雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

松が枝を結ぶ歌 ・ 万葉集の風景

2024-12-27 08:00:43 | 万葉集の風景

     『 松が枝を結ぶ歌 ・ 万葉集の風景 』


  「 有間皇子 自ら傷みて 松が枝を結ぶ歌二首 」


 岩代の 浜松が枝を 引き結び
       ま幸くあらば またかへり見む

( 巻2-141 )
    いはしろの はままつがえを ひきむすび
            まさきくあらば またかへりみむ

意訳 「 岩代の 浜の松が枝を 引き結んで祈れば 幸い無事であれば また帰ってきて見ることもあろう 」
岩代は土地の名称で、現在の和歌山県日高郡南郷町。
 

 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕
         旅にしあれば 椎の葉に盛る

( 巻2-142 )
    いへにあれば けにもるいひを くさまくら
             たびにしあれば しひのはにもる

意訳 「 家にいるときには 器に盛る飯だが 草を枕の旅なので 椎の葉に盛るのだなぁ 」


* 有間皇子は、第三十六代孝徳天皇の皇子です。

645 年 6 月 12 日、中大兄皇子と中臣鎌足らが時の権力者蘇我入鹿を暗殺するという大事が起りました。乙巳の変(大化の改新)です。
混乱の中、皇極天皇は退位し、弟の孝徳天皇が 6 月 14 日に即位しました。おそらく、政治の実権は皇太子の中大兄皇子らが握っていたのでしょう。
孝徳天皇は、そうした状況を変えるためもあってか、646 年 1 月に都を難波宮に移しました。こうした事も原因してか、孝徳天皇と中大兄皇子との関係は悪化の一途をたどり、653 年には、都を倭京へ戻すことを求めていた中大兄皇子は、天皇が聞き入れる意志が無いのを知ると、皇族や群臣を引き連れて難波宮を去ってしまいました。皇后までも同行しました。
孝徳天皇は、失意のうちに翌 654 年 11 月に崩御しました。

* その跡は、再び元皇極天皇の姉が斉明天皇として重祚しました。
孝徳天皇が即位するときにも、何人もの皇子が辞退したと伝えられているように、皇位をめぐる争いの激しい時代でした。
有間皇子は、657 年に、紀伊の牟呂の湯(城浜温泉の一部)に向かいました。精神病をよそおっていたと伝えられていますので、皇族間の争いから身を隠そうとしていたのでしょう。帰京後には、伯母でもある斉明天皇にその効能を話したので、翌年の冬には、天皇・皇太子(中大兄皇子)らが牟呂の湯に向かいました。

* その留守中に、有間皇子謀反という事件が勃発しました。蘇我赤兄にそそのかされたため、と伝えられていますが、有間皇子はその蘇我赤兄に捕縛されました。
11 月 9 日に牟呂に護送され、中大兄皇子の尋問を受けました。
その時、有間皇子は、「天と赤兄のみが知る。自分は知らない」と答えたと伝えられています。
許されて帰京するかに見えましたが、11 日、藤白坂(海南市藤白)において、絞首刑に処せられました。享年十九歳でした。

* 掲題の二首の歌は、護送される途上で詠んだものです。
「松が枝を引き結ぶ」ことによって、願いが実現するという風習があったようで、有間皇子は、どのような思いで結んだのでしょうか。
皇子に生れたばかりに、十九年にも満たない生涯は、悼みても悼みきれないものと思われます。

     ☆   ☆   ☆

 

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ほどろほどろに降り敷けば ・ 万葉集の風景

2024-12-21 07:59:54 | 万葉集の風景

   『 ほどろほどろに降り敷けば ・ 万葉集の風景 』


 沫雪の ほどろほどろに 降り敷けば
         奈良の都し 思ほゆるかも

          作者  大宰帥大伴卿 

( 巻8-1639 )
     あわゆきの ほどろほどろに ふりしけば
             ならのみやこし おもほゆるかも 

歌意は、「 あわ雪が ほんのうっすらと 降り積もると 遙かなる奈良の都が 思い出されるなあ 」


* 作者の大宰帥大伴卿(ダザイノソチ オオトモキョウ)とは、大伴旅人(オオトモノタビト・ 665 - 731 )のことです。
大伴氏は、古くからの軍事を専らとする名族ですが、旅人も軍事を中心に官職を勤め順調に昇進を重ね、従二位大納言にまで昇っています。
一方、歌人としても優れていて、万葉集には78首が採録されていますし、漢詩も堪能であったようです。また。万葉集の編纂に関わったとされる大伴家持は旅人の実子です。

