雅工房 作品集

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運命紀行  女帝誕生

2012-07-12 08:00:30 | 運命紀行
       運命紀行

          女帝誕生


西暦592年12月8日、豊御食炊屋姫尊(トヨミケカシキヤヒメノミコト)は即位した。後の第三十三代推古天皇である。
そしてその即位は、神武天皇に始まる倭王朝における初めての女帝が誕生した瞬間でもあった。

六世紀の後半は、東アジにとって激動の時代だったといえる。
中国大陸では、隋が勢力を強めていて、強大な帝国を作り上げていた。そして、高句麗への圧力を強めていくと朝鮮半島の諸国は動揺し、その結果として百済は日本との交流を求め、有能な人材や物資が持たされることになるのである。
仏教伝来といえば、西暦538年に百済の聖明王から仏像等が贈られた時とされているが、実質的な仏教文化の伝来は、朝鮮半島諸国が混乱状態となり多くの人材が日本に帰化してからのことと考えられる。

日本国内においても、激しい王権の移動が見られる。
諸説、あるいは真偽はともかくとして、神武天皇に始まる皇統を仮に倭王朝と呼ぶならば、西暦506年に第二十五代武烈天皇が崩御したことによって一般的には王朝の移動があったと考えられている。
この後を継いだ第二十六代継体天皇は、応神天皇五世の孫とされているが、遥か越前(近江とも)から大和に向かったというのであるから、自然な王位継承であったとは考えにくい。継体天皇は武烈天皇崩御の翌年に河内国樟葉宮で即位しているが、大和に入るのに二十年近くを要しているのである。

この継体天皇といわれる方についての足跡もなかなかに掴み難い。
生年についても、古事記では西暦485年、日本書紀では450年となる。従って、即位の時の年齢も、一方は二十三、四歳の青年天皇であり、片方では五十八、九歳となり当時としては相当高齢であったことになる。しかも、大和入京になお二十年近くかかっているのである。

継体天皇は即位の時点ですでに多くの妻妾と子供がいたとされ、その子供らが即位した年齢が伝えられている通りと仮定すれば、相当の高齢での即位であり、その後も精力的な活動を見せ、大和の旧勢力と覇権を争ったと考えられる。
即位間もなく、武烈天皇の姉とも妹ともいわれる手白香姫(タシラカヒメ)を皇后に迎えている。旧倭王朝との融和のためと考えられるが、実はこの女性の存在が、その後の皇位継承に大きな意味を持つことになる。

西暦531年、継体天皇が崩御すると、その後を継いだのは長子である安閑天皇である。この天皇は即位した時すでに六十六歳と伝えられていて、在位五年弱で崩御する。そして、その後を同母弟の宣化天皇が継ぐ。この天皇も即位時六十九歳と高齢で、在位三年余りで崩御する。
そして、その後に登場するのが、第二十九代欽明天皇である。

欽明天皇も継体天皇の子供であり、先の二人の天皇の異母弟ということになるが、そこには大きな変化があった。
安閑・宣化両天皇の母は、尾張目子媛といい、継体天皇が歴史上に登場してくる以前からの夫人で、尾張に勢力を持つ一族の娘を母としていたのである。しかし、その後を継いだ欽明天皇の母は、あの手白香姫で、倭王朝の血を受け継いでいるのである。
欽明天皇の在位は三十二年に及び、王朝は安定を見せていたと推定される。

西暦571年、欽明天皇が崩御すると、その後はこの天皇の子供が四代続くことになる。
まず、第三十代敏達天皇が即位するが、この天皇の母は宣化天皇の皇女なので、ある時期までは尾張勢力との協力関係が保たれていたことが推定される。そして、この皇后となったのが、後の推古天皇である。
在位十三年余りで敏達天皇が崩御すると、異母弟が後を継ぐ。用明天皇である。この天皇の母は、推古天皇と同母であり蘇我氏の出身である。王権が旧倭勢力に戻ったとも見えるし、蘇我氏の時代の幕開けのようにもみえる。

しかし、用明天皇は在位僅か一年半程で崩御する。その後、後継を巡って激しい争いがあったようである。その結果第三十二崇峻天皇が即位する。次帝をめぐる争いは敏達天皇の崩御の時も同様で、推古天皇が穴穂部皇子に襲われるという事件も起きている。穴穂部皇子は崇峻天皇と同母の兄弟であるが、単に当人同士の争いなどではなく、取り巻く王族や豪族たちの複雑な利害や怨讐が絡んだものである。
さらに言えば、推古・用明の母と、穴穂部・崇峻の母と、当時一番の実力者であった蘇我馬子は、いずれも蘇我稲目を父とする兄弟である。

崇峻天皇が即位して五年あまり後の西暦592年11月、事件は起こった。
蘇我馬子は東国の使者を迎えるという目的で倉梯宮に群臣を集め、その面前で東漢駒(ヤマトノアヤノコマ)に命じて崇峻天皇を殺害したのである。
新羅征伐をめぐる意見の対立からだともいわれているが、天皇が群臣の面前で殺されるという過去に例を見ない事件である。天皇の母である小姉君は蘇我馬子の妹なので、意向に従わない甥を誅伐したかの事件にさえ見え、この後、蘇我馬子は何の責任も問われていないのである。
この事件から見えてくるものは、先の次期天皇擁立をめぐる争いで宿敵物部氏を打ち果たした蘇我氏の勢力に、対抗できる勢力はすでに無くなっていたということであり、さらに推定すれば、この時代は、少なくとも実質的には蘇我王朝と表現すべき時代だったのかもしれない、ということである。

