運命紀行
北朝を護る
「観応の擾乱」と呼ばれる歴史上の事件がある。
大まかにいえば、南北朝時代とも呼ばれる頃、北朝の元号である観応年間に起こった足利政権内の内紛を指すが、西暦でいえば(1349-1352)間の三年ほどの期間ということになる。
しかし、足利政権の基盤が激しく揺れ動いていたのは、これより遥かに長い期間であって、「観応の擾乱(カンノウノジョウラン)」という括りだけで事件を把握するのは困難といえる。
室町幕府の成立は、北朝暦の暦応元年(1338)に足利尊氏が征夷大将軍に就任したことをもってするのが一般的のようであるが、実体は、敵対勢力としての南朝政権があり、各地の守護大名にも足利将軍の麾下にあるとはいえない勢力も少なくなかった。
足利氏が天皇家も含めた諸豪族の中で最も強大な陣営であったことは確かだが、支援する諸豪族に支えられた上での足利将軍であったといえる。
そして、この「観応の擾乱」を乗り越えることが室町幕府を安定政権へ導く第一歩と考えられるので、この擾乱に至るまでの状況を簡単に見てみる。
鎌倉の北条政権が滅亡したあと尊氏率いる足利氏が武家の頂点に立つが、後醍醐も天皇に復帰し建武の新政と呼ばれる天皇親政の実現を目指していた。
後醍醐にすれば、足利尊氏といえども新政権における軍事部門の一大将程度の位置付けを考えていたと思われるが、平清盛に始まる武家勢力台頭はすでに天皇の権威だけでは御することなど出来なくなっていた。
それが時代の流れというもので、公家や寺社勢力を中心に置く新政権は、早々と瓦解する。
後醍醐勢力を京都から追い払い、実権を手中にした当初の足利政権は、尊氏の執事である高師直が軍事部門を統括し、弟である直義(タダヨシ)が政務を担当する二元政治的な体制を取っていた。
直義は、鎌倉幕府における執権政治のような体制を目指し、訴訟などを通して有力御家人衆や公家や寺社といった既存の権益を擁護する色彩を強めていった。
一方の師直は、武士団を統括して南朝方と対抗し、その戦いを通じて尊氏を頂点とする武家政権の確立を目指していたようである。
この両者の目指す方向の差異が、足利氏を取り巻く武士団や、御家人衆・地方豪族ばかりでなく、公家や寺社勢力をも巻き込んで、それぞれの利害やライバル関係なども複雑に絡みながら二つの勢力に分割されていった。
南北朝初期の頃は、戦線の主力となる師直陣営が有力であったが、楠木正成・北畠顕家・新田義貞といった有力武将を失った南朝方の戦力は激減し、さらに主柱である後醍醐が没すると南朝は逼塞状態となり、畿内は平穏になっていった。
皮肉なことに、そのため師直の活躍の場は失われ、逆に政道を預る直義側が表舞台に立つようになり、さらには訴訟において師直派に不利な決済が目立つようになり、不満が膨らんでいた。
貞和三年(1347)に入ると、楠木正成の子正行が蜂起し、南朝方は攻勢に転じた。
九月に直義派の細川顕氏らが討伐に向かうも敗北、十一月には京都に逃げ帰ってしまった。
代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌年一月に四條畷の戦いにおいて正行を討ち取り、南朝軍を追って吉野まで攻め込み陥落させた。後村上天皇ら南朝方はさらに奥地の賀名生に落ち延びた。
この結果、政権内の発言力は高師直派が強くなり、落ち目となった直義派には不満がたまっていった。
両派の対立が避け難い状態になっていく中、尊氏は政治的な動きを見せず、隠居状態であったと伝えられている。
貞和五年(1349)閏六月、直義は尊氏に働きかけ、師直の執事職を罷免させることに成功する。
同年八月、危機感を抱いた師直は、河内から弟師泰を呼び寄せ、大軍で直義を討とうとした。直義は辛くも尊氏邸に逃げ込んだが、高兄弟の軍勢は、尊氏邸を包囲して直義らの引き渡しを求めた。師直に政権を奪取するまでの考えはなかったと思われるが、クーデター状態となる。観応の擾乱の始まりである。
