運命紀行
事件の目撃者
皇極四年(645)六月十二日に事件は起こった。
蘇我氏から権力を奪い取るためには、尋常の手段では及ばないと覚悟した中大兄皇子と中臣鎌足は、綿密に準備を固め機会を狙っていた。
蘇我本家の当主が温厚な蝦夷が病のため引退し、その子入鹿が大臣となったが、まだ若く粗暴な行動もあって、諸豪族や蘇我一族の中にも不満を漏らす者が出てきていた。それら勢力と好を深めて行ったが、何よりも蘇我一族の中の有力者である蘇我倉山田臣石川麻呂を陣営に引き入れることが出来たのが大きかった。
継体天皇に始まる混乱の状態は、推古天皇の御代になって安定しその治世は三十六年に及んだ。
推古天皇崩御後は、後継者が定められていなかったことや女帝の在位期間が長く後継適任者が孫の世代になっていたこともあって、豪族間の意見の対立はあったようである。
その中で有力者とされたのは、推古天皇の夫であった敏達天皇の孫にあたる田村皇子と推古天皇の兄であった用明天皇の孫にあたる山背大兄皇子の二人であった。結局蘇我氏が強く推す田村皇子が即位した。舒明天皇である。
舒明天皇の御代もおよそ十三年続き、推古・舒明両帝のほぼ五十年間は表面的には平穏な治世となった。
しかし、その政権は、蘇我氏の強力な後ろ楯によって保たれていたものであって、蘇我氏に反感を持つ勢力もじっと機会を狙っていた。
そして、舒明天皇が崩御すると有力な皇子が複数いるなかで、皇后である宝女王が即位することになる。皇極天皇である。
この時も、山背大兄皇子や舒明天皇の第一皇子である古人大兄皇子が有力候補と考えられていたが、蘇我氏の強い後押しで女帝誕生となるのである。
考えられることは、推古朝時代の平安を求める声や、蘇我氏勢力温存のために都合がよいなどが考えられるが、宝王女が舒明天皇の皇后になったことや、蘇我氏との血縁関係が薄いにもかかわらず天皇に押されたことは一つの謎ではある。
皇極二年(643)十一月、有力な天皇候補である山背大兄皇子は蘇我入鹿に攻め滅ぼされる。用明天皇の孫であり、厩戸皇子(聖徳太子)を父に持つ皇子は、「我が軍を動かし、入鹿と戦えば勝つのは分かりきっている。しかし、我が身のために民衆を傷つけたくない。よって此の身を入鹿に与えるのだ」という、何とも理解し難い言葉を残して自害、一族全員も従ったという。
この何とも理解し難い事変により、上宮王家と称せられる聖徳太子の後継は全滅してしまう。
そして、この事件を明日は我が身と感じた人物こそが、舒明天皇と皇極天皇との子である中大兄皇子であった。
中臣鎌足という味方を得た中大兄皇子は慎重に味方陣営の増強を計り、好機を待った。
やがて、絶好の機会がやってきた。
高句麗・百済・新羅三国からの使者が来朝し、朝廷において三国の調(ミツギ・献上物)の儀式が行われることになったからである。その席には、大臣である入鹿は必ず出席するし、味方となった石川麻呂も出席することになっている。天皇の御前であり、入鹿といえど護衛の兵士を側に置くことなど出来ない。
そして、皇極四年六月十二日の朝となった。
皇極天皇は朝廷の正殿に出御し、古人大兄皇子が側に控え、入鹿はその次の座に着く。そこで石川麻呂が上表文を読み上げ始める。
中大兄皇子は宮中の警備にあたっている靫負の司(ユゲイノツカサ)に命じて宮廷の諸門を閉めさせた。後は刺客に命じている者どもの首尾だけである。
石川麻呂が上表文を読み上げているうちに刺客が入鹿に切りかかる手筈になっていたが、終りに近づいてもその姿が見えない。石川麻呂の声が震え、入鹿は常とは違う気配を感じたかの様子を見せた。
中大兄皇子は、手違いか陰謀の露見かと懸念を感じたが、同時に自ら長槍をかざして入鹿に向かった。この行動に臆していた刺客たちも続いた。鎌足もその席に列していたから何らかの行動を取ったことだろう。
「この私に、何の咎があるというのか」と、入鹿は皇極天皇に迫った。