そして、この混乱の中に、わが国最初の女帝が誕生したのである。
西暦592年12月、敏達天皇の后でもあった豊御食炊屋姫尊は飛鳥の地にある豊浦(トユラ)宮において即位した。
推古天皇の誕生であり、飛鳥時代の幕開けでもあった。


     * * *

天皇殺害という混乱の中で、僅かひと月後には推古天皇という初めての女帝が誕生したのである。
それにしても、なぜ混乱の中で誕生した天皇は彼女だったのであろうか。

現在我々が知ることのできる古代の歴史の断片の中には、推古天皇よりずっと昔に、ヤマタイコクには、ヒミコやトヨという女帝がいたことが知られている。しかし、彼女たちが神武天皇以下の皇統に連なる人物なのか、あるいは、推古天皇即位の時代に皇族や指導的豪族たちはヒミコやトヨの存在を知っていたのだろうか。もっとも、わが国で天皇という称号が用いられたのは天武天皇からということからすれば、推古天皇もそれ以前の天皇もおそらく大王と称されていたのであろうが、三十二代にわたって大王すなわち天皇の地位に女性を就けていないのにはそれ相応の理由があったはずである。それは同時に、それでは第三十三代はなぜ女帝であったのか、それ相応の理由があったはずなのである。

まず一つには、男性皇子に適当な人物がいなかったことが考えられる。しかし、用明天皇の甥であり敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子や竹田皇子がおり、子である厩戸皇子もいた。
第二は、中継ぎであったという考え方もある。竹田皇子は推古天皇の子供でもあるが、この時まだ年若かったためわが子に皇位を継がせるため中継ぎ役として即位したという考え方は理解できる。もし、そうだとすれば、推古天皇自身にかなりの力があったことが条件となる。ただこの皇子は、推古天皇の即位間もない頃に亡くなったらしく歴史の舞台から消えている。

第三は、巫女としての力を期待されてということがある。時代や背景は違うが、ヒミコやトヨの場合は巫女としての超人的な能力により王座に就いたと考えられる。推古天皇は敏達天皇の皇后であり五人の子供を成しており、巫女という表現は不似合であるが、シャーマン的な能力を有していたことは考えられる。用明天皇崩御の直後、穴穂部皇子が推古天皇を力ずくで我が物にしようとしたという記録が残されているが、それは彼女の霊力のようなものを取りこもうとしたのかもしれない。
そしてもう一つは、敏達天皇の皇后時代から、蘇我氏の娘である推古天皇は、蘇我馬子という強大な人物をバックに相当の実力を有していて、その後の用明・崇峻両天皇の即位にも大きな影響を持っていて、混乱状態となった状況の中では、推古天皇以外には後を引き継ぐ人物はおらず、それがたまたま女帝であったということかもしれない。
もちろんその背景に、蘇我馬子の強大な力があったことは間違いない。

いくらかの推定と多くの謎のもとに推古天皇は即位した。
翌年には、用明天皇の子、厩戸皇子を皇太子に立て、広く政治を補佐させている。厩戸皇子はこの時二十歳、後の時代には聖徳太子と呼ばれる人物であるが、この人物はあまりにも謎が大き過ぎるので、ここでは多くを述べることを控える。
推古天皇の御代は三十六年に及び、強大な蘇我氏を背景に古代のわが国に少なからぬ足跡を残している。
仏教文化が根付いていくのはこの時代であったし、遣隋使の派遣など上質な大陸文化を大量に導入している。初めて暦が採用され、その評価はともかくとして、冠位十二階を制定し、十七条憲法も制定されたとされる。

推古天皇は激動のさなかに即位し、三十余年にわたって飛鳥時代の繁栄を生み出した。
わが国最古の歴史書とされる古事記は、天地開闢から神代の時代を描き、神武天皇に始まる皇統の軌跡を記している。そして、第三十三代推古天皇の時代で記述を終えている。
古事記の序文によれば、その序文が書かれたのは八世紀初頭だという。これが正しいとすれば、推古天皇が崩御してから八十年ほども後のことである。その間には、少なくとも八代の天皇が存在している。それなのに、なぜか推古天皇の時代で終わっているのである。
さらに、第二代綏靖(スイゼイ)天皇から第九代開化天皇までの八人については簡単に系譜程度が記されているだけで、そのため欠史八代といわれている。それと同じように、第二十四代仁賢天皇から第三十三代推古天皇までの十人についても同様の記述の仕方をしており、こちらも欠史十代という言われ方をすることがあるのである。果たして、どういう意図があるのだろうか。

推古天皇は激動のさなかに即位し、三十有四年にわたって世を治め、飛鳥時代の繁栄を生み出している。
しかし、やはり、この時、わが国が推古天皇という女帝を必要としたのか、明快な答えは示されていないように思われる。

                                        ( 完 )
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