この騒動は、禅僧夢想疎石の仲介もあって、直義派の武将らの配流、直義は出家して政権から離れることで決着をみた。
直義に代わり、鎌倉を統治していた尊氏の嫡男義詮が上洛して政務を担当することとなり、鎌倉には義詮の弟基氏が下向し、初代鎌倉公方として関東の統治を任されたのである。
十一月に義詮が京都に入り、十二月に直義が出家して、一連の騒動は終着するかにみえたが、流罪となっていた直義派の上杉重能・畠山直宗が暗殺されたため再び両派の緊張が高まった。
長門探題に任命されていた足利直冬(タダフユ・尊氏の実子で直義の養子)は、養父直義に味方すべく上洛を計ったが高師直軍に阻まれ九州に逃げていたが、その地で大宰府の少弐氏や南朝とも協力関係を築き上げていった。
翌貞和六年(1350)、北朝は観応と改元したが、この頃から南朝方の豪族たちは直冬を立てて挙兵、勢力は拡大していった。十月には直冬討伐のため、ついに尊氏自らが出陣し備前まで進んだ。
ところが、将軍出陣という混乱をついて直義は京都を脱出、河内石川城に入り諸豪族を味方につけていった。
尊氏は、直冬討伐を中断し軍を返し高師直兄弟の軍と合流する。この間に、北朝の光厳天皇に直義追討令を発布させたが、それを知った直義は南朝方に降り対抗姿勢を取った。
観応二年(1351)一月、直義軍は京都に侵攻、留守を守っていた義詮は抗することが出来ず備前の尊氏のもとに逃れた。
二月に尊氏軍は京都に向かい進軍するが、播磨の各地で直義側の軍勢に次々と敗れた。南朝を背景とした直義軍優勢が鮮明となり、尊氏は直義との和睦を図った。
和睦の条件には高兄弟の助命が条件となっていたとされるが、京都に護送される途中の摂津武庫川で二月二十六日に高一族は謀殺されている。それにもかかわらず、そのまま和議が成立しているのをみると、尊氏は暗黙の了解を与えていたのかもしれない。
長年の宿敵を倒した直義は政務に返り咲き、義詮の補佐に就き、九州の直冬は九州探題に就いた。
しかし、このような形の平安が続くはずもなく、今度は尊氏と直義の対立が高まっていった。
政権の実権を握ろうとする直義に対して、尊氏は将軍としての権限のもとに恩賞面での差別や、直義陣営の豪族の引き抜きを図った。
身の危険を察知した直義は、自派の有力豪族である斯波・山名氏らと共に北陸に逃れ、信濃を経由して鎌倉に入った。
直義勢力を京都から追い払ったとはいえ、直義側は関東・北陸・山陰を押さえており、九州では直冬が勢力を増していた。このうえ南朝との連携がなれば、再び圧倒される懸念が大きくなっていた。
尊氏は、直義と南朝を分断させるべく、佐々木導誉らの進言を受けて南朝に和議を申し入れ、今度は南朝から直義・直冬ら追討の綸旨を得ようと画策した。
南朝方は、三種の神器の引き渡しや政権を返上することなど北朝に厳しい条件を付けたが、尊氏は簡単に受け入れ南朝に降伏することによって綸旨を得た。
この和睦により、北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、年号も北朝の「観応二年」が廃され南朝の「正平六年」に統一された。ここに南北王朝は一本化されたことになり、これを「正平一統」と呼ぶ。
尊氏は、屈辱的とも見えるこれらの交渉を義詮に任せ、自身は直義追討に出陣した。窮地に追い込まれ形振り構わぬ行動を取っているかに見える尊氏だが、さすがにその人望は高く、戦いは一方的となり、翌正平七年(観応三年・1352)一月には鎌倉を落とした。
捕われた直義は幽閉中の二月に病死した。死因について、「太平記」は毒殺と伝えている。
一方、北朝方を屈服させたと勘違いしたらしい南朝方は、京都や鎌倉から足利勢力の排除に動いた。