「一体何事なのか」と皇極天皇は慌てふためき、息子の中大兄皇子を詰問した。中大兄皇子は、
「蘇我入鹿は王族を滅ぼして王位を奪おうとしています。入鹿に奪われてなるものですか」と答えている。
すでに入鹿は切られており、言葉を失った皇極天皇は玉座を離れたという。
皇極天皇の目前で繰り広げられた暗殺劇は、乙巳の変と呼ばれることになる古代歴史上もっとも衝撃的なクーデターであった。そして、皇極天皇はその目撃者であった。
* * *
宝王女、後の皇極天皇は、推古二年(594)に誕生した。
敏達天皇の孫にあたる茅渟王(チヌノオオキミ)の第一王女、母は、欽明天皇の孫である吉備姫王(キビツヒメノオオキミ)である。同父母弟に軽王がいる。
その出自は、歴とした皇族に繋がる王女ではあるが、皇族としてはかなり傍流である。
何歳の頃か確認出来ないが、高向王(タカムクノオオキミ)に嫁ぎ、漢皇子(アヤノミコ)を生んでいる。
この高向王という人物は、用明天皇の孫ということであるが、その父母の名前は全く伝えられていない。父は用明天皇の子ということになるので、厩戸皇子(聖徳太子と呼ばれることになる人物)と兄弟になるが、彼以上に謎多く全く不明である。
同じように、漢皇子についてもその後の消息が伝えられていないが、わざわざ記録に残されていることを考えると、この皇子はもしかすると歴史の鍵を握っているのかもしれない。
その後、宝王女は田村皇子(後の舒明天皇)に嫁ぐ。前夫である高向王は死去していたのか、離縁した上での再婚なのかは伝えられておらず、高向王の足跡は消えてしまっている。
そして、舒明二年(630)一月、舒明天皇の皇后に立てられる。三十七歳の頃である。皇極天皇は宝皇女と呼ばれることも多いが、それは皇后になってからのことである。
舒明天皇との間には、中大兄皇子、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子の三人の子を儲ける。奇しくも、壮大な歴史ドラマの主役二人の生みの親でもあるのだ。
やがて、宝王女は夫の後を継ぎ第三十五代皇極天皇となる。舒明天皇が即位したことも意外であったが、後継可能な有力皇子がいながら皇極天皇が即位したことも意外な流れである。おそらく、蘇我一族の思惑と強力な後見のもとでの即位であったことは違いあるまい。
しかし、その有力な後見者蘇我入鹿が討たれるという事件が起こってしまったのである。
中大兄皇子と中臣鎌足を中心とした乙巳の変(イッシノヘン・大化の改新と呼ばれることもある)は成功し、一時は抵抗の姿勢を見せた入鹿の父蝦夷も、翌日には重要な書類や珍宝を焼いたうえで自害した。ここに絶大な勢力を握っていた蘇我本家は滅亡した。
次期天皇の最有力候補者である古人大兄皇子は入鹿殺害現場から逃げ帰ったが、この皇子も暗殺の対象者になっていた可能性も高い。
皇極天皇は譲位を表明し、中大兄皇子に即位を促した。古人大兄皇子は蘇我氏という支援者を失った上は即位など望むべくもなく、早々にその意思のないことを表明し出家してしまった。
クーデターの首謀者であり、舒明・皇極の皇子である中大兄皇子が即位するのが当然であるが、彼は中臣鎌足の助言を受けて辞退した。おそらく実態は、蘇我本家を滅亡させたとはいえその勢力は侮りがたく、中大兄皇子が表面に立つことは困難だったと推測できる。
結局皇極天皇の弟の軽王が即位することになる。第三十六代孝徳天皇である。
孝徳天皇は、中大兄皇子を皇太子とし、これまでの大臣・大連にかわり左右大臣を定め、鎌足も内臣という要職に就いた。
元号を大化と改め、都を飛鳥から難波に移した。そして、舒明天皇以来の改革を進めて行った。大化の改新という言葉がよく使われるが、大化の元号は五年までであるが、その間にどれほどの革新的な制度改革があったかはよく分からないが、大化の改新を進めた天皇はこの孝徳天皇であった。
