雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

朝な朝な ・ 万葉集の風景

2025-03-09 08:01:48 | 万葉集の風景

     『 朝な朝な ・ 万葉集の風景 』


 朝な朝な わが見る柳 鶯の
       来居て鳴くべき 森に早なれ

              作者不明

( 巻10-1850 )
       あさなあさな わがみるやなぎ うぐいすの
                 きゐてなくべき もりにはやなれ

意訳 「 朝な朝なに 私が見ている小さな柳たちよ 鶯が やって来て住みついて鳴くほどの 森に早くなっておくれ 」


* 万葉集の巻10は、ほとんどが作者不明です。
多くの歌を収集する段階で、作者がはっきりしない作品も当然あると思われますが、万葉集の場合、伝承の過程で作者名が分らなくなったという例は少ないような気がするのです。つまり、作者不明の多くは、意識的に記録されなかったような気がしてなりません。例えば、最初に収集に当たった人が、名前を記す必要がないと考えたとか、記録しても意味がないと考えたとかなどです。
あるいは、地方の農民などの場合、単なる呼び名しかなく、記録するほどのことはないと考えたのかもしれません。

* 掲題の歌も、どのような地域の、どのような生活を送っていた人物の作品かまったく分りません。
現代の私たちには、鶯と柳という組み合わせは、新鮮というか不自然というか微妙なところですが、作者の鶯や柳に対する温かな気持ちが込められているすばらしい作品と感じました。
この時代の庶民の生活がどのようなものであったのか知らないのですが、自然の流れをのびのびと受取っている様子を伝えてくれています。個人的に大変好きな歌です。

       ☆   ☆   ☆

 

                  

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食して肥えませ ・ 万葉集の風景

2025-03-03 07:59:46 | 万葉集の風景

     『 食して肥えませ ・ 万葉集の風景 』


   題詞 「 紀女郎が大友宿禰家持に贈る歌二首 』

 戯奴がため 我が手もすまに 春の野に
          抜ける茅花ぞ 食して肥えませ

             作者  紀女郎 

( 巻8-1460 )
      わけがため あがてもすまに はるののに
              ぬけるつばなぞ めしてこえませ

意訳 「 お前さんのために 手も休めずに 春の野で 抜いておいた茅花ですよ どうぞ召し上がって少しは太りなさい 」
なお、「戯奴」は女主人が使用人に使った言葉らしい。ここでは、単に戯れで使っているのかもしれません。
「茅花」は乾燥させるなどして保存食したらしい。

 昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花
         君のみ見めや 戯奴さへに見よ 

( 巻8-1461 )
      ひるはさき よるはこひぬる ねぶのはな
              きみのみみめや わけさへにみよ

意訳 「 昼は咲き 夜は恋しい人と寝るという 合歓の花を 主であるわたしだけが見るのではなく お前さんも見なさいよ 」
なお、「君」は主君のことです。


   題詞 「 大伴家持が贈り和(コタ)ふる歌二首 」

 我が君に 戯奴は恋ふらし 賜りたる
         茅花を喫めど いや痩せに痩す

             作者  大伴家持

( 巻8-1462 ) 
       あがきみに わけはこふらし たばりたる
                つばなをはめど いややせにやす

意訳 「わが君に 私めは恋しているようです 頂きました 茅花を食べましたが ますます痩せるばかりです 」

 我妹子が 形見の合歓木は 花のみに
         咲きてけだしく 実にならじかも

(巻1-1463 )
      わぎもこが かたみのねむは はなのみに
               さきてけだしく みにならじかも

意訳 「 あなたから頂いた 記念の合歓の木は おそらく花だけが咲いて 実を結ばないのでしょう 」


* 歌を贈った紀女郎(キノイラツメ)は、奈良時代初頭の頃の女性です。父の紀鹿人は外従五位上に昇っていますので、下級貴族の娘といった環境で育ったのでしょう。
720 年前後の頃に、安貴王と結ばれています。安貴王は、志貴皇子の孫ですから歴とした皇族で、二人の間には市原王が生れています。
ただ、紀女郎が嫁いで2~3年後の頃に、安貴王と元正天皇の采女との密通が表面化して、安貴王は罰を受けました。諸国から天皇に献上される采女との密通は「不敬之罪」として厳しく罰せられ、采女は故国に戻され、安貴王も、謹慎や官位剥奪などの罪を受けたと思われます。729 年頃には赦免され、後に従五位上まで昇進しています。
この事件から間もない頃に、紀女郎は安貴王と離別しています。