建武の新政後に奪われた領地や役職の復旧を進め、正平七年閏二月六日には、尊氏の征夷大将軍職を廃し、宗良親王を就任させた。さらに、旧直義派の豪族の多くが宗良親王を奉じて鎌倉に攻め入り、尊氏は武蔵国に逃れている。
同じく閏二月十九日には南朝軍が京都に進軍し、義詮を近江に追い払った。勢いづいた南朝軍は、北朝の光厳・光明・崇光の三人の上皇と直仁親王を捕らえ南朝の本拠地賀名生に連れ去ったのである。
近江に逃れた義詮は佐々木導誉ら各地の豪族を集結させ、逆襲に転じ三月十五日には京都を奪還した。さらに、京都に移るべく山城の男山八幡に仮御所を移していた南朝の後村上天皇らを包囲した。この戦いは二カ月にも及び、後村上天皇と側近は辛くも脱出に成功するが南朝方は多大な損失を蒙っている。
関東でも尊氏が鎌倉を奪還し、京都・鎌倉の双方から観応の元号の復活を宣言し、「正平一統」は僅か四ヶ月ほどで崩れ去った。
南朝が北朝に屈する形で南北朝の統一が実現するのは、四十年ほど後のことである。
さて、「観応の擾乱」と呼ばれる足利政権内の混乱を治め、南朝勢力に少なからぬ打撃を与えた尊氏・義詮親子は、北朝の再建を目指すことになった。
しかし、そこにはとてつもない難問が存在していたのである。
三種の神器は奪われ、朝廷政治を司る治天の君となるべき上皇も拉致され、次期天皇となるべき元皇太子も連れ去られていたのである。
武家政治の体制は整っていっても、朝廷による公家政治が滞り、任官・人事・祭事・諸儀式などが実施困難となってしまったのである。
南朝との返還交渉が難航する中で、光厳天皇の皇子弥仁王が拉致を免れ京都に留まっていることが判明した。当時の先例として、天皇が践祚するためには、神器が無くても治天の君による仁国詔宣がなされれば可能とされていた。
足利政権並びに北朝の最大の難関打開のために英知が集められ、一人の女性が登場するのである。
広義門院である。
三人の上皇ことごとくが連れ去られている現実の中、この窮地を救う唯一の方法として浮上してきたのが、三人の上皇の尊属である広義門院に上皇代理として仁国詔宣を行ってもらうというものであった。
広義門院は光厳・光明両上皇の母であり、崇光の祖母に当たる。若干無理押しの感があるとしても、南朝との上皇返還交渉に打開の見通しがたたない以上、広義門院の承諾を得るしかなかったのである。
足利政権からは佐々木導誉が代表となり勧修寺経顕を通して交渉に入ったが、広義門院は三上皇らが拉致される際の義詮や公家たちの不甲斐なさに不満を示し、この申し出を拒否した。
しかし、北朝存続の危機であることは広義門院とて承知していることであり、再三にわたって懇願し、ついに六月十九日申し入れを承諾することとなった。
ここに、わが国歴史上唯一の女性の治天の君が誕生したのである。
広義門院は、上皇代理として治天の君に就くことを承諾するとともに、精力的に行動した。
広義門院による政務や人事に関する令旨が出され始め、北朝が朝廷としての機能を回復してゆき、八月には弥仁王も無事践祚を終え北朝第五代後光厳天皇となる。
まさに北朝は、一人の女性によって消滅を免れたのである。
* * *
広義門院、本名西園寺寧子(ヤスコ/ネイシ)は正応五年(1292)従一位左大臣西園寺公衡を父に藤原兼子を母として誕生した。
母の実家は下級貴族であるが、父の西園寺家は朝廷の鎌倉幕府との連絡役である関東申次という要職を代々引き継ぐ有力貴族である。
朝廷は、持明院統と大覚寺党の両党が交互に皇位につく両党迭立の体制を取っていたが、西園寺家はその両党ともに姻戚関係を有していた。
嘉元四年(1306)寧子十五歳の時、持明院統である後伏見上皇の女御として後宮に入った。因みに、後醍醐天皇は大覚寺党であり、この両統迭立の体制が南北朝の時代を生み出す大きな原因となったといえる。
寧子が後宮に入った時、後伏見上皇は十九歳であったが、すでに五年ほど前に退位していた。
