運命紀行
いざ子供早く日本へ
『 いざ子供早く日本(ヤマト)へ大伴の 御津(ミツ)の浜松待ち恋ひぬらむ 』
( さあ皆さん、早く日本へ帰りましょう、大伴の御津の浜松も 私たちの帰りを
待ち焦がれているでしょう。 なお、大伴の御津とは難波の湊のことで、当時
大伴氏が治めていた地であった )
遣唐使の一行が務めを終えて懐かしい日本の湊に近づいた時、山上憶良が詠んだとされる やまと歌である。
山上憶良が歴史書に登場してくるのは、大宝元年(701)に遣唐少録として記録されているのが最初である。
この時四十二歳であるが、まだ無位の状態であった。
憶良の生年は斉明六年(660)と考えられているが、この年齢で貴族でもない人物の生年が明らかなことは珍しいが、それは、彼が書き残した漢文の中に生年が記されているからである。もっとも、それ以外の傍証は無いようであるが、それを信じても特に不合理なことはない。
遣唐使船が派遣されたのは翌年のことであり、帰国したのは慶雲元年(704)のことであるので、冒頭のやまと歌はその時の船中で詠まれたものらしい。
この後も官職にあったと考えられ、和銅七年(714)に正六位から従五位に昇り貴族の仲間入りをしている。
霊亀二年(716)、伯耆の守に任じられ、養老五年(721)には東宮(首皇子、後の聖武天皇)侍講となり、この頃に「類聚歌林」を著作または編纂したと伝えられている。この「類聚歌林」は歌集と思われるが現存していない。
山上憶良が遣唐使として海を渡ったのが、自身が書き残しているように四十歳を過ぎてのことであるとすれば、年齢的にはかなり遅い出世といえる。
ただ、当時、遣唐使の一員に選ばれるのは、それなりの実績と将来性を期待された人物に限られていたはずである。憶良とて例外ではなく、歴史書には記録されていなくとも、若くからその才能は高く評価され、やまと歌の上手として知られていたのかもしれないが、万葉集の中に軌跡を求める以外に方法がない。
出自についても、山上という名字からして、有力豪族の流れではないと考えられ、百済滅亡により渡来したという説が根強いが、明確な根拠があるわけでもない。もし、若くしてやまと歌を詠んでいたとすれば、この説にも無理が生じる。
神亀二年(725)、六十六歳の憶良は筑前守に任じられ九州に向かう。
ここで、同じ頃太宰帥となった大伴旅人と親交を深め、作歌活動を強める。憶良が数多くの歌を詠んだのはこの時期で、いわゆる筑紫花壇を形成し今日の我々に感動的な作品を数多く残している。
万葉集に採録されている作品は、長歌約十首、短歌五十首とも八十首ともいわれ、漢詩や漢文も複数収められている。作品数の確定が難しいのは、憶良の作品の持つ独創性があまりにも強く、それがかえって研究者の意見を分けてしまうためらしい。
天平五年(733)六月、『 老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌 』という詞書きを残しているが、この頃が最期であったらしい。
* * *
万葉の歌人となれば、我々とは遠い存在に感じられる。
実際に千数百年の時を経ているし、伝えられている文献も漢文か万葉仮名によるものである。当時の人々の生活の断片を懸命に詠んだと思われる やまと歌が数多く残されているが、どのように声に出して歌ったのかは、想像することさえ困難である。
しかし、その中にも、現代社会と同じように、あるいはそれ以上に、まるで形振り構わず歌い上げたとさえ思われるほど純朴に、妻を思い、子供らを思い、家庭第一を やまと歌として詠んだ歌人がいる。
それが、山上憶良である。
憶良が万葉集を通して現代に生きる我々に残してくれた やまと歌の幾つかを味わってみよう。
(憶良が筑紫に赴任していた頃、大宰府での宴席を途中で辞する時の歌らしい。すでに六十八歳の頃と思われる)
『 憶良らは 今は罷(マカ)らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ 』
『 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(シノ)はゆ いづくより 来りしものぞ
眼交(マナカヒ)に もとなかかりて 安眠(ヤスイ)し 寝(ナ)さぬ 』
( 眼交に もとなかかりて・・・子供の面影が目の前にちらついて )
『 銀(シロガネ)も金(クガネ)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも 』
(これは、幼児を亡くした親の懸命の祈りなのでしょうか)
『 若ければ 道行き知らじ 賄(マヒ)はせむ 下方(シタヘ)の使 負いて通らせ 』
( 幼い子供なので 旅の仕方も知らないことでしょう 贈り物は私らが致します
どうぞ黄泉(ヨミ)の使いよ 背負って通してやってください )
『 布施置きて 我は祈(コ)ひ祷(ノ)む あざむかず 直(タダ)に率(イ)行きて 天道(アマヂ)知らしめ 』
( 布施を捧げて 私はお願いいたします この子を惑わさないで 真っすぐに
連れて行って 天への道を教えてやってください )
