雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

瓜食めば子ども思ほゆ ・ 万葉集の風景

2025-02-01 08:01:51 | 万葉集の風景

     『 瓜食めば子ども思ほゆ ・ 万葉集の風景 』


      題詞
 
  子等を思ふ歌一首 并せて序


釈迦如来 金口(コンク・釈迦如来は金身であることからの表現)に正しく説きたまはく、

「衆生を等しく思ふこと 羅睺羅(ラゴラ・釈迦の実子)のごとし」と。また説きたまはく、「愛するは子に過ぎたりといふことなし」と。至極の大聖すらに なほし子を愛したまふ心あり。況んや 世間の蒼生(アオヒトクサ・雑草、衆生を指す)、誰か子を愛せざらめや。

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ

( 巻5-802 )
   うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしのはゆ いづくより きたりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ

意訳 「 瓜を食べれば 子どもが思い出される 栗を食べれば なおさら偲ばれる 何処よりどのような因果で 生れてきたのか 目の前に むやみにちらついて ゆっくりやすませてもくれない 」

     反歌

銀も 金も玉も 何せむに

     まされる宝 子にしかめやも

( 巻5-803 )
    しろがねも くがねもたまも なにせむに
            まされるたから こにしかめやも

意訳 「 銀も 金も玉も どれほどのことがあろうか すぐれた宝は 子に勝るものがあるのか 」

                作者  山上憶良


* 作者の山上憶良(ヤマノウエノオクラ・ 650? - 733? )は、子どもや家族に思いを寄せる歌の第一人者と言える歌人です。それは、単に万葉集の歌人の中で、ということだけでなく、掲題の歌などは、現代の私たちにとっても馴染み深く、時代を超えて輝いています。

* 憶良は、701 年の第八次遣唐使の少録に任ぜられて、唐に渡り、儒教や仏教を学んでいて、彼の作品の随所にその影響が見られます。
714 年に、正六位下から従五位下に叙爵されていますので、歴とした貴族層に昇っています。
その後は、伯耆守や東宮(首皇子。後の聖武天皇。)の侍講などを務め、726 年に筑前守に就き任国に下りましたが、二年ほど遅れて太宰帥として太宰府に着任した大伴旅人と共に、筑紫歌壇の形成に尽力しています。

* 732 年に任務を終えて帰京し、733 年 6 月頃までの歌が残されているようですが、それからほどなく亡くなったようです。
現在に伝えられている憶良の歌の中には、私たちの日常の中でも見られるような様子が描かれていたり、少々気恥ずかしいほど子どもや妻などへの愛情を歌っているものがありますが、それこそが彼の面目躍如たる部分で、『どこからやって来たのか知らないが、気にかかって安眠も出来ない』と、嬉しげに嘆いている様子に、拍手を送りたいような気がします。

       ☆   ☆   ☆

 

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今は漕ぎ出でな ・ 万葉集の風景

2025-01-26 08:03:04 | 万葉集の風景

      『 今は漕ぎ出でな ・ 万葉集の風景 』


熟田津に 船乗りせむと 月待てば
       潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

          作者  斉明天皇 ( 万葉集は「額田王」)

( 巻1-8 ) 
    にきたつに ふなのりせむと つきまてば
            しほもかなひぬ いまはこぎいでな

意訳 「 熟田津(現在の松山市にあった港)で 船出しようと 月を待っていると 潮の具合も良くなってきた さあ 今こそ漕ぎ出そう 」


* この歌の作者は、万葉集では「額田王」となっています。ただ、左注には、山上憶良の「類聚歌林」からの引用として、「この歌は斉明天皇御製」である、記されています。
この歌の持つ雰囲気は、万葉集屈指の女流歌人とはいえ、額田王よりは、天皇の御製と言う方がぴったりくるように思うのです。
但し、斉明天皇の御製として、実際は額田王が作ったということは十分考えられます。

* この歌は、百済からの支援要請に応えるために、斉明天皇自らが出陣し、朝鮮半島に向かう途上、伊予国の熟田津から九州に向かって船出する時の状況を詠んだものです。一行には、中大兄皇子や額田王も加わっていたようで、万葉人の熱い息吹が伝わってくるような作品と言えましょう。