後伏見は第九十二代伏見天皇の第一皇子として誕生、十一歳で第九十三代の天皇として即位し、二年余りで大覚寺党の後二条天皇に譲位している。
従って、寧子が後宮に入った時はすでに上皇となっていたが、政務の実権を握る治天の君は後二条の父である後宇多上皇であった。
延慶元年(1308)、後伏見上皇は弟の富仁親王を猶子としたうえで花園天皇として即位させた。
翌年正月、寧子は花園天皇の准母とされ従三位に叙せられるとともに、准三后(ジュサンゴウ・三宮{太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮}に準じた位)及び院号の宣下を受けた。
これにより寧子は国母待遇となり、後伏見上皇の本后の地位を得たのである。
寧子はその後、後伏見上皇との間に五人の子供を儲けている。その中には、光厳天皇と光明天皇が含まれている。
二人の天皇の実母であり、後伏見上皇も治天の君になるなど栄華に満ちた生涯に見えるが、朝廷を取り巻く状況は混乱の極みに達していた。天皇家は北朝と南朝に分かれて戦いあい、鎌倉幕府を背負ってきた北条政権が倒れ、それに引きずられるように関東申次の地位を保っていた実家の西園寺家は没落していった。さらに、北朝を後見している足利家の内紛は南北朝廷を巻き込んだ激しいものになっていった。
そして、建武三年(1336)に後伏見上皇は南北朝対立の中で崩御、四十九歳であった。
四十五歳の寧子も出家したが、政治の混乱はさらに続き、故上皇の菩提を弔うのに専念することなど、時代は容認しなかったのである。
やがて、広義門院寧子には、北朝、つまりは朝廷を護る役目がめぐってくる。
そして、このあと六十六歳で没するまで、広義門院寧子は天皇を誕生させるためだけの治天の君ではなく、実質的な院政を行い、天皇家の家督者として危機下にあった皇統を護り抜いたのである。
北朝、そして皇統の危機を救った女性広義門院寧子、私たちは彼女のことをあまりにも知らないのではないだろうか。
( 完 )
北朝を護る
「観応の擾乱」と呼ばれる歴史上の事件がある。
大まかにいえば、南北朝時代とも呼ばれる頃、北朝の元号である観応年間に起こった足利政権内の内紛を指すが、西暦でいえば(1349-1352)間の三年ほどの期間ということになる。
しかし、足利政権の基盤が激しく揺れ動いていたのは、これより遥かに長い期間であって、「観応の擾乱(カンノウノジョウラン)」という括りだけで事件を把握するのは困難といえる。
室町幕府の成立は、北朝暦の暦応元年(1338)に足利尊氏が征夷大将軍に就任したことをもってするのが一般的のようであるが、実体は、敵対勢力としての南朝政権があり、各地の守護大名にも足利将軍の麾下にあるとはいえない勢力も少なくなかった。
足利氏が天皇家も含めた諸豪族の中で最も強大な陣営であったことは確かだが、支援する諸豪族に支えられた上での足利将軍であったといえる。
そして、この「観応の擾乱」を乗り越えることが室町幕府を安定政権へ導く第一歩と考えられるので、この擾乱に至るまでの状況を簡単に見てみる。
鎌倉の北条政権が滅亡したあと尊氏率いる足利氏が武家の頂点に立つが、後醍醐も天皇に復帰し建武の新政と呼ばれる天皇親政の実現を目指していた。
後醍醐にすれば、足利尊氏といえども新政権における軍事部門の一大将程度の位置付けを考えていたと思われるが、平清盛に始まる武家勢力台頭はすでに天皇の権威だけでは御することなど出来なくなっていた。
それが時代の流れというもので、公家や寺社勢力を中心に置く新政権は、早々と瓦解する。
後醍醐勢力を京都から追い払い、実権を手中にした当初の足利政権は、尊氏の執事である高師直が軍事部門を統括し、弟である直義(タダヨシ)が政務を担当する二元政治的な体制を取っていた。
直義は、鎌倉幕府における執権政治のような体制を目指し、訴訟などを通して有力御家人衆や公家や寺社といった既存の権益を擁護する色彩を強めていった。