* 歌を返した大伴家持(オオトモノヤカモチ・718 ? - 785 )は、万葉集の編纂に深く関わっている人物です。従三位中納言まで上った人物ですが、経歴などは割愛させていただきます。

* 二人の歌の贈答は、間違いなく恋愛感情が絡んでいると思われますが、実に軽妙で、可笑しさを強く感じます。
この歌が交わされたのは、740 年頃とされていますので、家持が22歳前後なのに対して、紀女郎の方はかなり年上と考えられます。誕生年は未詳ですが、市原王を儲けてから20年近く経っていますから、おそらく、30歳台の後半だったのではないでしょうか。現在と違って、当時の30歳台後半は、孫がいて不思議のない年代です。
紀女郎は、よほどチャーミングな女性だったのでしょうが、家持がすっかり熱を上げているのを、お姉さんがからかっているかのような、それでいて思わせぶりでもあり、後の大歌人を「戯奴」扱いしているのが、何とも楽しい場面を提供してくれているように思うのです。

       ☆   ☆   ☆


   

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一夜寝にける ・ 万葉集の風景

2025-02-25 08:00:10 | 万葉集の風景

    『 一夜寝にける ・万葉集の風景 』 


 春の野に すみれ採みにと 来しわれぞ
         野をなつかしみ 一夜寝にける

             作者  山部赤人

( 巻8-1424 )
      はるののに すみれつみにと こしわれぞ
              のをなつかしみ ひとよねにける

意訳 「 春の野に すみれを摘もうと思って 来た私は 野を去りがたくなって 一夜野宿しました 」


* 作者の山部赤人(ヤマベノアカヒト・660 ? - 724 )は、万葉集を代表する歌人の一人です。万葉集には、長歌・短歌合わせて50首が採録されており、勅撰和歌集には全部で49首が選ばれています。
平安時代にはその評価はさらに高まり、紀貫之は古今和歌集の仮名序の中で、「人麿は赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と、柿本人麻呂と並び称される歌人と評価しています。
また、赤人は三十六歌仙の一人に選ばれていますが、柿本人麻呂と共に歌聖と称されることもあります。

* 赤人には、天皇を称える歌が多いことから、聖武天皇時代には宮廷に仕えていたと推定されます。ただ、その名前は正史には記録されていないようなので、六位以下の中下級の官人であったと考えられます。
その作風は、宮廷歌人的な色合いもありますが、叙景歌人としての評価が高いようです。
掲題の歌も、春の野を楽しむごく分かりやすい歌といえますが、個人的には、「いくらすみれを摘むのが楽しかったとしても、野宿などするものだろうか」という気持ちを持っています。
むしろ、この歌は、「すみれのように愛らしい人のもとで、一夜泊まってしまいましたよ」と受取りたいと思うのですが、少々邪推が過ぎますでしょうか。

       ☆   ☆   ☆


 