* 710 年には左大将に任じられ、720 年には征隼人持節大将軍を勤めています。
そして、727 年頃、太宰帥(太宰府の長官)として筑紫に赴任しました。妻の大伴郎女(オオトモノイラツメ)やまだ幼い家持も同行しています。この人事については、旅人の防衛上の手腕を買ったものだという説と、後に長屋王の変と呼ばれる政変が起っているように、政情不安の中、藤原氏が旅人を遠のけたという説もあるようです。

* 太宰府に赴いて間もなく、妻の郎女が亡くなりました。旅人自らも大病を患ったようで、掲題の歌は、そうした頃に詠まれたものです。
まさに、望郷の歌といえます。
730 年 11 月に大納言に昇り、帰京を果します。しかし、翌年 7 月に病により亡くなりました。
上記しましたように、旅人は万葉集に78首の歌を残していますが、その多くは太宰府時代に詠まれた物のようです。
武人として卓越し、公卿の地位にまで上り詰めていても、妻を亡くし自らも病がちな身にとって、遙かなる奈良の都を偲ぶ気持ちは、堪え難いほどのもだったのかも知れません。

     ☆   ☆   ☆ 

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今ぞ悔しき ・ 万葉集の風景

2024-12-15 07:59:24 | 万葉集の風景

      『 今ぞ悔しき 』


 水鳥の 立ちの急ぎに 父母の

       物言はず来にて 今ぞ悔しき

        作者  上丁 有度部牛麻呂 駿河防人

( 巻20-4337 )
      みずどりの たちのいそぎに ちちははの
             ものいはずきにて いまぞくやしき

意訳 「 水鳥のように 急いでて出発したので 父母に ろくに話もしないで来てしまったので 今になってそれが悔やまれる 」


* 作者の 上丁 有度部牛麻呂(ジョウチョウ ウトベノウシマロ)は、その後に記されているように、駿河国の人で、防人(サキモリ)の務めにあたった人物です。
上丁というのは、一般兵士のようなので、ごく普通の庶民だったのでしょう。
防人は、筑紫や壱岐・対馬などの防備にあたるために、主に東国から集められた兵士のことです。この制度は、大化の改新の施策の一つで、乙巳の変直後に即位した孝徳天皇(在位 645 - 654 )の御代に始まったようですから、万葉集に登場する防人たちは、この制度が始まってまだ初期の時代に務めにあたった人々といえます。

* 防人は、主として東国の多くの国の兵団から選出され派遣されたようです。毎年千人から二千人を超えるほどの兵士が難波に集められ、船団を組んで筑紫に向かったようです。食糧や武器は個人持ち(派遣した国が負担するのでしょうが。)で、税も免除されることがなかったので、国府や兵士たちにとっては厳しい制度だったようです。兵士といっても、当時専門職の兵士などはごく限られていて、そのほとんどは農民だったでしょうから、危険や負担ばかりが多い任務だったようです。

* 万葉集に防人の歌が数多く採録されているのは、おそらく、大伴家持が兵部少輔という地位に就いていたので、難波に集まってくる兵士たちから歌を聴取する機会があったと考えられます。これが、万葉集に幅を持たせ、歴史的にも貴重な資料を提供することになったようです。
掲題の歌は、作者はおそらく農民で、国府の警備などに徴収されていたのが、防人の任務を命じられたのではないでしょうか。もちろん、若干の手当てなどのような物もあったのでしょうが、両親などと別れの時を満足に取ることも出来ずに、遙かな西国に向かって出立したのでしょう。そして、故国を離れるに従って、再び会えることさえ困難であろう父母を思う気持ちが押えがたく、その気持ちを吐露したものだと考えますと、切なさが胸に迫ってきます。