一方の師直は、武士団を統括して南朝方と対抗し、その戦いを通じて尊氏を頂点とする武家政権の確立を目指していたようである。
この両者の目指す方向の差異が、足利氏を取り巻く武士団や、御家人衆・地方豪族ばかりでなく、公家や寺社勢力をも巻き込んで、それぞれの利害やライバル関係なども複雑に絡みながら二つの勢力に分割されていった。
南北朝初期の頃は、戦線の主力となる師直陣営が有力であったが、楠木正成・北畠顕家・新田義貞といった有力武将を失った南朝方の戦力は激減し、さらに主柱である後醍醐が没すると南朝は逼塞状態となり、畿内は平穏になっていった。
皮肉なことに、そのため師直の活躍の場は失われ、逆に政道を預る直義側が表舞台に立つようになり、さらには訴訟において師直派に不利な決済が目立つようになり、不満が膨らんでいた。
貞和三年(1347)に入ると、楠木正成の子正行が蜂起し、南朝方は攻勢に転じた。
九月に直義派の細川顕氏らが討伐に向かうも敗北、十一月には京都に逃げ帰ってしまった。
代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌年一月に四條畷の戦いにおいて正行を討ち取り、南朝軍を追って吉野まで攻め込み陥落させた。後村上天皇ら南朝方はさらに奥地の賀名生に落ち延びた。
この結果、政権内の発言力は高師直派が強くなり、落ち目となった直義派には不満がたまっていった。
両派の対立が避け難い状態になっていく中、尊氏は政治的な動きを見せず、隠居状態であったと伝えられている。
貞和五年(1349)閏六月、直義は尊氏に働きかけ、師直の執事職を罷免させることに成功する。
同年八月、危機感を抱いた師直は、河内から弟師泰を呼び寄せ、大軍で直義を討とうとした。直義は辛くも尊氏邸に逃げ込んだが、高兄弟の軍勢は、尊氏邸を包囲して直義らの引き渡しを求めた。師直に政権を奪取するまでの考えはなかったと思われるが、クーデター状態となる。観応の擾乱の始まりである。
この騒動は、禅僧夢想疎石の仲介もあって、直義派の武将らの配流、直義は出家して政権から離れることで決着をみた。
直義に代わり、鎌倉を統治していた尊氏の嫡男義詮が上洛して政務を担当することとなり、鎌倉には義詮の弟基氏が下向し、初代鎌倉公方として関東の統治を任されたのである。
十一月に義詮が京都に入り、十二月に直義が出家して、一連の騒動は終着するかにみえたが、流罪となっていた直義派の上杉重能・畠山直宗が暗殺されたため再び両派の緊張が高まった。
長門探題に任命されていた足利直冬(タダフユ・尊氏の実子で直義の養子)は、養父直義に味方すべく上洛を計ったが高師直軍に阻まれ九州に逃げていたが、その地で大宰府の少弐氏や南朝とも協力関係を築き上げていった。
翌貞和六年(1350)、北朝は観応と改元したが、この頃から南朝方の豪族たちは直冬を立てて挙兵、勢力は拡大していった。十月には直冬討伐のため、ついに尊氏自らが出陣し備前まで進んだ。
ところが、将軍出陣という混乱をついて直義は京都を脱出、河内石川城に入り諸豪族を味方につけていった。
尊氏は、直冬討伐を中断し軍を返し高師直兄弟の軍と合流する。この間に、北朝の光厳天皇に直義追討令を発布させたが、それを知った直義は南朝方に降り対抗姿勢を取った。
観応二年(1351)一月、直義軍は京都に侵攻、留守を守っていた義詮は抗することが出来ず備前の尊氏のもとに逃れた。
二月に尊氏軍は京都に向かい進軍するが、播磨の各地で直義側の軍勢に次々と敗れた。南朝を背景とした直義軍優勢が鮮明となり、尊氏は直義との和睦を図った。
和睦の条件には高兄弟の助命が条件となっていたとされるが、京都に護送される途中の摂津武庫川で二月二十六日に高一族は謀殺されている。それにもかかわらず、そのまま和議が成立しているのをみると、尊氏は暗黙の了解を与えていたのかもしれない。