(ひたすら家族を思う やまと歌です)
『 父母を 見れば貴し 妻子(メコ)見れば めぐし愛(ウツク)し 世の中は かくぞことわり
もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(ウケクツ)を 脱き棄(ツ)るごとく
踏み脱きて 行くちふ人は 石木(イワキ)より 成りてし人か 汝(ナ)が名告(ノ)らさね
天(アメ)へ行かば 汝(ナ)がまにまに 地(ツチ)ならば 大君います この照らす
日月(ヒツキ)の下は 天雲(アマクモ)の 向伏(ムカブ)す極み 蟾蜍(タニグク)の さ渡る極み
聞こし食(ヲ)す 国のまほらぞ かにかくに 欲(ホ)しきまにまに しかにはあらじか 』
( 父母を見れば尊い 妻子を見れば可愛くいとしい 世の中の道理はそのようなものだ
モチにかかった鳥のように 家族への愛情は断ち難い 行く末も分からない
我々なのだから 穴のあいた靴を脱ぎ棄てるように 父母や妻子を 棄てて行く
という人は 石や木から生まれた人なのか お前の名を告げよ 天へ行ったなら
お前の好きなようにすればよい この地上にいるのなら 大君がいらっしゃる
この太陽と月が照らす下は 空にかかる雲が垂れる果てまで ヒキガエルが
這いまわる地の果てまで 大君が治められる すばらしい国土なのだ
どれもこれも思いのままにしようというのか そのようにはいかないものだよ )
惑(マド)える情(ココロ)を反(カヘ)さしむ歌一首
(反歌)
『 久かたの 天道は遠し 黙々(ナホナホ)に 家に帰りて 業(ナリ)を為まさに 』
( 天への道は遠い おとなしく家に帰って 家業に励みなさい )
(山上憶良 沈痾(ヤミコヤ)る時の歌一首)
『 士(ヲノコ)やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして 』
( 男子たるもの 空しく一生を終えてよいのか 後々の世まで 語り継がれるような
功名を残さないままで )
最後の歌は、山上憶良の最期に近い頃の作品と考えられる。享年は七十四歳か。
立身出世など超越したかの やまと歌を数多く詠んでいる憶良が、最後にこのような歌を残していることに、むしろ親しみのようなものが感じられる。
現代に生きる我々も、思いのままに行くことなど少なく、自虐の念に襲われることも少なくない。
そんな時、遥か千数百年もの昔に、宮仕えと家族への恩愛に心を痛めていた歌人がいたことに、なぜか救われる思いがするのである。
( 完 )
いざ子供早く日本へ
『 いざ子供早く日本(ヤマト)へ大伴の 御津(ミツ)の浜松待ち恋ひぬらむ 』
( さあ皆さん、早く日本へ帰りましょう、大伴の御津の浜松も 私たちの帰りを
待ち焦がれているでしょう。 なお、大伴の御津とは難波の湊のことで、当時
大伴氏が治めていた地であった )
遣唐使の一行が務めを終えて懐かしい日本の湊に近づいた時、山上憶良が詠んだとされる やまと歌である。
山上憶良が歴史書に登場してくるのは、大宝元年(701)に遣唐少録として記録されているのが最初である。
この時四十二歳であるが、まだ無位の状態であった。
憶良の生年は斉明六年(660)と考えられているが、この年齢で貴族でもない人物の生年が明らかなことは珍しいが、それは、彼が書き残した漢文の中に生年が記されているからである。もっとも、それ以外の傍証は無いようであるが、それを信じても特に不合理なことはない。
遣唐使船が派遣されたのは翌年のことであり、帰国したのは慶雲元年(704)のことであるので、冒頭のやまと歌はその時の船中で詠まれたものらしい。
この後も官職にあったと考えられ、和銅七年(714)に正六位から従五位に昇り貴族の仲間入りをしている。
霊亀二年(716)、伯耆の守に任じられ、養老五年(721)には東宮(首皇子、後の聖武天皇)侍講となり、この頃に「類聚歌林」を著作または編纂したと伝えられている。この「類聚歌林」は歌集と思われるが現存していない。
山上憶良が遣唐使として海を渡ったのが、自身が書き残しているように四十歳を過ぎてのことであるとすれば、年齢的にはかなり遅い出世といえる。
ただ、当時、遣唐使の一員に選ばれるのは、それなりの実績と将来性を期待された人物に限られていたはずである。憶良とて例外ではなく、歴史書には記録されていなくとも、若くからその才能は高く評価され、やまと歌の上手として知られていたのかもしれないが、万葉集の中に軌跡を求める以外に方法がない。
出自についても、山上という名字からして、有力豪族の流れではないと考えられ、百済滅亡により渡来したという説が根強いが、明確な根拠があるわけでもない。もし、若くしてやまと歌を詠んでいたとすれば、この説にも無理が生じる。
神亀二年(725)、六十六歳の憶良は筑前守に任じられ九州に向かう。
ここで、同じ頃太宰帥となった大伴旅人と親交を深め、作歌活動を強める。憶良が数多くの歌を詠んだのはこの時期で、いわゆる筑紫花壇を形成し今日の我々に感動的な作品を数多く残している。