もちろん、皇太子である中大兄皇子や内臣の鎌足も参画したことであろうが、彼らが主導したということは納得し難い。
この間、中大兄皇子と鎌足は、自己勢力の拡充に心を砕いていた。そして、敵対勢力を狙い撃ちに滅ぼして行った。
古人大兄皇子は謀反の疑いで一族もろとも滅ぼされ、大化五年に左大臣安倍内麻呂が死去すると、数日後には右大臣についていた蘇我倉山田臣石川麻呂まで謀反の疑いで滅ぼしている。
このように次々と孝徳天皇の側近を奪っていった中大兄皇子は、最後は天皇に対して飛鳥への遷都を迫った。そのことだけではないようだが、孝徳天皇と中大兄皇子との対立は修復不能となり、白雉四年(653)、中大兄皇子は母の皇極上皇、皇后の間人皇女、弟とされる大海人皇子らを引き連れて飛鳥に戻ってしまった。公卿百官もこれに従ったという。
皇極上皇が積極的に中大兄皇子に従ったかといえば、強引に連れ去られた可能性も否定できない。
残された孝徳天皇は、激怒し、そして悲嘆のうちに翌年に世を去った。
そして、その後を継ぐのは、再び皇極上皇であった。重祚して第三十七代斉明天皇である。
この時斉明天皇は六十二歳、中大兄皇子は三十歳である。それでなお中大兄皇子が即位しなかったのには、何か特別の狙いがあったのか。それともあまりにも強引な手法が多くの抵抗勢力を生み出し、なお冷却期間を必要としていたのか。
斉明天皇は六年半玉座にあり、斉明七年七月、六十八歳で崩御した。
その跡は中大兄皇子が即位する。天智天皇の誕生である。その後、天智天皇は都を近江に移しているが、これも様々なことを考えさせてくれる。
皇極、斉明と二度にわたって天皇の地位にあった宝王女、その歴史上の役割は何であったのか。
中大兄皇子・中臣鎌足という稀代の策士たちの傀儡であったのか、それとも、天智、天武という英雄を舞台に立たせ、古代日本の礎を固めさせるものであったのか。
謎多い時代の、興味尽きない女帝であったことだけは確かである。
( 完 )
事件の目撃者
皇極四年(645)六月十二日に事件は起こった。
蘇我氏から権力を奪い取るためには、尋常の手段では及ばないと覚悟した中大兄皇子と中臣鎌足は、綿密に準備を固め機会を狙っていた。
蘇我本家の当主が温厚な蝦夷が病のため引退し、その子入鹿が大臣となったが、まだ若く粗暴な行動もあって、諸豪族や蘇我一族の中にも不満を漏らす者が出てきていた。それら勢力と好を深めて行ったが、何よりも蘇我一族の中の有力者である蘇我倉山田臣石川麻呂を陣営に引き入れることが出来たのが大きかった。
継体天皇に始まる混乱の状態は、推古天皇の御代になって安定しその治世は三十六年に及んだ。
推古天皇崩御後は、後継者が定められていなかったことや女帝の在位期間が長く後継適任者が孫の世代になっていたこともあって、豪族間の意見の対立はあったようである。
その中で有力者とされたのは、推古天皇の夫であった敏達天皇の孫にあたる田村皇子と推古天皇の兄であった用明天皇の孫にあたる山背大兄皇子の二人であった。結局蘇我氏が強く推す田村皇子が即位した。舒明天皇である。
舒明天皇の御代もおよそ十三年続き、推古・舒明両帝のほぼ五十年間は表面的には平穏な治世となった。
しかし、その政権は、蘇我氏の強力な後ろ楯によって保たれていたものであって、蘇我氏に反感を持つ勢力もじっと機会を狙っていた。
そして、舒明天皇が崩御すると有力な皇子が複数いるなかで、皇后である宝女王が即位することになる。皇極天皇である。
この時も、山背大兄皇子や舒明天皇の第一皇子である古人大兄皇子が有力候補と考えられていたが、蘇我氏の強い後押しで女帝誕生となるのである。
考えられることは、推古朝時代の平安を求める声や、蘇我氏勢力温存のために都合がよいなどが考えられるが、宝王女が舒明天皇の皇后になったことや、蘇我氏との血縁関係が薄いにもかかわらず天皇に押されたことは一つの謎ではある。