     ☆   ☆   ☆
  

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我が恋増さる ・ 万葉集の風景

2024-12-09 07:59:48 | 万葉集の風景

      『 我が恋増さる 』

 神奈備の 磐瀬の杜の 呼子鳥
       いたくな鳴きそ 我が恋増さる

           作者  鏡王女

( 巻8-1419 )
     かむなびの いはせのもりの よぶこどり
             いたくななきそ あがこひまさる

意訳 「 神奈備の 磐瀬の杜の 呼子鳥よ そんなにひどく鳴かないでおくれ 私の恋の思いが増すから 」
なお、「神奈備」は、神の在します所、といった意味の普通名詞です。
「磐瀬の杜」については諸説ありますが、奈良県生駒郡三郷町にこの歌の歌碑が作られています。
「呼子鳥」には諸説ありますが、カッコウだという説が有力のようです。


* 作者の鏡王女(カガミノオホキミ)は、謎多き女性です。情報はたくさん伝えられていますが、どれが真実で、どれが誤伝されているものか、判断が難しいものばかりのようです。
本稿では、「 鏡王女は、高貴な家柄の娘であること。はじめは天智天皇の妃またはそれに準ずる関係になり、その後、藤原鎌足の正室になり、天武12年に亡くなった。」というのを真実と考えました。
そして、亡くなる前日には、天武天皇の見舞いを受けています。
また、今の興福寺の前身である山階寺は、鎌足が病気の時に、鏡王女の発願により開基されたものとされます。

* かつては、鏡王女は額田王(ヌカタノオオキミ)の姉とする説が有力でした。万葉集の歌人で、「最も人気の高い美女姉妹」とされることが多かったようです。ただこれは、額田王 の父が鏡王であることから連想されたもののようです。
むしろ、鏡王女は舒明天皇の皇女とする説の方が有力なようで、これは、鏡王女の墓が舒明天皇陵に近接していることを根拠にしているようです。但し、舒明天皇の皇女を、天智天皇がいくら功臣とはいえ皇族でもない鎌足に賜与することはない、という意見もあるようです。
また、鏡王女を藤原不比等の生母だという説もあるようです。

* 事の真偽はともかく、鏡王女が、額田王の姉妹と言われるほど、上流階級でもてはやされた女性であったことは確かなようです。
掲題の歌は、いわゆる恋歌でしょうが、第一句の「神奈備」から、夫の鎌足を偲んで詠んだものといった受け取り方もできます。 
もし、この推定が正しいとしますと、亡き人を偲ぶのに「我が恋増さる」と詠むのは、万葉の人々の亡き人との距離感は、私たちよりずっと近いのかもしれない、と思うのです。

     ☆   ☆   ☆

  

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この日暮れなば ・ 万葉集の風景

2024-12-03 08:04:56 | 万葉集の風景

       『 この日暮れなば 』


 いづくにか 我が宿りせむ 高島の
         勝野の原に この日暮れなば 

           作者  高市黒人

( 巻3-275 )
   いづくにか わがやどりせむ たかしまの
           かつののはらに このひくれなば

意訳 「 どの辺りで 宿を取ろうか 高島の 勝野の原で この日が暮れてしまったら 」


* 作者の高市黒人(タケチノクロヒト)は、持統・文武天皇の頃の人物です。生没年は未詳ですが、あの柿本人麻呂より少し遅れた時代の人のようです。
高市氏は、現在の奈良県橿原市辺りの一族であったようですが、黒人は下級の官人として過ごしたと考えられます。行幸に供奉したり、公務としての旅らしい経験を舞台にした歌が多く、地方官の経験もあったのでないかと思われます。

* 黒人の歌は、万葉集に18首採録されていますが、すべてが短歌です。
掲題の歌は、「羈旅の歌八首」として並べられているうちの一首です。この八首以外の物も旅での経験が詠まれており、「旅愁の歌人」、「漂泊の歌人」などといった評価がなされることが多く、その淡々とした、静かでそれでいて現代人にさえ訴えてくるような何かがあり、歌人として高い評価をする研究者も少なくないようです。

