蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ふーふー暑い夏休みの宿題

2022-08-23 | 日々のこと
小学2年生の上から2番目孫B。
夏休みの宿題を仕上げる追い込み時期になっている。
なんやらかんやらを作るのは(親が)めんどくさいので、読書感想文にしたようだ。
が、まったく、いっこうに進まない。
原稿用紙に名前を書いたまま、一文字も書かれていない。
業を煮やした周りが、あれこれ口を出す。

「感想文だから、なんでもいいのよ。
不正解や間違いはないから、好きに思いのままま書いたら?」

「そもそもこの本は難しすぎる。(小学4年向きらしいが、大人向きだとわたしは感じた)
小学2年生のこの子Bは、内容がわかっていない」と、ばあちゃん(わたし)。
全部読んだとしても一文字も頭に入っていない、理解できてないと想像する。

「『こんな本を選んだママを恨みます』
と書いてもいいよ」と、パパ。
「『その本でいいんじゃない?』と反対しなかったパパを恨みます』と書いてもいいよ」と、ママ。

「わかりませんでした」とか、
「おもしろくなかったです」
なんでもいいから、一文字でもとりあえず書き始めたら?
と、あまりにも動かない鉛筆に、まわりはヤキモキしびれをきらす。

「とりあえず、あらすじをざっと書いて、最後にちょこっと感想を書いて原稿用紙のマス目を埋めろ」と、パパ。
「そもそも原稿用紙が小さすぎる。
パパ、なんでこんな原稿用紙を買ったの?
もっと大きな原稿用紙でないと、こんな小さい字、書けないよ」と、ママ。

「この子(孫B)の分かってないぶりは、まるでわたしが趣味関係で分かってなくて一歩も進まない様子を見るようやわ」と独り言を口にするわたし。→誰も聞いてない。


夏休みの宿題は親の手が入っているか、入ってないか、一目瞭然。
小4(上孫A)の自由研究は、目線や切り口、感想、まとめが立派すぎる。出来過ぎ。
パパの指導が99%色濃く入っている。

わたしが小学生の頃は親の援助なしの自力で自由研究宿題を提出し、それらは全学年、一つの会場で展示された。
会場ではわたしは子供ながらに甚だしく恥ずかしかった。
親の手が入っていない、みすぼらしい作品が、素晴らしい作品の影に隠れるように、ひっそり展示されていた。
中学になって、家庭科の授業でパジャマやスカートを制作したが、宿題として自宅で作業。
寒い冬、ミシンがある場所は自宅から離れた、親の仕事場の一角の寒い暗いところにあり、そこまで行かなければならなかった。
母親の指導ゼロのため、ミシン針を何本折ったことだろう。(申告してません、、、)
他の女子生徒は素晴らしい衣服が完成していたが、わたしの作品のヒドイこと、、、。

あの時に強く思った。
親が手をかけた作品と、手をかけてない作品を同じ土俵に上げて点数を付けるとは何ごとだ!!
不公平極まりない!と。
不器用で下手でカッコ悪い作品を提出しなければならないミジメさ。
ではあるが、寒く暗い場所でミシンを踏み、頑張っていた。
わりと、わたし、根性あるかも?
不良にもならず、イジけもせず、拗ねもせず。
不公平感にも反旗を翻すこともせず。
あんまり考えてなかったのかも?
学校で言われたことは、自分なりに頑張る。
他の生徒は親の手によって底上げされているけれど、わたしの親にそれを求めても無理。
そう悟っていたのだろう。
自力で頑張るしかない、しかも、不公平な点数をつけられるにもかかわらず。

親の力で優遇されピンチを切り抜けても、いずれは自分だけで頑張らなければならない。
その時だけ苦労を回避できたとしても、一生、親が付いて手助けしてくれるわけではない。
自分への評価は、その時の真の自分の実力を見て評価されている。
全ては等身大の自分への評価である。
嘆くとすると、何を嘆く?
自己嫌悪を抱く?
そんな自己嫌悪を抱く余裕も時間もなく、提出期限を目前に、頑張っていた。
不細工で恥ずかしい提出物だったが。
わたし、メンタルが強かったのか、繊細さに欠けるのか、はたまた鈍感だったのかしらん?
ベースは今も同じような気がする。


ちなみに、
孫たちの宿題、どうなったかな?
先生はそんなに一つ一つ丁寧に見て評価していないと思う。
子供も親も先生も、とりあえず、目の前の課題、仕事をクリアしたら良いのかも知れない。
暑い夏休みは、そろそろ終わり、早くも始業式だ。