皇極二年(643)十一月、有力な天皇候補である山背大兄皇子は蘇我入鹿に攻め滅ぼされる。用明天皇の孫であり、厩戸皇子(聖徳太子)を父に持つ皇子は、「我が軍を動かし、入鹿と戦えば勝つのは分かりきっている。しかし、我が身のために民衆を傷つけたくない。よって此の身を入鹿に与えるのだ」という、何とも理解し難い言葉を残して自害、一族全員も従ったという。
この何とも理解し難い事変により、上宮王家と称せられる聖徳太子の後継は全滅してしまう。
そして、この事件を明日は我が身と感じた人物こそが、舒明天皇と皇極天皇との子である中大兄皇子であった。
中臣鎌足という味方を得た中大兄皇子は慎重に味方陣営の増強を計り、好機を待った。
やがて、絶好の機会がやってきた。
高句麗・百済・新羅三国からの使者が来朝し、朝廷において三国の調(ミツギ・献上物)の儀式が行われることになったからである。その席には、大臣である入鹿は必ず出席するし、味方となった石川麻呂も出席することになっている。天皇の御前であり、入鹿といえど護衛の兵士を側に置くことなど出来ない。
そして、皇極四年六月十二日の朝となった。
皇極天皇は朝廷の正殿に出御し、古人大兄皇子が側に控え、入鹿はその次の座に着く。そこで石川麻呂が上表文を読み上げ始める。
中大兄皇子は宮中の警備にあたっている靫負の司(ユゲイノツカサ)に命じて宮廷の諸門を閉めさせた。後は刺客に命じている者どもの首尾だけである。
石川麻呂が上表文を読み上げているうちに刺客が入鹿に切りかかる手筈になっていたが、終りに近づいてもその姿が見えない。石川麻呂の声が震え、入鹿は常とは違う気配を感じたかの様子を見せた。
中大兄皇子は、手違いか陰謀の露見かと懸念を感じたが、同時に自ら長槍をかざして入鹿に向かった。この行動に臆していた刺客たちも続いた。鎌足もその席に列していたから何らかの行動を取ったことだろう。
「この私に、何の咎があるというのか」と、入鹿は皇極天皇に迫った。
「一体何事なのか」と皇極天皇は慌てふためき、息子の中大兄皇子を詰問した。中大兄皇子は、
「蘇我入鹿は王族を滅ぼして王位を奪おうとしています。入鹿に奪われてなるものですか」と答えている。
すでに入鹿は切られており、言葉を失った皇極天皇は玉座を離れたという。
皇極天皇の目前で繰り広げられた暗殺劇は、乙巳の変と呼ばれることになる古代歴史上もっとも衝撃的なクーデターであった。そして、皇極天皇はその目撃者であった。
* * *
宝王女、後の皇極天皇は、推古二年(594)に誕生した。
敏達天皇の孫にあたる茅渟王(チヌノオオキミ)の第一王女、母は、欽明天皇の孫である吉備姫王(キビツヒメノオオキミ)である。同父母弟に軽王がいる。
その出自は、歴とした皇族に繋がる王女ではあるが、皇族としてはかなり傍流である。
何歳の頃か確認出来ないが、高向王(タカムクノオオキミ)に嫁ぎ、漢皇子(アヤノミコ)を生んでいる。
この高向王という人物は、用明天皇の孫ということであるが、その父母の名前は全く伝えられていない。父は用明天皇の子ということになるので、厩戸皇子(聖徳太子と呼ばれることになる人物)と兄弟になるが、彼以上に謎多く全く不明である。
同じように、漢皇子についてもその後の消息が伝えられていないが、わざわざ記録に残されていることを考えると、この皇子はもしかすると歴史の鍵を握っているのかもしれない。
その後、宝王女は田村皇子(後の舒明天皇)に嫁ぐ。前夫である高向王は死去していたのか、離縁した上での再婚なのかは伝えられておらず、高向王の足跡は消えてしまっている。
そして、舒明二年(630)一月、舒明天皇の皇后に立てられる。三十七歳の頃である。皇極天皇は宝皇女と呼ばれることも多いが、それは皇后になってからのことである。
舒明天皇との間には、中大兄皇子、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子の三人の子を儲ける。奇しくも、壮大な歴史ドラマの主役二人の生みの親でもあるのだ。