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つらつら椿つらつらに ・ 万葉集の風景

2025-02-19 08:00:44 | 万葉集の風景

     『 つらつら椿つらつらに ・ 万葉集の風景 』


巨勢山の つらつら椿 つらつらに
       見つつ偲はな 巨勢の春野を

              作者  坂門足人


( 巻1-54 )
    こせやまの つらつらつばき つらつらに
             みつつしのはな こせのはるのを

意訳 「 巨勢山の つらつら椿よ その名のように つらつら連なっているすばらしい姿を 賛美しながら偲ぼう 巨勢の春野を 」


* 作者の坂門足人(サカトノヒトタリ)の生没年や経歴などは、ほとんど伝えられていません。
ただ、この歌の題詞には、「 大宝元年辛丑の秋九月、太上天皇、紀伊国に幸(イデマ)せる時の歌 」とありますので、西暦でいえば 701 年の秋に、太上天皇(持統天皇)の行幸に随行していたことが分ります。また、秋は、椿は花の季節ではありませんので、見事な花の姿を思い浮かべて詠んだものと言えます。
この事から、作者は、701 年の前後に活動していた人物であること、また、宮廷に仕えていたらしいことが推定出来ます。
しかし、官暦などの記録が確認出来ないことから、従五位下以上の貴族階級ではなく、六位以下の中下級の官吏だったと考えられます。


河のへの つらつら椿 つらつらに
       見れども飽かず 巨勢の春野は

              作者  春日蔵首老

( 第1-56 )
    かわのへの つらつらつばき つらつらに
             みれどもあかず こせのはるのは

意訳 「 河のほとりに 連なり咲く椿よ つらつらと咲く花は いくら見ていても飽きることがない 巨勢の春野は 」

* 作者の春日蔵首老(カスガノクラ オビトオユ)も生没年は不詳ですが、700 年前後の履歴が伝えられています。
時期は不明ですが出家していましたが、701 年に還俗し、714 年に従五位下を叙爵、貴族の地位に昇っています。常陸の介を務めたという記録もあるようです。


* この二つの歌は、あまりにも酷似していますので、別々に詠まれたものが偶然似ていたということは考えにくいです。
春日蔵首老の方は、実際に咲き誇っている椿を見て詠んだのでしょうが、坂門足人の方は、歌の中にもあるように、秋に巨勢山を眺めて春の姿はすばらしいと詠んでいます。
万葉集の編者は、この二つの歌の間に別の歌を一首( 「真土山」を詠み込んだ調首淡海( ツキノオビトオウミ ) の歌 ) 挟んでいるのは、二つの歌に直接関連がないことを示したのかもしれません。
二つの歌の関連については諸説あるようですが、おそらく、春日蔵首老の歌が先に詠まれ、その歌が人々に評価を受けているのを、坂門足人は承知していて詠んだのだと推定しました。

* 巨勢山は、現在の奈良県御所市辺りに所在し、大和から紀伊への通路に当たります。
坂門足人は、行幸に随行する旅の途上で、巨勢山のすばらしさを、それも秋でありながら春の椿のすばらしさを詠んだのには、その山に対する敬意を表すためであり、紀伊に向かう旅の安全を祈ったのではないでしょうか。
それにしても、美しい椿の花を見て、『 つらつら椿 つらつらに 』と詠んだ万葉人の感性にあたたかなものを頂戴したような気がするのです。

       ☆   ☆   ☆

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煙立つ見ゆ ・ 万葉集の風景

2025-02-13 08:00:43 | 万葉集の風景

     『 煙立つ見ゆ ・ 万葉集の風景 』


春日野に 煙立つ見ゆ 娘子らし
       春野のうはぎ 採みて煮らしも

                   作者不詳

( 巻10-1879 )
     かすがのに けぶりたつみゆ おとめらし
              はるののうはぎ つみてにらしも

意訳 「 春日野に 煙が立っているのが見える 乙女たちが 春の野のうはぎ(ヨメナ)を 摘んで煮ているのだろう 」


* 「巻10」に収められている歌のほとんどは、作者名が記されていません。この歌もその一つです。

* 歌の内容は極めて平易で、春の日の、のどかで平和な様子が描かれています。
春日野が舞台ですから、詠み人は、奈良の都で生活する比較的豊かな人、あるいは、かなり高貴な人なのかもしれません。
描かれている情景に何の意外性もありませんが、のびのびとした乙女たちの生活ぶりが映し出されているように思われます。

