
が、2回目はアラが出た。
まず、値段。
同じ仕事量なのに、1回目より3割増し。
伐採方法、木の切り方、切ればいいんでしょ、というかんじで、美的センス、ゼロ。
枝ぶりとか、無視で、水平一直線に、バシっとカット。

フットワーク軽く、無口で仕事が早い、愛嬌ある顔が可愛いのではあるが、3回目を採用するか、考え中である。

所詮、ちんまりした一本だけのモミジ。
広々庭園に比べると、ものぐさな、わたしサイズ、省エネ、ツリー。
今年は観察する余裕もなく、もう散り際である。


タイトルだけ見ると、えらく方向違いなニュアンス。
そっち方面、期待なさった方、がっかりさせて、すみません。

幼稚な老熟した中学生

2016-12-01 | 思い出

とても久しぶりにブログを書く。
毎日、毎日アップしていた頃もあった。
今は、チマチマ、スマホでチビチビ、非常に小さいスケールで、背中を丸くして、指を細くして、世界とつながっている。

自由に外に飛び出しても、家に居ても、入院していても、やることは、同じか?
監獄に入れられたら、スマホは持ち込めないんだろう、おそらく。

想像するに、差し入れしてもらえるのは、書籍や絵本。
だとすると、読書習慣を今から身につけねば・・・。もう手遅れ。
それより、わたしが投獄されるとすると、交通事故のえげつないのを起こした時ぐらいだろう。
犯罪は、性に合わず嫌いなので。
だから、閉じ込められるとすると、老人ホームか、サービス付き高齢者住宅あたりだろう。
意外に、イキイキした創造性あふれる文章を書いているかも知れない。
難しそうな言語をググったり、肌感覚でぐっとくる表現をパクったりしながら。

昨日、台所横に続く、物入れの整理整頓をした。
で、中から出てきたのは、何年か前に実母から手渡された、わたしが中学1年の時から書き始めた日記の束。
12冊ある。万年筆で、きちんとした字で、びっしり。
№11から読み始めた。
ちょうど、高校2年。
で、いきなり、№1に移った。
さらに、№12の真ん中あたりで、とりあえず、終了した。
長時間、読むのが、しんどくなったのだ。

あれだけ長いと、ちょっとした小説になっている。
しかも、毎日、毎日、書くことがよくあるものだ。
何時から何時まで、これして、あれして、○さんから電話があって、×さんと遊びに行って、と、延々と描写してあった。
中学~高校2年までだが、中身は小学生日記である。
文体に特徴があり、書き方に、一定の法則があった。
当時も今と同じ視点を持っているのには、驚くやら納得するやら、進歩がないのやら。
自分ながら、面白いが、ずっと読むのは疲れた。
へんに老熟していて、でも幼稚なコドモの中学生に出会うのは、エネルギーがいる。

№11には、高校2年の時にお付き合いしていた、男子のことが、書かれていた。
相手は、大学1年。
大学生にもなると(大人なので)、高校生みたいなガキんちょは、相手にしないだろう、みたいなことを書いていた。
しかし、2歳しか変わらないではないか。
どうも、手も握っていないで、電話や、お店や外でのおしゃべり、一緒に買い物に行ったり、長時間過ごしていたようだ。
「ようだ」と書くのは、わたし自身、その人のことはお付き合いしていた人物リストからすっかり外れ、忘却の彼方だったからだ。

なので、「ああした、こうした」叙述は、はじめて知るような、ドキドキ感があった。
たった、1か月ぐらいの出来事を、ああも綿密にみっちり詳細に書けるものだなあと感心した。
というか、受験期になにやってんの、わたし。
いつも少し書き足らないようで、次のページに移ってしまったページ冒頭に、「勉強しなければいけないのに、新しいページに移ってしまったからには、また(見開きで)2ページ追加して書いてしまいそうだ」と自己嫌悪に陥りながら定文を定位置に添えている。
まともに勉強はしていないようだ。(わかりきっているが)


親に特定の大学受験先を言い渡されている記述内容もあった。
父、母、姉が、しょっちゅう登場していた。
毎日の出来事を羅列しているわけだから、家の近所の喫茶店名や洋服店名や地名も、いっぱい。

当時、わたしの部屋のお金がなくなるということが度々あったのだが、それも書かれていた。
後に、わたしの父が封筒に入れていた高額なお金もなくなり、その場に居合わせた、わたしの友人Mが犯人であると断定されたのだが、わたしの部屋でなくなったその時は「おかしいな」程度で、まったく盗難とは気づいていない様子だった。

(彼女は手癖が悪く、わたしの部屋からだけでなく、姉の部屋からも、何度も洋服や金品を盗んでいた。
我々は彼女に聞いたが「知らない」と言う。確たる実証拠がない。
友人なので、うやむやなまま、警察沙汰にはしなかった。
そのことは罪に問われないまま、明るみにもならないまま、彼女の親兄弟、家族にも知られないまま、その人は、後には人を教育する仕事に就いたのだが、人はわからないものである)


日常のやり取りで、父の何気ない一言に傷ついたり、姉や友人の言葉に一喜一憂したり、多感なお年頃のようだ。
読むまで、そんなことがあったとは、ぜんぜん、覚えていないことも多い。
末端の枝葉のことはその時、書いた瞬間に消え、大きな幹の部分しか、こころに残っていないのだろう。

日記は、12巻中、最後あたりの巻と、最初の巻を読んだので、真ん中はもう読むこともないだろう。
かなりの気合を入れないと取り出しそうもない、物入れの一番、奥の、下の箱に入れて、保管した。

次は、わたしが、老人ホームに入る前段階で、もし、元気なら、その時、捨てるだろう。
恍惚の人になっていたら、子供が捨てるだろう。
それまでの時期に、万が一、なにかの異変でもあれば、また読むかも知れない。
ひょっとすると、今週末あたりに、続きを読むとも限らない。
時間と気力と持続力と、これまで歩んできたことへの執着力、そして何よりも、自分への愛が必要だ。

今のところ、自分を肯定しているので、さらっと読めるかも知れない。

 

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