雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

子守り

2010-04-22 07:34:47 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


子守りは よくさせられた。
わたしは おとんぼなので、両親には甘やかされていたけれど、長兄夫婦と一緒に生活していたし、家計の実権は長兄に移っていたので、兄嫁さんから いろいろ用事を言いつけられた。


子守りをすることも よくあった。その兄の子供はまだ小さく、甥にあたる子を よくおぶっていた。
甥っ子は あまり泣かないし、わたしに懐いていたから あまり世話はかからなかった。


それでも、友達と遊ぶときなど、わたしだけが子供をおぶっているのが いやだなあと思うことが時々あった。


一度、その子をおぶって 友達と 川に入って貝を取っていたとき、兄に首根っこを捕まえられて、川から引き上げられると同時に、ほっぺたを思いっきり叩かれたことがあった。


いま思えば、危ないから注意してくれたんだろうけれど、あの時は、兄さんの子供を なんで わたしがおぶらないかんのかと、叩かれた痛さより なんだか切ない気持になった。
とても 辛かったなあ。

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山の子

2010-04-22 07:33:45 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


運動会なんかで かけっこをすると、山の子は早かったねぇ。そりゃあ とんでもなく早いし、あの子らは いくら走っても疲れないんよ。


わたしは身体は小さかったが、結構すばしこい方だったけれど、かけっこはあんまり早くなかった。
でも 仕方がないのよ。わたしの家は、学校の運動場に ひっついていたから、学校まですぐで 走り慣れていなかったんだよね、きっと。


その点 山の子は、一里もの距離を通って来るんだよ。毎日毎日、それも山道を 長い時間かけて通って来るんだから、あの子らに かけっこが勝てるはずがないよ。

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にぬき

2010-04-21 14:00:59 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


里では 鶏を飼っていた。
鳥小屋も あるにはあったけれど、いつも開けっ放しで 放し飼いだったな。それでも 卵は ちゃんと鳥小屋にある巣箱の中で産んでいた。
産んだしりから取られて食べられてしまうのに、何で余所で産まなかったのかねぇ。


今と違って、卵はとても貴重品だった。今の鳥みたいに 毎日毎日産むわけでもないから、わたしなんか 病気でもしないと滅多に食べさせてもらえなかった。


いつだったか、兄嫁さんが わたしに隠れて 自分の子供たちだけに「にぬき」を食べさせているのを見たことがある。ああ、ゆで卵のことだよ。わたしも食べたいと それほど思ったわけでもないけれど、あの時は切なかったなあ。


早く大きくなって、自分でお金を稼げるようになったら 腹いっぱい「にぬき」を食べてやる、と思ったものな。
もっとも、未だに「にぬき」を腹いっぱい食べたこともないし、今だと 二つ食べるのも勘弁して欲しいわなあ。

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里の食事

2010-04-21 14:00:02 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


子供の頃の食事は、今に比べれば、そりゃあ粗末なものだったよ。でも、物心ついた時から同じようなものを食べていたから、美味しくないとか、嫌いだとか、さんざん文句は言っていたが、別にもっとうまいものを食べたいということでもなかった。


主食は、麦飯だった。里は農家で、それほど酷い貧乏ではなかったが、良い田が無く、てて親もあにさんも泥田のようなところで米を作るのを嫌って畑にしてしまっていたから、米は少ししか取れなかった。


だから、麦飯といっても、米は一割ほどでほとんど麦ばかりだった。麦は一度ふかしてから、大きな釜でわずかな米とともに炊くんだ。
おかずは、ほとんど畑で採れるものだった。
おかずになるものとしては、人参、大根、ゴボウ、小芋、じゃが芋、サツマイモ、ネギ、菜の花、たかな、キュウリなど季節ごとにいろいろ作っていた。


おかずにはしないが、スイカ、ウリ、トウモロコシ、大豆、蕎麦、トウキビなども作っていた。
ああ、エンドウは作らなかったねぇ。あれは、お大師さんにさわりがあるからねぇ。

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みそまめ

2010-04-21 13:58:56 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


里では 大豆も植えていたが、おかずにはしなかったなあ。
うちで作った大豆は、ほとんどが 味噌の原料になっていた。
ああ、わたしらは みそまめ といっていたくらいだからな。


うちで食べる味噌は 全部家で作っていたが、その時大豆を蒸すが、それを時々盗んで口に入れていると、はは親や兄嫁は、「せいだい お食べ。きっとお腹が痛くなるから」と言っていた。
大豆は消化が悪く、腹痛を起こしやすいと教えられていたものだ。


最近は、大豆の煮たものを子供たちがよく持ってきてくれる。
「おばあさんが好きだから」と みんなが言うけれど、それに 確かにおいしく味付けされ やわらかく煮てはいるけれど、わたしは やはり みそまめ という感覚が抜けないんだよね。
もっとも お腹が痛くなったことは一度もないわねぇ。

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馬の上前をはねる

2010-04-21 13:57:57 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


里の家では 馬を飼っていた。
うちでは農作業に使うことはあまりなく、兄が運搬用の馬車を引かせて、日銭を稼いでいたようだ。まあ、百姓といっても、田圃があまりなかったから 何でもしなければ食べていけなかったんだろうね。


