蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

お盆。こころの対話

2022-08-13 | 暮らし
お盆。
何度目になるだろう。
お盆の仏さんたちへのお給仕(お供え)、伝統メニューがある。
お迎え団子から始まって三食おやつ付き。
御膳、器、全て、江戸時代のからの朱塗り(漆塗り)もので、決まっている。
のではあるが、、、
プツンと糸が切れたように、伝統メニューを2018年を最後に、それから用意していない。
2019年は定められた器は使ったものの、メニューは手抜き。
2021年は初盆で大変だった。
振り回されていた時代、時期がウソのよう。
こんなに、いとも簡単に伝統行事をパタンと中断してしまってもよいのだろうか。

今は、、、よい、、、と思っている。
また復活する日も来るかも知れない。
司令塔は、わたし。総指揮官は、わたし。
誰も口出しする人も、文句を言う人もいない。
ある日、頂点、トップの座に躍り出た。
なんの策も練らず、たんなるトコロテン方式。
なんと気持ちの良いことか。
見える景色は周りには何もない。
高い聳え立つ山の頂上に立ち、見えるのは雲か霞。
残念ながら、人の姿はない。
モンゴルの偉いお坊さんになったような気分。
権力闘争や跡目争いもない。
誰もこんなポジション、望まないし、人気もないし、実効性や実用性もないし、権力そのものもない。
美味しいウマミはゼロ。
こんな魅力のないポジションはない。
が、眼の上のタンコブがない、素晴らしい絶景。
この絶景に、山から落っこちても、誰にも影響はないだろう。
ただし、援助隊、救助隊も気づかない。

ババ抜き(トランプのゲーム)のババ、今度は誰が持つ?
ハンカチ落としのハンカチ、誰の後ろに落とされる?

こんな思いで、長年わたしがいたことを誰が知っているだろう?
じつにけしからん思いである。
が、わたしは宗教に振り回されてきた。
重い、深い、弾圧とはまた全く違う、、、ある意味、信仰の強制。
今、話題の宗教二世とはまた別もの。
全く意味合いが異なるのではあるが、微妙に共通点もある。

それは嫁ぎ先の宗教に染まらなければならないこと。
嫁ぎ先の先祖を敬わなければならない。
見たことも聞いたこともない、実質的アカの他人の皆皆様に、延々と祈りを捧げなければならない。
それは、「女偏(へん)に家」と書いて「嫁」と読む。
字の如く。そのまんま。
宗教行事は絶対的力を持つ。
それを執り行うことは、スゴイことなのだ。
伊勢神宮や平安神宮の宮司さんのようなもの?(ちょっと違うか、明らかに違うな、、、)

なにしろ、全エネルギーと知恵と労力と時間とお金をかけて、義務を遂行しなければならない。
宗派が違っても。信仰する神様が違っても。
旧統一教会などは、結婚までさせられるのだから、驚きを通り越して、完全に意味不明の洗脳をさせられる。
そこまで顕著なわかりやすい過激なことはないが、カテゴリー分けすると、宗教グループに属する。

洗脳されきっていない、中途半端な脳で、冠婚葬祭を執り行う。
麻酔をせずに外科手術を受けるようなものだ。
わたしは、かなり苦しんできた。

最初の頃は、はいはい、と素直に従い、なんとも思わなかったが、次第に眠っていた自分の考えが段々現れてきた。
葛藤。
だが、わたしも日本人に多い、やんわり仏教。
三々九度の盃をウエディングドレスで行う。
神式で、チャペルではなかったが、どっちでもたいして変わりない。
神聖なクリスマスイブはターキーでお祝い?!(意味もわからず、イメージ戦略に毒されている)

呪縛が解けた。


ある次男さん、Aさんのお宅。
墓地を買ったらしいが墓石はまだ。
その墓に眠る予定の人々もまだ元気で、亡くなった人はだれもいない。
だが、子供に後々の負担を押し付けることになってしまい、悪いことをした、と後悔されている。
誰もいない墓。
これからも守る人もいない墓。
これは、墓なのか?
樹木墓にしたらよかったかな、と仰る次男さん、Aさん。
この場合、宗教は?
先祖を祀るのは長男の役目。
たまたま長男に生まれたから、その先祖祀りの役割が回ってきた。
たまたま回避できた人もいる。

そう考えると(どう考える?)
たまたま長男と結婚したわたし。
信仰もしていない祀りごとの係を押し付けられている。
が、先輩嫁である姑たちがやっていた。
さあ、自分の番。
いきなり手を離す。
バトンは、谷底へコロコロ落下。

今は次世代の嫁もいない。
婿なら素晴らしい人々が2人もいる。
が、バトンは渡さない。渡せない。
バトンは谷底へ。

息子はやがて谷底からバトンを拾ってくる日が来るのだろうか。
バトンを谷底に捨てたのは、わたしだけの責任ではない。
渡す相手が不在なのだ。

宗教心の押しつけ、祀りの義務、
夫のため、世間体のために渋々やっている。
樹木葬も商品化される時代。
次男さんなら飛び付ける。
重いものが、どしんと乗っかった長男の嫁は、なかなか一気に思い切った行動はできない。
で、またまた形骸化された行事を行うことになる。

しかし、、、
アタマの古いカチカチの親戚の中から、少しずつ古いしきたりを踏襲しない人が出始めた。
やったーーーっ!!
わたしは両手を挙げて大喜び。
夫はじつに残念そう。
あんなに大切にしていた絆、付き合いが疎かにされるなんて、と。
別に軽んじられているわけではない。
価値観の推移。
時代の波である。
自分の考え方を他の全員も同じようにしているのではないことを、皆さんの行動を通して徐々に知り始めた夫。

わたしは、徹底して、嫌われる勇気を駆使しまくった。
親戚一同、わたしのことは白い目で見ていることだろう。
いいの、いいの。
わたしの余生はわたしのもの。
親戚の皆さんのものではない。

仕事関係、友人関係で、年賀状のやり取りを辞退する人、
お葬式は家族葬にして日時を知らせてこない人、
法事を事後報告にする人、
もういろいろ出始めている。
少しずつ行動も変わり始めている。

自分がやりたければ、やればいい。
否定は全くしない。
だが、他者を巻き込むのは勘弁してほしい。

とかなんとか、既成事実として、古くからの家があるのでどうしようもない。
出来ることはする。
壊すことはしない。
今やっていることを最低限に縮小して、谷底に捨てるものと、小さい箱に入れる物を識別しておく。
大きなものは受け入れがたくても、小さなものなら、細い強いピアノ線のようなものなら、継承出来るのではないかと思う。
マインドの継承。
だが、強制や洗脳であってはならない。
人や自分を大切にする気持ちは、代々受け継がれてきた。

お盆。
仏前で自然に手を合わせると涙が流れた。
姑に対する感謝の気持ちが湧き出た。
これは宗教ではない。
人として、自然な流れを汲んだ気持ちだ。