* 掲題歌の舞台は、「高島の勝野の原」ですが、この所在地について一部異説もあるようですが、「滋賀県高島市勝野」に歌碑が作られていますので、そちらを有力と考えました。
それにしても、この歌には、何のてらいもなく、大した技巧も感じられず、それでいて何か惹かれるものがあるような気がするのです。
公務としての旅だとすれば一人旅ではないでしょうが、当時、例え公務であっても下級役人に用意されている宿泊施設など限られていたでしょうから、どこかの農家か、原野の真ん中であれば、野宿も珍しくない旅だったのではないでしょうか。そうした覚悟での旅程なのかもしれませんが、「さて、こんな所で暮れてきてしまったぞ」と、相談しあっている声が聞こえてくるような気がするのです。
黒人は、万葉の一風景を私たちに伝えてくれているのかもしれません。

     ☆   ☆   ☆

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鴉は大をそ鳥 ・ 万葉集の風景

2024-11-27 08:05:22 | 万葉集の風景

     『 鴉は大をそ鳥 ・ 万葉集の風景 』


 鴉とふ 大をそ鳥の まさでにも

        来まさぬ君を ころくとそ鳴く 

               作者不明

( 巻14-3521 )
   からすとふ おおをそとりの まさでにも
           きまさぬきみを ころくとそなく 

意訳 「 鴉という 大あわてものの鳥は ほんとうは 来てもいないあの人を 来たよ来たよと鳴くのですよ 」


* 万葉集には、およそ4,500首の歌が収録されていますが、そのうち、およそ2,100首が「作者不明」となっています。この歌もその一つです。
ただ、万葉集の添え書きなどから、東国の人の歌らしいのですが、出身地は不明です。
また、作品の内容から女性が詠んだものと考えられます。

* 鴉(烏)が人里近くにいる様子は、平安王朝時代の文献にも登場していますし、現代社会でも変らぬ風景のように思われます。
この歌からは、いわゆる「妻問婚」だったらしいことが窺えます。また、作者が地方在住なのか、あるいは夫の赴任によって移住したものかは分りませんが、地方の女性もこれだけしゃれた歌が詠めるだけの教養が広がっていたのかもしれません。

* それにしても、鴉の鳴く声にさえ、愛する人が来たかと思うほど待ち焦がれているのでしょうが、それを、この歌のように、「鴉のあわてん坊」と詠む心の豊かさはすばらしいと思うのです。

     ☆   ☆   ☆
 

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籠もよ み籠持ち ・ 万葉集の風景

2024-11-21 08:01:09 | 万葉集の風景

      『 籠もよ み籠持ち 』


 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち
 この岡に 
菜摘ます児 家告らせ 名告らさね 
 そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ 
 しきなべて 我こそいませ 
我こそば 告らめ   
 家をも名をも


             作者 大泊瀬稚武天皇

 ( 巻1-1 )
 こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このおかに
 なつますこ いえのらせ なのらさね そらみつ やまとのくには
 おしなべて われこそおれ しきなべて われこそいませ
 われこそば のらめ いえをもなをも

意訳 「 おお 籠も 良い籠をお持ちだ ふくしも 良いふくしをお持ちだ この岡で 菜を摘んでおいでの乙女よ 家を教えておくれ 名前を教えておくれ この 大和の国は
すべて 私が治めている国だよ 隅から隅まで 私が治めているのだよ それでは 私の方から名乗ろう 家も名前も 」
なお、「ふくし」は、菜を採種する「へら」のような物らしい。
「そらみつ」は、大和に掛る枕詞です。 


* 作者の大泊瀬稚武天皇(オホハツセワカタケル テンノウ)とは、第二十一代雄略天皇(在位 456 - 479 とされる )のことです。
もっとも、この歌は、雄略天皇が作った歌ではないというのが、ほぼ定説のようです。おそらく、伝承されているような物を、いささかの工夫を加えて歌い上げたのではないでしょうか。
歌の内容は、菜を摘む乙女を誘うかのような部分もありますが、この大和の国は自分が治めているのだという強い自信を示しているように受け取れます。