        ☆   ☆   ☆
  

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我が子羽ぐくめ ・ 万葉集の風景

2025-01-20 07:59:07 | 万葉集の風景

     『 我が子羽ぐくめ ・ 万葉集の風景 』  


 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
       我が子羽ぐくめ 天の鶴群

           作者  遣唐使の母

( 巻9-1791 )
    たびびとの やどりせむのに しもふらば
             あがこはぐくめ あめのたづむら

意訳 「 旅人が 仮寝をする野に 霜が降るようであれば 我が子を羽で守ってやっておくれ 天かける鶴たちよ 」


* 遣唐使に任命されることは、大変名誉なことであったのでしょうが、その旅は、まさに命がけで、多くの船が難破し多くの人が命を失っています。送り出す母の気持ちは、天かける鶴の群にさえ祈る、切ないものだったことでしょう。
この歌は「反歌」となっていて、一つ前には「長歌」が載せられていますが、こちらの方はさらに切ないものです。


( 巻9-1790 )
    題詞
天平五年癸酉 遣唐使の船 難波を発ちて 海に入る時に 親母の子に贈る歌一首

秋萩を 妻問ふ鹿こそ 独り子に 子持てりといへ 鹿子じもの 我が独り子の 草枕 旅にし行けば 竹玉を しじに貫き垂り 斎瓮に 木綿取り垂でて 斎ひつつ 我が思ふ我が子 ま幸くありこそ

「 あきはぎを つまどふかこそ ひとりごに こもてりといへ かこじもの あがひとりごの  くさまくら たびにしゆけば たかたまを しじにぬきたり いはひへに ゆふとりしでて いはいつつ あがおもふあがこ まさきくありこそ 」

意訳 「 秋萩(可憐な牝鹿を指す)を 妻問う鹿こそ 一人の子を持つという(鹿は一産一子)。その鹿の子のように 私のたった一人の子が 草を枕の 旅に出ていくので 竹玉を たくさん緒に通して垂らし 斎瓮に木綿を取り付けて下げ 身を慎んで 私の何よりも大切な私の子よ どうぞ無事でいておくれ 」
なお、竹玉は、竹の輪切りに似た円筒状の装飾品で大変高価であったらしい。

斎瓮は、神事に用いる土器。
木綿は、木の皮から取る繊維で、後世の「わた」とは違う。


* 作者の子が、どのような地位の人であったのかは不明です。正使や副使でなくとも、相応の地位であれば、名前が残されている可能性が高いと思われます。かと言って、これだけの歌を残した女性の子ですから、単なる雑役夫として徴用された人の母とも思えないような気がします。
いずれにしても、子を思う母の懸命の歌を、うまく意訳出来ないのが残念です。
同時に、この歌などこそが、万葉集の存在価値を高めているような気がするです。

       ☆   ☆   ☆

  



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山の嵐の寒けくに ・ 万葉集の風景

2025-01-14 08:02:20 | 万葉集の風景

     『 山の嵐の寒けくに ・ 万葉集の風景 』


 み吉野の 山の嵐の 寒けくに
       はたや今夜も 我が独り寝む

             作者  文武天皇 

( 巻1-74 )
    みよしのの やまのあらしの さむけくに
            はたやこよひも あがひとりねむ

意訳 「 み吉野の 山おろしの風が 寒いのに もしや今夜も 独りで寝るのだろうか 」


* 作者の第四十二代文武天皇(モンムテンノウ・即位前は軽皇子)の父は、草壁皇子です。
草壁皇子は、天武天皇の第三皇子で、母は持統天皇です。両親の、とりわけ持統天皇の期待を一身に担って、早くから政務に関わっていましたが、即位することなく、二十八歳で崩御しました。
その後は、持統天皇にとっては孫に当たる軽皇子の成長を待ち続け、十五歳になるや譲位し、文武天皇が誕生しました。
しかし、その文武天皇も在位十一年ほどで、二十五歳の若さで亡くなっています。

* 掲題歌の題詞には、「大行天皇 吉野宮に幸(イデマ)せる時の歌」とありますので、吉野に行幸した時の歌だと分ります。
なお、大行天皇(ダイギョウテンノウ)というのは、天皇が亡くなった後、まだ諡号が決められていない場合に使われます。ここでは、文武天皇を指しています。