やがて、宝王女は夫の後を継ぎ第三十五代皇極天皇となる。舒明天皇が即位したことも意外であったが、後継可能な有力皇子がいながら皇極天皇が即位したことも意外な流れである。おそらく、蘇我一族の思惑と強力な後見のもとでの即位であったことは違いあるまい。
しかし、その有力な後見者蘇我入鹿が討たれるという事件が起こってしまったのである。
中大兄皇子と中臣鎌足を中心とした乙巳の変(イッシノヘン・大化の改新と呼ばれることもある)は成功し、一時は抵抗の姿勢を見せた入鹿の父蝦夷も、翌日には重要な書類や珍宝を焼いたうえで自害した。ここに絶大な勢力を握っていた蘇我本家は滅亡した。
次期天皇の最有力候補者である古人大兄皇子は入鹿殺害現場から逃げ帰ったが、この皇子も暗殺の対象者になっていた可能性も高い。
皇極天皇は譲位を表明し、中大兄皇子に即位を促した。古人大兄皇子は蘇我氏という支援者を失った上は即位など望むべくもなく、早々にその意思のないことを表明し出家してしまった。
クーデターの首謀者であり、舒明・皇極の皇子である中大兄皇子が即位するのが当然であるが、彼は中臣鎌足の助言を受けて辞退した。おそらく実態は、蘇我本家を滅亡させたとはいえその勢力は侮りがたく、中大兄皇子が表面に立つことは困難だったと推測できる。
結局皇極天皇の弟の軽王が即位することになる。第三十六代孝徳天皇である。
孝徳天皇は、中大兄皇子を皇太子とし、これまでの大臣・大連にかわり左右大臣を定め、鎌足も内臣という要職に就いた。
元号を大化と改め、都を飛鳥から難波に移した。そして、舒明天皇以来の改革を進めて行った。大化の改新という言葉がよく使われるが、大化の元号は五年までであるが、その間にどれほどの革新的な制度改革があったかはよく分からないが、大化の改新を進めた天皇はこの孝徳天皇であった。
もちろん、皇太子である中大兄皇子や内臣の鎌足も参画したことであろうが、彼らが主導したということは納得し難い。
この間、中大兄皇子と鎌足は、自己勢力の拡充に心を砕いていた。そして、敵対勢力を狙い撃ちに滅ぼして行った。
古人大兄皇子は謀反の疑いで一族もろとも滅ぼされ、大化五年に左大臣安倍内麻呂が死去すると、数日後には右大臣についていた蘇我倉山田臣石川麻呂まで謀反の疑いで滅ぼしている。
このように次々と孝徳天皇の側近を奪っていった中大兄皇子は、最後は天皇に対して飛鳥への遷都を迫った。そのことだけではないようだが、孝徳天皇と中大兄皇子との対立は修復不能となり、白雉四年(653)、中大兄皇子は母の皇極上皇、皇后の間人皇女、弟とされる大海人皇子らを引き連れて飛鳥に戻ってしまった。公卿百官もこれに従ったという。
皇極上皇が積極的に中大兄皇子に従ったかといえば、強引に連れ去られた可能性も否定できない。
残された孝徳天皇は、激怒し、そして悲嘆のうちに翌年に世を去った。
そして、その後を継ぐのは、再び皇極上皇であった。重祚して第三十七代斉明天皇である。
この時斉明天皇は六十二歳、中大兄皇子は三十歳である。それでなお中大兄皇子が即位しなかったのには、何か特別の狙いがあったのか。それともあまりにも強引な手法が多くの抵抗勢力を生み出し、なお冷却期間を必要としていたのか。
斉明天皇は六年半玉座にあり、斉明七年七月、六十八歳で崩御した。
その跡は中大兄皇子が即位する。天智天皇の誕生である。その後、天智天皇は都を近江に移しているが、これも様々なことを考えさせてくれる。
皇極、斉明と二度にわたって天皇の地位にあった宝王女、その歴史上の役割は何であったのか。
中大兄皇子・中臣鎌足という稀代の策士たちの傀儡であったのか、それとも、天智、天武という英雄を舞台に立たせ、古代日本の礎を固めさせるものであったのか。
謎多い時代の、興味尽きない女帝であったことだけは確かである。
( 完 )