* 雄略天皇は、兄の安康天皇を暗殺したり、多くの皇子を殺害したとされ、粗暴の振る舞いが多く、「はなはだ悪しき天皇なり」と伝えられている人物です。
ただ、この歌に見えるように、天皇が作った作品でないとしても、このような、まるで歌劇の一場面のような歌を朗々と歌い上げていたとすれば、やはり、帝の地位に上るだけの何かを有していたのでしょう。
万葉の時代、あるいはそれに至る時代の人々の、激しい争いを秘めながらも、大らかで新しい時代への自信に溢れた姿を見せてくれているように思うです。
また、この歌は、万葉集の巻頭歌ですが、万葉集の編者がこの歌を選んだ理由が分るような気がするのです。

     ☆   ☆   ☆

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言霊の助くる国ぞ ・ 万葉集の風景

2024-11-15 08:28:21 | 万葉集の風景

     『 言霊の助くる国ぞ 』


 磯城島の 大和の国は 言霊の

       助くる国ぞ ま幸くありこそ

         作者  柿本人麻呂歌集

( 巻13-3254 )
   しきしまの やまとのくには ことだまの
          たすくるくにぞ まさきくありこそ

意訳 「 しきしまの 大和の国は 言霊が助け給う国です どうぞ ご無事でありますように 」


* この和歌の作者は、「柿本人麻呂歌集」となっています。つまり、万葉集の成立以前に、柿本人麻呂が編集したらしい歌集があり、そこから採録したということです。
万葉集には、この歌集から約370首も採録されています。それらの作品いずれもが作者名が分っておりませんが、人麻呂自身の作品が多くを占めていると推定されます。
本歌も、その雄大さからして、柿本人麻呂の作品と考えています。

* この歌は、この前にある長歌に対する「反歌」として載せられています。

 ( 巻13-3253 )

 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども
 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと つつみなく
 幸くいませば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波にしき
 言挙げす我は 言挙げす我は

 あしはらの みづほのくには かみながら ことあげせぬくに しかれども
 ことあげぞあがする ことさきく まさきくませと つつみなく
 さきくいませば ありそなみ ありてもみむと ももへなみ ちへなみにしき
 ことあげすあれは ことあげすあれは

意訳 「 葦原の 瑞穂の国は 神意のままに 言挙げしない国です それでも 言挙げを私はします お元気で いらっしゃいますようにと つつがなく お元気でいらっしゃれば 荒磯波があっても またお会いできると 百重波 千重波のように 繰り返して 言挙げします私は 言挙げします私は 」
なお、「言挙げ」とは、「言葉に出して言い立てること」です。

* 長歌から、この歌が旅立つ人への無事を祈る歌であることが分ります。それも、海を越えていく旅のようですから、再び会えることが出来るかどうか保証されない、厳しい旅立ちだと想像されます。
その時に作者は、言葉の持つ霊力を信じて、懸命に歌い上げます、「友よ、無事で過ごしてくれ」と。
万葉の大歌人の絶唱の姿といえましょう。

     ☆   ☆   ☆

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万葉集の風景 ご案内

2024-11-15 08:15:48 | 万葉集の風景

     万葉集の風景  ご案内


  万葉集は 現存するわが国最古の歌集です
  二十巻 四千五百余首が採録されています
  載せられている歌の大半は 七世紀前半から759年までの
  およそ130年間の作品です
  ただ、巻頭歌などに古歌が採録されていて 
  最古の作品の作者は 四世紀前半の磐姫皇后です
  最新の時代の作品は 大友家持の759年に詠まれたものです
  また 作者は 天皇・皇后や皇族 貴族や上下級の官人
  農民や一般庶民 防人などあらゆる階層の作品が収められており
  作者不明とされている作品が 二千百首を超えます
  万葉集の完成は 奈良時代末期の759~780年の頃と
  考えられています

  一度に編集されたのではなく 何度かに分かれて編集されていったと
  考えられていて 
最終段階では 大伴家持が深く関わっていたようです
  作品はすべて漢字が用いられていますが、そのほとんどは万葉仮名として
  使われています

  本稿は 作者不明の作品も含めた作者たちが それぞれどのような思いで
  その歌を詠んだのかに思いを寄せて その風景や心の葛藤に近づきたいと
  考えたいものです。
  何分 専門知識は全く有しておりませんので 誤訳や誤解が
  多発する恐れも
心配しておりますが 
  どうぞ許容いただきまして お楽しみ下さいますよう

  ご案内申し上げます

           ☆   ☆   ☆ 

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