* 掲題歌は、ごく分りやすい状況を歌っていますが、実は、吉野は、持統天皇は三十一回も行幸しているという特別な土地なのです。
文武天皇にとっても、この地は格別の意味を持っていたでしょうし、単なる儀礼訪問というより、何かの願いなり決断を胸に抱いていたのかもしれません。
また、古代人は夜を現代人以上に、畏れ、不吉といった感情を抱いていたようですし、「独り寝」も、単なる寂しさではなく、居城を離れている不安も加わっているのかもしれません。
後見者はいたとしても、まだ若くして即位した天皇の孤愁のようなものが聞こえてくるような気がするのです。

        ☆   ☆   ☆

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朝川渡る ・ 万葉集の風景

2025-01-08 08:00:24 | 万葉集の風景

       『 朝川渡る ・ 万葉集の風景 』


 人言を 繁み言痛み 己が世に
        未だ渡らぬ 朝川渡る

          作者  但馬皇女

( 巻2-116 )
     ひとごとを しげみこちたみ おのがよを
             いまだわたらぬ あさかわわたる

歌意は、「 人の噂が あまりにうるさくわずらわしいので わたしがこれまで 渡ったことのない 朝川を渡っています(涙を流しています) 」
朝川は、浅い川のことのようです。つまり、浅い川は徒歩で渡るので、袖が濡れる・・涙で袖が濡れる、ということのようです。


* 作者の但馬皇女(タジマノヒメミコ・ ? - 708 )は、天武天皇の皇女です。母は、藤原鎌足の娘です。
掲題の題詞には、「 但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、ひそかに穂積皇子に接(ア)ひ、事既に形(アラ)はれて作らす歌一首 」とあります。
この題詞は、実に多くのことを伝えてくれています。

* 高市皇子( 654? - 696 )も穂積皇子( ? - 715 )も、異母兄にあたる人物です。穂積皇子と但馬皇女の生年が不詳ですので年齢関係が良く分りません。ただ、穂積皇子は第五皇子ですので、他の皇子の生年から推定して、676 年か少し前と考えられ、但馬皇女もその前後と推定できます。その前提に立てば、高市皇子は、但馬皇女より20歳ほど年長ということになります。

* 高市皇子は、壬申の乱においても父(大海人皇子=天武天皇)の片腕として働いており、兄弟姉妹たちの中で抜きんでた立場であったと考えられます。
そこで、「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時」をどう解釈するかですが、多くは、妻の一人であったと推定しているようです。時期など分りませんが、但馬皇女が十代半ばの頃の事ではないでしょうか。そうだとすれば、養女のような形で世話をしていた可能性も考えられます。
いずれか分りませんが、但馬皇女は穂積皇子と恋に落ちます。高市皇子が生前の時ですから、おそらく二人とも十代だったのでしょう。

* 二人の一途な恋物語は本稿では割愛いたしますが、忍ぶ恋が周囲に漏れて噂となり、但馬皇女は、まるで開き直るように「朝川渡る」決断をしたのです。「朝川渡る」には歌意にあるような意味が秘められているのでしょうが、但馬皇女は、まさに、浅いとはいえ流れの速い川を必死になって渡って、穂積皇子のもとを目指そうとしたのだと思うのです。
切なくも必死な皇女にエールを送りたいような気がするのです。

     ☆   ☆   ☆

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萌え出づる春 ・ 万葉集の風景

2025-01-02 12:57:53 | 万葉集の風景

     『 萌え出づる春 ・ 万葉集の風景 』


 石走る 垂水の上の さわらびの
       萌え出づる春に なりにけるかも

                          作者  志貴皇子

( 巻8 - 1418 )
      いはばしる たるみのうえの さわらびの
              もえいづるはるに なりにけるかも

歌意は、「 岩の上を力強く流れる 滝の辺りにある わらびの新芽が 萌え出る春になったなあ 」


* 作者の志貴皇子(シキノミコ・668? - 716 )は、天智天皇の第七皇子です。
天智天皇の後継者である大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が戦った壬申の乱は 672 年のことなので、志貴皇子はまだ幼く、戦況に影響を与えることはなかったでしょうが、皇位は天武系へと移行しました。