万葉集に採録されている作品は、長歌約十首、短歌五十首とも八十首ともいわれ、漢詩や漢文も複数収められている。作品数の確定が難しいのは、憶良の作品の持つ独創性があまりにも強く、それがかえって研究者の意見を分けてしまうためらしい。
天平五年(733)六月、『 老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌 』という詞書きを残しているが、この頃が最期であったらしい。
* * *
万葉の歌人となれば、我々とは遠い存在に感じられる。
実際に千数百年の時を経ているし、伝えられている文献も漢文か万葉仮名によるものである。当時の人々の生活の断片を懸命に詠んだと思われる やまと歌が数多く残されているが、どのように声に出して歌ったのかは、想像することさえ困難である。
しかし、その中にも、現代社会と同じように、あるいはそれ以上に、まるで形振り構わず歌い上げたとさえ思われるほど純朴に、妻を思い、子供らを思い、家庭第一を やまと歌として詠んだ歌人がいる。
それが、山上憶良である。
憶良が万葉集を通して現代に生きる我々に残してくれた やまと歌の幾つかを味わってみよう。
(憶良が筑紫に赴任していた頃、大宰府での宴席を途中で辞する時の歌らしい。すでに六十八歳の頃と思われる)
『 憶良らは 今は罷(マカ)らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ 』
『 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(シノ)はゆ いづくより 来りしものぞ
眼交(マナカヒ)に もとなかかりて 安眠(ヤスイ)し 寝(ナ)さぬ 』
( 眼交に もとなかかりて・・・子供の面影が目の前にちらついて )
『 銀(シロガネ)も金(クガネ)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも 』
(これは、幼児を亡くした親の懸命の祈りなのでしょうか)
『 若ければ 道行き知らじ 賄(マヒ)はせむ 下方(シタヘ)の使 負いて通らせ 』
( 幼い子供なので 旅の仕方も知らないことでしょう 贈り物は私らが致します
どうぞ黄泉(ヨミ)の使いよ 背負って通してやってください )
『 布施置きて 我は祈(コ)ひ祷(ノ)む あざむかず 直(タダ)に率(イ)行きて 天道(アマヂ)知らしめ 』
( 布施を捧げて 私はお願いいたします この子を惑わさないで 真っすぐに
連れて行って 天への道を教えてやってください )
(ひたすら家族を思う やまと歌です)
『 父母を 見れば貴し 妻子(メコ)見れば めぐし愛(ウツク)し 世の中は かくぞことわり
もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(ウケクツ)を 脱き棄(ツ)るごとく
踏み脱きて 行くちふ人は 石木(イワキ)より 成りてし人か 汝(ナ)が名告(ノ)らさね
天(アメ)へ行かば 汝(ナ)がまにまに 地(ツチ)ならば 大君います この照らす
日月(ヒツキ)の下は 天雲(アマクモ)の 向伏(ムカブ)す極み 蟾蜍(タニグク)の さ渡る極み
聞こし食(ヲ)す 国のまほらぞ かにかくに 欲(ホ)しきまにまに しかにはあらじか 』
( 父母を見れば尊い 妻子を見れば可愛くいとしい 世の中の道理はそのようなものだ
モチにかかった鳥のように 家族への愛情は断ち難い 行く末も分からない
我々なのだから 穴のあいた靴を脱ぎ棄てるように 父母や妻子を 棄てて行く
という人は 石や木から生まれた人なのか お前の名を告げよ 天へ行ったなら
お前の好きなようにすればよい この地上にいるのなら 大君がいらっしゃる
この太陽と月が照らす下は 空にかかる雲が垂れる果てまで ヒキガエルが
這いまわる地の果てまで 大君が治められる すばらしい国土なのだ
どれもこれも思いのままにしようというのか そのようにはいかないものだよ )
惑(マド)える情(ココロ)を反(カヘ)さしむ歌一首
(反歌)
『 久かたの 天道は遠し 黙々(ナホナホ)に 家に帰りて 業(ナリ)を為まさに 』
( 天への道は遠い おとなしく家に帰って 家業に励みなさい )
(山上憶良 沈痾(ヤミコヤ)る時の歌一首)
『 士(ヲノコ)やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして 』
( 男子たるもの 空しく一生を終えてよいのか 後々の世まで 語り継がれるような
功名を残さないままで )
最後の歌は、山上憶良の最期に近い頃の作品と考えられる。享年は七十四歳か。
立身出世など超越したかの やまと歌を数多く詠んでいる憶良が、最後にこのような歌を残していることに、むしろ親しみのようなものが感じられる。
現代に生きる我々も、思いのままに行くことなど少なく、自虐の念に襲われることも少なくない。
そんな時、遥か千数百年もの昔に、宮仕えと家族への恩愛に心を痛めていた歌人がいたことに、なぜか救われる思いがするのである。
( 完 )