       ☆   ☆   ☆ 
   

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ともしびの明石大門 ・ 万葉集の風景

2025-02-07 08:00:08 | 万葉集の風景

     『 ともしびの明石大門 ・ 万葉集の風景 』


燈火の 明石大門に 入らむ日や
     漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

           作者  柿本人麻呂

( 巻3-254 )
    ともしびの あかしおほとに いらむひや
            こぎわかれなむ いえのあたりみず 

意訳 「 灯火がともり始めた 明石海峡に 夕陽が沈んでゆく 大和とも 漕ぎ別れてしまうことになるのだなあ 家の辺りも見えなくなった 」
なお、この意訳では、「燈火」を、「灯火」と受取りましたが、この言葉は「明石にかかる枕詞」でもありますので、まったく意味を持たないと考えると、「入らむ日や」は、沈んでいく夕陽をもっと強く感じ取る歌になるかもしれません。
「漕ぎ別れなむ」も、「大和と別れてきた」と、「今別れようとしている」といった取り方があるようで、比較的分かりやすい歌だと思うのですが、解釈は幾つかあるようです。


* 作者の柿本人麻呂は、万葉集における最高の歌人と言えるでしょう。後世の評価も高く、おそらく、わが国で史上最高の歌人を一人挙げるとすれば、一、二位を争うのではないでしょうか。

* しかし、柿本人麻呂は実に謎の多い人物でもあります。
人麻呂に関する情報は、万葉集に載っている歌や注意書きなどがすべてで、他の文献や正史にはまったく記録がないようです。 
そうした条件下でありながらも、伝えられている情報は少なくありません。

* まず、生年も正しく記録されたものはありませんが、( 660? - 724? ) というものがありますが、おそらく、それほど大きく離れていないのではないでしょうか。
伝えられている歌の多くは、持統天皇時代(在位期間 690 - 697 )を中心としたものですし、その皇子の草壁皇子の舎人であったという説もあるようです。
持統天皇時代前後のかなりの長い期間を、宮廷歌人といった立場で活動したのではないでしょうか。
身分についても、貴族であったという説もあるようですが、五位以上の身分であれば、正史のどこかに記録があるはずですが、全くないようなので、六位以下の中下級の官人、あるいは貴族の舎人といった立場の生涯だったのではないでしょうか。

* 人麻呂には、明石を詠み込んだ歌が幾つかあり、掲題歌もその一つです。
当時、万葉人にとって、明石は、いわゆる畿内の最西端で、船で西に進むときには、異国に入るといった感慨があったのかもしれません。
そして、「大門」というのは「海峡」という意味ですが、まったく個人的な勝手な想像ですが、「大門=大橋」と読み替えますと、万葉時代も現在も変らぬ景色かもしれないと、いっそうこの歌に親しみを感じてしまうのです。

       ☆   ☆   ☆

  

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瓜食めば子ども思ほゆ ・ 万葉集の風景

2025-02-01 08:01:51 | 万葉集の風景

     『 瓜食めば子ども思ほゆ ・ 万葉集の風景 』


      題詞
 
  子等を思ふ歌一首 并せて序


釈迦如来 金口(コンク・釈迦如来は金身であることからの表現)に正しく説きたまはく、

「衆生を等しく思ふこと 羅睺羅(ラゴラ・釈迦の実子)のごとし」と。また説きたまはく、「愛するは子に過ぎたりといふことなし」と。至極の大聖すらに なほし子を愛したまふ心あり。況んや 世間の蒼生(アオヒトクサ・雑草、衆生を指す)、誰か子を愛せざらめや。

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ

( 巻5-802 )
   うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしのはゆ いづくより きたりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ

意訳 「 瓜を食べれば 子どもが思い出される 栗を食べれば なおさら偲ばれる 何処よりどのような因果で 生れてきたのか 目の前に むやみにちらついて ゆっくりやすませてもくれない 」