* 679 年、天武天皇が吉野に行幸したとき、妻である後の持統天皇も列席させて、天智・天武の六人の皇子を集めて、皇位をめぐる争いを戒め協力し合うことを誓わせました(吉野の誓い)。志貴皇子も加わっていましたが、これは二人の子である草壁皇子を次期天皇にさせるための宣言のようなものでした。
685 年には、冠位四十八階が定められ、吉野の誓いに参加した皇子たちはそれぞれ叙位を受けましたが、志貴皇子は受けることが出来なかったようです。年齢のためか、それとも何らかの思惑があったのかもしれません。

* 天武・持統朝においては、さしたる官位官職を得ることはなかったようです。これは、天智天皇の皇子であることが警戒されたものか、志貴皇子自身が目立つことを避けた面もあったのかもしれません。
異母姉にあたる元明天皇の御代になって、三品、そして二品と皇族として相応の位を受けていますが、政務に影響を与えるような地位には就いていません。
皇位をめぐる激しい争いは、多くの悲劇を生んでいますが、志貴皇子はそうした修羅場を避け続けた生涯だったのかもしれません。そして、それゆえに和歌などの世界に身を置くことが多かったのでしょうが、掲題の歌に見るように、力強くみずみずしい歌をどのような思いで詠んだのでしょうか。

* しかし、天命はこの皇子に大きな役務を託していたかのように見えます。
志貴皇子が亡くなってから54年後に、子息の白壁王が第四十九代光仁天皇として即位するのです。
実に六十二歳での即位で、これにより、天武天皇から称徳天皇まで九代続いた天武系王朝は終焉を迎え、皇位は再び天智系に戻り現代に伝えられているのです。
泉下の志貴皇子がどうお思いか分りませんが、歴史上大きな意味を担った皇子であったことは確かなことでしょう。

     ☆   ☆   ☆

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松が枝を結ぶ歌 ・ 万葉集の風景

2024-12-27 08:00:43 | 万葉集の風景

     『 松が枝を結ぶ歌 ・ 万葉集の風景 』


  「 有間皇子 自ら傷みて 松が枝を結ぶ歌二首 」


 岩代の 浜松が枝を 引き結び
       ま幸くあらば またかへり見む

( 巻2-141 )
    いはしろの はままつがえを ひきむすび
            まさきくあらば またかへりみむ

意訳 「 岩代の 浜の松が枝を 引き結んで祈れば 幸い無事であれば また帰ってきて見ることもあろう 」
岩代は土地の名称で、現在の和歌山県日高郡南郷町。
 

 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕
         旅にしあれば 椎の葉に盛る

( 巻2-142 )
    いへにあれば けにもるいひを くさまくら
             たびにしあれば しひのはにもる

意訳 「 家にいるときには 器に盛る飯だが 草を枕の旅なので 椎の葉に盛るのだなぁ 」


* 有間皇子は、第三十六代孝徳天皇の皇子です。

645 年 6 月 12 日、中大兄皇子と中臣鎌足らが時の権力者蘇我入鹿を暗殺するという大事が起りました。乙巳の変(大化の改新)です。
混乱の中、皇極天皇は退位し、弟の孝徳天皇が 6 月 14 日に即位しました。おそらく、政治の実権は皇太子の中大兄皇子らが握っていたのでしょう。
孝徳天皇は、そうした状況を変えるためもあってか、646 年 1 月に都を難波宮に移しました。こうした事も原因してか、孝徳天皇と中大兄皇子との関係は悪化の一途をたどり、653 年には、都を倭京へ戻すことを求めていた中大兄皇子は、天皇が聞き入れる意志が無いのを知ると、皇族や群臣を引き連れて難波宮を去ってしまいました。皇后までも同行しました。
孝徳天皇は、失意のうちに翌 654 年 11 月に崩御しました。

* その跡は、再び元皇極天皇の姉が斉明天皇として重祚しました。
孝徳天皇が即位するときにも、何人もの皇子が辞退したと伝えられているように、皇位をめぐる争いの激しい時代でした。
有間皇子は、657 年に、紀伊の牟呂の湯(城浜温泉の一部)に向かいました。精神病をよそおっていたと伝えられていますので、皇族間の争いから身を隠そうとしていたのでしょう。帰京後には、伯母でもある斉明天皇にその効能を話したので、翌年の冬には、天皇・皇太子(中大兄皇子)らが牟呂の湯に向かいました。