だから 馬はとても大切にされていて、北海道産だという豆を よく食べさせていた。確か ソラマメを砕いたもののように覚えているが、本当はどうだったのかなあ。その豆を蒸して食べさせるのよ。


時々、はは親が その豆を少しいただいて、煮付けたものをおかずにしていた。
ある時 兄がそれを見つけて、「なんだあ、馬の上前をはねているのか」と笑いながら つまみ食いをして、「これは なかなかいけるな」と感心していた。
その後は どうしていたか知らないが、あの兄嫁さんのことだから、わたしたちのおかずにも なっていたのと違うかなあ。

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生まれた家がいい

2010-04-20 07:22:29 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


兄の子供が、兄嫁の弟の家にもらわれていった。
わたしより年下の男の子で、その家には子供がなく 早くから話が進められていたらしい。


その子が まだ小学校に入ったばかりの頃のことで、学校が終わると毎日のように うちに寄り、食事やおやつを食べて遅くまで遊んでいた。
わたしと姪は、途中まで送って行かされていたが、その子が 何だかとぼとぼ歩いているように思われ、そのくせ 家が近くなると突然走りだすのよ。それが いつものことなのだが、わたしは 子供心にも哀れに感じていたなあ。


兄がそんな様子を見て、大切に育てるというので養子に出したのに、食べるものさえ満足に与えていないのだろう、と嘆いていた。
そして ある日、兄は様子を探るために 突然養子先を訪ねたそうだ。
先方は驚きながらも、気持ちの良い応対をし、家はよく整頓されていて 廊下などはピカピカに磨かれていて、突然の訪問なのに食事を出してくれたが、うちなんかより ずっとご馳走だったって。

新しい母親にあたる人の話しぶりからは、養子に迎えた子が 可愛くて可愛くて仕方がないという様子が十分に伝わってきた、と。
「それでも やはり 生まれ育った家がいいのかなあ」と、兄は しみじみと呟いていたなあ。

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双子のような姪

2010-04-20 07:21:33 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


一番上の姪は わたしより一つ年下だったが、ふっくらとして大きいので どちらが年上だか分からないほどだった。


二人は 特別似ているわけでもないと思うんだが、他人さんが見ると よく似ているらしく、よく 双子や双子やと からかわれた。
わたしはそれが嫌で どこがそんなに似てるのや と文句を言うと、今度は 似てない双子や 似てない双子やと からかうんよ。


あの子は 全体にふっくらとしていて 手も大きかったから、ランプの煤をみがくときは あの子が大きいランプで わたしが小さいランプをみがくんよ。小さいランプには あの子の手が入らなかったからね。


あの子は 身体もふっくらしていたけれど、気持ちもゆったりとしていたなあ。わたしは こせこせと動き回っていたが、あの子はいつもおっとりしていた。やさしい 良い子だった。


あんなにおっとりした子が、何をどう急いだのか 早くに死んでしまった。まだ 数え年の十八か そこらだったと思う。
わたしは もう家を離れていたけれど、話を聞いたときは とても悲しかったねぇ。

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故郷を出る

2010-04-20 07:19:15 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


わたしが里を離れたのは、小学校を卒業した年の夏だった。
数え年で十四歳のときのことだが、今考えてみると、なあ・・・。
少なくとも自分の子供は、よう手放さんわなあ。


でも その頃は、村の子の多くは 小学校を出てから一、二年のうちに家を離れていたのと違うかなあ。そういう時代だったということなのだろうよ。


お盆休みに帰ってきていた長姉について大阪へ出たのだが、ああ、大阪といっても ずっと南部の泉南のあたりだけれどね。
両親は せめて秋祭りが終わってからにしなさいと しきりに止めてくれたんだが、わたしは まるで良い所へでも行くつもりで、親の反対を振り切るみたいにして 里を離れたのだが・・・、その後、遊びに帰ることはあったが、両親のもとで生活することは二度となかったなあ。

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三人の姉

2010-04-19 19:36:50 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


わたしには三人の姉がいたが、みんなにずいぶんと世話になった。


一番上の姉は、当時大阪南部に住んでいて、わたしが里を離れるときに連れて行ってもらった人。後に和歌山に住み着いたので「和歌山の姉さん」と呼ぶようになる。


二番目の姉は、終戦直前まで神戸に住んでいたが、戦後は主人の実家である里の近くに移った。この姉さんにも一方ならぬ世話になった。


三番目の姉は、大阪に住んでいた。つれあいの人は建築関係の人で、よく稼いだそうだが姉さんは苦労もさせられたようだ。
この姉さんには、戦後の苦しいときにずいぶん助けてもらったよ。


わたしは おとんぼだから、誰の力にもなれなかったなあ。あっちの姉さんに子供が生まれるとなると、そこへ手伝いに行き、子供が病気だといっては呼ばれていた。
まあ、子守りか女中みたいなことをさせられていたが、食べさせてもらっていたし、ちょっとした着るものを買ってもらったり、小遣いももらっていた。


みんな それぞれに可愛がってくれたが、誰もいなくなってしまったよ。

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