     反歌

銀も 金も玉も 何せむに

     まされる宝 子にしかめやも

( 巻5-803 )
    しろがねも くがねもたまも なにせむに
            まされるたから こにしかめやも

意訳 「 銀も 金も玉も どれほどのことがあろうか すぐれた宝は 子に勝るものがあるのか 」

                作者  山上憶良


* 作者の山上憶良(ヤマノウエノオクラ・ 650? - 733? )は、子どもや家族に思いを寄せる歌の第一人者と言える歌人です。それは、単に万葉集の歌人の中で、ということだけでなく、掲題の歌などは、現代の私たちにとっても馴染み深く、時代を超えて輝いています。

* 憶良は、701 年の第八次遣唐使の少録に任ぜられて、唐に渡り、儒教や仏教を学んでいて、彼の作品の随所にその影響が見られます。
714 年に、正六位下から従五位下に叙爵されていますので、歴とした貴族層に昇っています。
その後は、伯耆守や東宮(首皇子。後の聖武天皇。)の侍講などを務め、726 年に筑前守に就き任国に下りましたが、二年ほど遅れて太宰帥として太宰府に着任した大伴旅人と共に、筑紫歌壇の形成に尽力しています。

* 732 年に任務を終えて帰京し、733 年 6 月頃までの歌が残されているようですが、それからほどなく亡くなったようです。
現在に伝えられている憶良の歌の中には、私たちの日常の中でも見られるような様子が描かれていたり、少々気恥ずかしいほど子どもや妻などへの愛情を歌っているものがありますが、それこそが彼の面目躍如たる部分で、『どこからやって来たのか知らないが、気にかかって安眠も出来ない』と、嬉しげに嘆いている様子に、拍手を送りたいような気がします。

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今は漕ぎ出でな ・ 万葉集の風景

2025-01-26 08:03:04 | 万葉集の風景

      『 今は漕ぎ出でな ・ 万葉集の風景 』


熟田津に 船乗りせむと 月待てば
       潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

          作者  斉明天皇 ( 万葉集は「額田王」)

( 巻1-8 ) 
    にきたつに ふなのりせむと つきまてば
            しほもかなひぬ いまはこぎいでな

意訳 「 熟田津(現在の松山市にあった港)で 船出しようと 月を待っていると 潮の具合も良くなってきた さあ 今こそ漕ぎ出そう 」


* この歌の作者は、万葉集では「額田王」となっています。ただ、左注には、山上憶良の「類聚歌林」からの引用として、「この歌は斉明天皇御製」である、記されています。
この歌の持つ雰囲気は、万葉集屈指の女流歌人とはいえ、額田王よりは、天皇の御製と言う方がぴったりくるように思うのです。
但し、斉明天皇の御製として、実際は額田王が作ったということは十分考えられます。

* この歌は、百済からの支援要請に応えるために、斉明天皇自らが出陣し、朝鮮半島に向かう途上、伊予国の熟田津から九州に向かって船出する時の状況を詠んだものです。一行には、中大兄皇子や額田王も加わっていたようで、万葉人の熱い息吹が伝わってくるような作品と言えましょう。

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我が子羽ぐくめ ・ 万葉集の風景

2025-01-20 07:59:07 | 万葉集の風景

     『 我が子羽ぐくめ ・ 万葉集の風景 』  


 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
       我が子羽ぐくめ 天の鶴群

           作者  遣唐使の母

( 巻9-1791 )
    たびびとの やどりせむのに しもふらば
             あがこはぐくめ あめのたづむら

意訳 「 旅人が 仮寝をする野に 霜が降るようであれば 我が子を羽で守ってやっておくれ 天かける鶴たちよ 」


* 遣唐使に任命されることは、大変名誉なことであったのでしょうが、その旅は、まさに命がけで、多くの船が難破し多くの人が命を失っています。送り出す母の気持ちは、天かける鶴の群にさえ祈る、切ないものだったことでしょう。
この歌は「反歌」となっていて、一つ前には「長歌」が載せられていますが、こちらの方はさらに切ないものです。