* その留守中に、有間皇子謀反という事件が勃発しました。蘇我赤兄にそそのかされたため、と伝えられていますが、有間皇子はその蘇我赤兄に捕縛されました。
11 月 9 日に牟呂に護送され、中大兄皇子の尋問を受けました。
その時、有間皇子は、「天と赤兄のみが知る。自分は知らない」と答えたと伝えられています。
許されて帰京するかに見えましたが、11 日、藤白坂(海南市藤白)において、絞首刑に処せられました。享年十九歳でした。

* 掲題の二首の歌は、護送される途上で詠んだものです。
「松が枝を引き結ぶ」ことによって、願いが実現するという風習があったようで、有間皇子は、どのような思いで結んだのでしょうか。
皇子に生れたばかりに、十九年にも満たない生涯は、悼みても悼みきれないものと思われます。

     ☆   ☆   ☆

 

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ほどろほどろに降り敷けば ・ 万葉集の風景

2024-12-21 07:59:54 | 万葉集の風景

   『 ほどろほどろに降り敷けば ・ 万葉集の風景 』


 沫雪の ほどろほどろに 降り敷けば
         奈良の都し 思ほゆるかも

          作者  大宰帥大伴卿 

( 巻8-1639 )
     あわゆきの ほどろほどろに ふりしけば
             ならのみやこし おもほゆるかも 

歌意は、「 あわ雪が ほんのうっすらと 降り積もると 遙かなる奈良の都が 思い出されるなあ 」


* 作者の大宰帥大伴卿(ダザイノソチ オオトモキョウ)とは、大伴旅人(オオトモノタビト・ 665 - 731 )のことです。
大伴氏は、古くからの軍事を専らとする名族ですが、旅人も軍事を中心に官職を勤め順調に昇進を重ね、従二位大納言にまで昇っています。
一方、歌人としても優れていて、万葉集には78首が採録されていますし、漢詩も堪能であったようです。また。万葉集の編纂に関わったとされる大伴家持は旅人の実子です。

* 710 年には左大将に任じられ、720 年には征隼人持節大将軍を勤めています。
そして、727 年頃、太宰帥(太宰府の長官)として筑紫に赴任しました。妻の大伴郎女(オオトモノイラツメ)やまだ幼い家持も同行しています。この人事については、旅人の防衛上の手腕を買ったものだという説と、後に長屋王の変と呼ばれる政変が起っているように、政情不安の中、藤原氏が旅人を遠のけたという説もあるようです。

* 太宰府に赴いて間もなく、妻の郎女が亡くなりました。旅人自らも大病を患ったようで、掲題の歌は、そうした頃に詠まれたものです。
まさに、望郷の歌といえます。
730 年 11 月に大納言に昇り、帰京を果します。しかし、翌年 7 月に病により亡くなりました。
上記しましたように、旅人は万葉集に78首の歌を残していますが、その多くは太宰府時代に詠まれた物のようです。
武人として卓越し、公卿の地位にまで上り詰めていても、妻を亡くし自らも病がちな身にとって、遙かなる奈良の都を偲ぶ気持ちは、堪え難いほどのもだったのかも知れません。

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今ぞ悔しき ・ 万葉集の風景

2024-12-15 07:59:24 | 万葉集の風景

      『 今ぞ悔しき 』


 水鳥の 立ちの急ぎに 父母の

       物言はず来にて 今ぞ悔しき

        作者  上丁 有度部牛麻呂 駿河防人

( 巻20-4337 )
      みずどりの たちのいそぎに ちちははの
             ものいはずきにて いまぞくやしき

意訳 「 水鳥のように 急いでて出発したので 父母に ろくに話もしないで来てしまったので 今になってそれが悔やまれる 」


* 作者の 上丁 有度部牛麻呂(ジョウチョウ ウトベノウシマロ)は、その後に記されているように、駿河国の人で、防人(サキモリ)の務めにあたった人物です。
上丁というのは、一般兵士のようなので、ごく普通の庶民だったのでしょう。
防人は、筑紫や壱岐・対馬などの防備にあたるために、主に東国から集められた兵士のことです。この制度は、大化の改新の施策の一つで、乙巳の変直後に即位した孝徳天皇(在位 645 - 654 )の御代に始まったようですから、万葉集に登場する防人たちは、この制度が始まってまだ初期の時代に務めにあたった人々といえます。