長年の宿敵を倒した直義は政務に返り咲き、義詮の補佐に就き、九州の直冬は九州探題に就いた。
しかし、このような形の平安が続くはずもなく、今度は尊氏と直義の対立が高まっていった。
政権の実権を握ろうとする直義に対して、尊氏は将軍としての権限のもとに恩賞面での差別や、直義陣営の豪族の引き抜きを図った。
身の危険を察知した直義は、自派の有力豪族である斯波・山名氏らと共に北陸に逃れ、信濃を経由して鎌倉に入った。
直義勢力を京都から追い払ったとはいえ、直義側は関東・北陸・山陰を押さえており、九州では直冬が勢力を増していた。このうえ南朝との連携がなれば、再び圧倒される懸念が大きくなっていた。
尊氏は、直義と南朝を分断させるべく、佐々木導誉らの進言を受けて南朝に和議を申し入れ、今度は南朝から直義・直冬ら追討の綸旨を得ようと画策した。
南朝方は、三種の神器の引き渡しや政権を返上することなど北朝に厳しい条件を付けたが、尊氏は簡単に受け入れ南朝に降伏することによって綸旨を得た。
この和睦により、北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、年号も北朝の「観応二年」が廃され南朝の「正平六年」に統一された。ここに南北王朝は一本化されたことになり、これを「正平一統」と呼ぶ。
尊氏は、屈辱的とも見えるこれらの交渉を義詮に任せ、自身は直義追討に出陣した。窮地に追い込まれ形振り構わぬ行動を取っているかに見える尊氏だが、さすがにその人望は高く、戦いは一方的となり、翌正平七年(観応三年・1352)一月には鎌倉を落とした。
捕われた直義は幽閉中の二月に病死した。死因について、「太平記」は毒殺と伝えている。
一方、北朝方を屈服させたと勘違いしたらしい南朝方は、京都や鎌倉から足利勢力の排除に動いた。
建武の新政後に奪われた領地や役職の復旧を進め、正平七年閏二月六日には、尊氏の征夷大将軍職を廃し、宗良親王を就任させた。さらに、旧直義派の豪族の多くが宗良親王を奉じて鎌倉に攻め入り、尊氏は武蔵国に逃れている。
同じく閏二月十九日には南朝軍が京都に進軍し、義詮を近江に追い払った。勢いづいた南朝軍は、北朝の光厳・光明・崇光の三人の上皇と直仁親王を捕らえ南朝の本拠地賀名生に連れ去ったのである。
近江に逃れた義詮は佐々木導誉ら各地の豪族を集結させ、逆襲に転じ三月十五日には京都を奪還した。さらに、京都に移るべく山城の男山八幡に仮御所を移していた南朝の後村上天皇らを包囲した。この戦いは二カ月にも及び、後村上天皇と側近は辛くも脱出に成功するが南朝方は多大な損失を蒙っている。
関東でも尊氏が鎌倉を奪還し、京都・鎌倉の双方から観応の元号の復活を宣言し、「正平一統」は僅か四ヶ月ほどで崩れ去った。
南朝が北朝に屈する形で南北朝の統一が実現するのは、四十年ほど後のことである。
さて、「観応の擾乱」と呼ばれる足利政権内の混乱を治め、南朝勢力に少なからぬ打撃を与えた尊氏・義詮親子は、北朝の再建を目指すことになった。
しかし、そこにはとてつもない難問が存在していたのである。
三種の神器は奪われ、朝廷政治を司る治天の君となるべき上皇も拉致され、次期天皇となるべき元皇太子も連れ去られていたのである。
武家政治の体制は整っていっても、朝廷による公家政治が滞り、任官・人事・祭事・諸儀式などが実施困難となってしまったのである。
南朝との返還交渉が難航する中で、光厳天皇の皇子弥仁王が拉致を免れ京都に留まっていることが判明した。当時の先例として、天皇が践祚するためには、神器が無くても治天の君による仁国詔宣がなされれば可能とされていた。
足利政権並びに北朝の最大の難関打開のために英知が集められ、一人の女性が登場するのである。
広義門院である。
三人の上皇ことごとくが連れ去られている現実の中、この窮地を救う唯一の方法として浮上してきたのが、三人の上皇の尊属である広義門院に上皇代理として仁国詔宣を行ってもらうというものであった。