( 巻9-1790 )
    題詞
天平五年癸酉 遣唐使の船 難波を発ちて 海に入る時に 親母の子に贈る歌一首

秋萩を 妻問ふ鹿こそ 独り子に 子持てりといへ 鹿子じもの 我が独り子の 草枕 旅にし行けば 竹玉を しじに貫き垂り 斎瓮に 木綿取り垂でて 斎ひつつ 我が思ふ我が子 ま幸くありこそ

「 あきはぎを つまどふかこそ ひとりごに こもてりといへ かこじもの あがひとりごの  くさまくら たびにしゆけば たかたまを しじにぬきたり いはひへに ゆふとりしでて いはいつつ あがおもふあがこ まさきくありこそ 」

意訳 「 秋萩(可憐な牝鹿を指す)を 妻問う鹿こそ 一人の子を持つという(鹿は一産一子)。その鹿の子のように 私のたった一人の子が 草を枕の 旅に出ていくので 竹玉を たくさん緒に通して垂らし 斎瓮に木綿を取り付けて下げ 身を慎んで 私の何よりも大切な私の子よ どうぞ無事でいておくれ 」
なお、竹玉は、竹の輪切りに似た円筒状の装飾品で大変高価であったらしい。

斎瓮は、神事に用いる土器。
木綿は、木の皮から取る繊維で、後世の「わた」とは違う。


* 作者の子が、どのような地位の人であったのかは不明です。正使や副使でなくとも、相応の地位であれば、名前が残されている可能性が高いと思われます。かと言って、これだけの歌を残した女性の子ですから、単なる雑役夫として徴用された人の母とも思えないような気がします。
いずれにしても、子を思う母の懸命の歌を、うまく意訳出来ないのが残念です。
同時に、この歌などこそが、万葉集の存在価値を高めているような気がするです。

       ☆   ☆   ☆

  



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山の嵐の寒けくに ・ 万葉集の風景

2025-01-14 08:02:20 | 万葉集の風景

     『 山の嵐の寒けくに ・ 万葉集の風景 』


 み吉野の 山の嵐の 寒けくに
       はたや今夜も 我が独り寝む

             作者  文武天皇 

( 巻1-74 )
    みよしのの やまのあらしの さむけくに
            はたやこよひも あがひとりねむ

意訳 「 み吉野の 山おろしの風が 寒いのに もしや今夜も 独りで寝るのだろうか 」


* 作者の第四十二代文武天皇(モンムテンノウ・即位前は軽皇子)の父は、草壁皇子です。
草壁皇子は、天武天皇の第三皇子で、母は持統天皇です。両親の、とりわけ持統天皇の期待を一身に担って、早くから政務に関わっていましたが、即位することなく、二十八歳で崩御しました。
その後は、持統天皇にとっては孫に当たる軽皇子の成長を待ち続け、十五歳になるや譲位し、文武天皇が誕生しました。
しかし、その文武天皇も在位十一年ほどで、二十五歳の若さで亡くなっています。

* 掲題歌の題詞には、「大行天皇 吉野宮に幸(イデマ)せる時の歌」とありますので、吉野に行幸した時の歌だと分ります。
なお、大行天皇(ダイギョウテンノウ)というのは、天皇が亡くなった後、まだ諡号が決められていない場合に使われます。ここでは、文武天皇を指しています。

* 掲題歌は、ごく分りやすい状況を歌っていますが、実は、吉野は、持統天皇は三十一回も行幸しているという特別な土地なのです。
文武天皇にとっても、この地は格別の意味を持っていたでしょうし、単なる儀礼訪問というより、何かの願いなり決断を胸に抱いていたのかもしれません。
また、古代人は夜を現代人以上に、畏れ、不吉といった感情を抱いていたようですし、「独り寝」も、単なる寂しさではなく、居城を離れている不安も加わっているのかもしれません。
後見者はいたとしても、まだ若くして即位した天皇の孤愁のようなものが聞こえてくるような気がするのです。

        ☆   ☆   ☆

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