* 防人は、主として東国の多くの国の兵団から選出され派遣されたようです。毎年千人から二千人を超えるほどの兵士が難波に集められ、船団を組んで筑紫に向かったようです。食糧や武器は個人持ち(派遣した国が負担するのでしょうが。)で、税も免除されることがなかったので、国府や兵士たちにとっては厳しい制度だったようです。兵士といっても、当時専門職の兵士などはごく限られていて、そのほとんどは農民だったでしょうから、危険や負担ばかりが多い任務だったようです。

* 万葉集に防人の歌が数多く採録されているのは、おそらく、大伴家持が兵部少輔という地位に就いていたので、難波に集まってくる兵士たちから歌を聴取する機会があったと考えられます。これが、万葉集に幅を持たせ、歴史的にも貴重な資料を提供することになったようです。
掲題の歌は、作者はおそらく農民で、国府の警備などに徴収されていたのが、防人の任務を命じられたのではないでしょうか。もちろん、若干の手当てなどのような物もあったのでしょうが、両親などと別れの時を満足に取ることも出来ずに、遙かな西国に向かって出立したのでしょう。そして、故国を離れるに従って、再び会えることさえ困難であろう父母を思う気持ちが押えがたく、その気持ちを吐露したものだと考えますと、切なさが胸に迫ってきます。

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我が恋増さる ・ 万葉集の風景

2024-12-09 07:59:48 | 万葉集の風景

      『 我が恋増さる 』

 神奈備の 磐瀬の杜の 呼子鳥
       いたくな鳴きそ 我が恋増さる

           作者  鏡王女

( 巻8-1419 )
     かむなびの いはせのもりの よぶこどり
             いたくななきそ あがこひまさる

意訳 「 神奈備の 磐瀬の杜の 呼子鳥よ そんなにひどく鳴かないでおくれ 私の恋の思いが増すから 」
なお、「神奈備」は、神の在します所、といった意味の普通名詞です。
「磐瀬の杜」については諸説ありますが、奈良県生駒郡三郷町にこの歌の歌碑が作られています。
「呼子鳥」には諸説ありますが、カッコウだという説が有力のようです。


* 作者の鏡王女(カガミノオホキミ)は、謎多き女性です。情報はたくさん伝えられていますが、どれが真実で、どれが誤伝されているものか、判断が難しいものばかりのようです。
本稿では、「 鏡王女は、高貴な家柄の娘であること。はじめは天智天皇の妃またはそれに準ずる関係になり、その後、藤原鎌足の正室になり、天武12年に亡くなった。」というのを真実と考えました。
そして、亡くなる前日には、天武天皇の見舞いを受けています。
また、今の興福寺の前身である山階寺は、鎌足が病気の時に、鏡王女の発願により開基されたものとされます。

* かつては、鏡王女は額田王(ヌカタノオオキミ)の姉とする説が有力でした。万葉集の歌人で、「最も人気の高い美女姉妹」とされることが多かったようです。ただこれは、額田王 の父が鏡王であることから連想されたもののようです。
むしろ、鏡王女は舒明天皇の皇女とする説の方が有力なようで、これは、鏡王女の墓が舒明天皇陵に近接していることを根拠にしているようです。但し、舒明天皇の皇女を、天智天皇がいくら功臣とはいえ皇族でもない鎌足に賜与することはない、という意見もあるようです。
また、鏡王女を藤原不比等の生母だという説もあるようです。

* 事の真偽はともかく、鏡王女が、額田王の姉妹と言われるほど、上流階級でもてはやされた女性であったことは確かなようです。
掲題の歌は、いわゆる恋歌でしょうが、第一句の「神奈備」から、夫の鎌足を偲んで詠んだものといった受け取り方もできます。 
もし、この推定が正しいとしますと、亡き人を偲ぶのに「我が恋増さる」と詠むのは、万葉の人々の亡き人との距離感は、私たちよりずっと近いのかもしれない、と思うのです。

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