広義門院は光厳・光明両上皇の母であり、崇光の祖母に当たる。若干無理押しの感があるとしても、南朝との上皇返還交渉に打開の見通しがたたない以上、広義門院の承諾を得るしかなかったのである。
足利政権からは佐々木導誉が代表となり勧修寺経顕を通して交渉に入ったが、広義門院は三上皇らが拉致される際の義詮や公家たちの不甲斐なさに不満を示し、この申し出を拒否した。
しかし、北朝存続の危機であることは広義門院とて承知していることであり、再三にわたって懇願し、ついに六月十九日申し入れを承諾することとなった。
ここに、わが国歴史上唯一の女性の治天の君が誕生したのである。
広義門院は、上皇代理として治天の君に就くことを承諾するとともに、精力的に行動した。
広義門院による政務や人事に関する令旨が出され始め、北朝が朝廷としての機能を回復してゆき、八月には弥仁王も無事践祚を終え北朝第五代後光厳天皇となる。
まさに北朝は、一人の女性によって消滅を免れたのである。
* * *
広義門院、本名西園寺寧子(ヤスコ/ネイシ)は正応五年(1292)従一位左大臣西園寺公衡を父に藤原兼子を母として誕生した。
母の実家は下級貴族であるが、父の西園寺家は朝廷の鎌倉幕府との連絡役である関東申次という要職を代々引き継ぐ有力貴族である。
朝廷は、持明院統と大覚寺党の両党が交互に皇位につく両党迭立の体制を取っていたが、西園寺家はその両党ともに姻戚関係を有していた。
嘉元四年(1306)寧子十五歳の時、持明院統である後伏見上皇の女御として後宮に入った。因みに、後醍醐天皇は大覚寺党であり、この両統迭立の体制が南北朝の時代を生み出す大きな原因となったといえる。
寧子が後宮に入った時、後伏見上皇は十九歳であったが、すでに五年ほど前に退位していた。
後伏見は第九十二代伏見天皇の第一皇子として誕生、十一歳で第九十三代の天皇として即位し、二年余りで大覚寺党の後二条天皇に譲位している。
従って、寧子が後宮に入った時はすでに上皇となっていたが、政務の実権を握る治天の君は後二条の父である後宇多上皇であった。
延慶元年(1308)、後伏見上皇は弟の富仁親王を猶子としたうえで花園天皇として即位させた。
翌年正月、寧子は花園天皇の准母とされ従三位に叙せられるとともに、准三后(ジュサンゴウ・三宮{太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮}に準じた位)及び院号の宣下を受けた。
これにより寧子は国母待遇となり、後伏見上皇の本后の地位を得たのである。
寧子はその後、後伏見上皇との間に五人の子供を儲けている。その中には、光厳天皇と光明天皇が含まれている。
二人の天皇の実母であり、後伏見上皇も治天の君になるなど栄華に満ちた生涯に見えるが、朝廷を取り巻く状況は混乱の極みに達していた。天皇家は北朝と南朝に分かれて戦いあい、鎌倉幕府を背負ってきた北条政権が倒れ、それに引きずられるように関東申次の地位を保っていた実家の西園寺家は没落していった。さらに、北朝を後見している足利家の内紛は南北朝廷を巻き込んだ激しいものになっていった。
そして、建武三年(1336)に後伏見上皇は南北朝対立の中で崩御、四十九歳であった。
四十五歳の寧子も出家したが、政治の混乱はさらに続き、故上皇の菩提を弔うのに専念することなど、時代は容認しなかったのである。
やがて、広義門院寧子には、北朝、つまりは朝廷を護る役目がめぐってくる。
そして、このあと六十六歳で没するまで、広義門院寧子は天皇を誕生させるためだけの治天の君ではなく、実質的な院政を行い、天皇家の家督者として危機下にあった皇統を護り抜いたのである。
北朝、そして皇統の危機を救った女性広義門院寧子、私たちは彼女のことをあまりにも知らないのではないだろうか。
( 完 )