古いアタマの人と、価値観が異なるにもかかわらず、古い風習、しきたり、家風を続けなければならないのは苦痛である。
子供たちは、わたしがこれだけグチグチ愚痴っているのを聞き続けていると、彼ら子供の代では今までのしきたりをスパっと止めてしまいそうだ。(その地に住んでいないし)
わたしが両手をあげて、家風に賛成していたとしても、さらに、強制に近い勢い、期待感、熱意丸出しだったとしても、わたしたちがいなくなったら、合理的な現代的な流れになるだろう。
だれも文句を言う年寄りはいないのだから。
我々があの世に行けば、オバさんやら大オバさんやら、全員この世にいない。
いるのは、子供たちと同世代のいとこたちぐらい。
しかも居住地は別々で遠隔地。
いとこだったら、もう関係ない。
むしろ、家(イエ)としての付き合いなど無関係に近い。
あるとしたら、個人としての付き合い。
家の外の人に自慢しない代わりに、世間には聞こえない閉ざされた家庭内で(姑が)家自慢しまくった(とわたしが感じた)せいで、逆に家庭の中で、自慢される側の家族にアレルギー反応が起こった。
わたしも、その一人。
姑に自慢され過ぎた。
そして、わたしの子供たちもアレルギー反応派。
わたしに自慢され過ぎた。
(確信はないが、なんとなく懺悔、反省)
たとえ家庭内であっても、内輪で褒め合うのは、もううんざり。
時代は移り変わっている。
核家族、個で成り立つ。
かと言って否定するわけではない。
ただ、自慢はうんざりなのだ。
それがどうした?!と。
わたしも半分、(子供たちに)自慢してきた。(能動的)
残り半分は、自慢されて嫌な気分も味わった。(受動的)
なので、自慢してはいけない。
まさに「それがどうした?!」
よほど他にこころの拠り所がないのだろう。
自分以外のことを自慢する人は、自分自身に自慢するネタがないからに他ならない。
そもそもなぜ自慢する?
わけがわからない。
そんな誇らしげなことか?
くだらない。
自慢した瞬間に、青い鳥は、黒い鳥になる。
こころの中で、ひっそり誇りを持てば良い。
わざわざ口に出してアピールする意味は?
やはり、どこか、わたしは捻れている。
きっと一生、治らない。
素直に姑の誇りを次世代の子供たちに継承するには、わたしも、わたしに育てられた子供たちも、歪んでしまっている。
何故?
何故?
何故?
また時が経てば違う想いが湧き出てくることだろう。
「自慢する」のと「誇りに思う」のは違う。
誇りを自慢と取れてしまうわたしが、おかしいのか。
他人の抱く他人自身の「誇り」を「自慢」と受け取らないようにするには、どうすればよいのか。
人にもよる。
すんなり受け入れられないような、本当に自慢げな嫌味な人もいる。
自分もそうかも知れない。
時代の移り変わりもある。
相手の未熟さもある。
自分の許容範囲の狭さもある。
今からでは手遅れだが、気づいたその時から改めたい。
人と比べるのではなく、自分以外の人に自慢するのではなく、あるいは自慢していると取られないように、ひっそり自分のこころの中で思い、温めるのが良い。
だが、行動してほしい、知ってほしい家族には気づかれにくい。
そこをどうするか。
ブログでグダグダ書いても自己満足なだけで、伝えたい家族には伝えられない。
時の流れに任せよう。
背中で見せる、なんていうのもあるようだ。