雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行   最北の地を追われても

2013-12-16 08:00:17 | 運命紀行
          運命紀行
               最北の地を追われても

辰姫が北政所ねねの養女となったのは、稀代の英雄豊臣秀吉が没して間もない頃のことである。
秀吉が死去したのは、慶長三年(1598)八月十八日のことであるから、おそらく慶長三年の内と思われる。

辰姫は、天正二十年(1592)の生まれとされているので、ねねの養女になったのは七歳の頃と考えられる。
父は石田三成、母は正室皎月院で三女にあたる。
この養子縁組が実現した背景ついてはよく分からない。
三成は少年の頃から秀吉に仕えているので、ねねには家族的な面でも可愛がられていたと考えられ、実子のいないねねが望んだ可能性もあるが、すでに豊臣家には秀頼という後継者がいたので、秀吉存命中にはとても考えられないことである。

それでは、やはり三成が望んだということになるが、それも秀吉存命中には難しい問題が多過ぎることから、秀吉死去後に慌ただしく進められた話のように思われる。
秀吉が死去した後、ねねは淀殿と共に秀頼の貢献にあたっていて、大坂城を退去するのは一周忌を終えた後の翌年九月のことであるが、辰姫を養女に迎える時点では、大坂城を去る決意を固めていたと思われる。
三成にすれば、武断派と呼ばれる秀吉恩顧の有力武将との仲は極めて悪く、秀吉が亡くなればいつ命を狙われておかしくない状況なっており、その武将たちが慕っている北政所ねねは、何としても味方につけておきたい人物であったことは確かである。

慶長四年九月、大坂城を退去したねねは、京都の太閤屋敷に移った。
この屋敷は、生前秀吉が急いで建設させた屋敷であるが住いとすることはなかった。
ねねは、側近の孝蔵主をはじめとした侍女などを連れて大坂を離れたが、養女となっていた辰姫も同行していたものと考えられる。
なお、大坂を離れたねねは、京都三本木辺りに隠棲したという話もあるが、ねねを慕う武将は多く豊臣政権にとってまだまだ大きな影響力を持っていたねねが、隠棲生活に入ったというのはいささか不自然である。

ねねが移った太閤屋敷は、その後高台院屋敷と呼ばれることになるが、堀を有した城郭に近いものであったらしい。
東西の衝突が避け難くなった頃、その城門や堀を撤去しているが、それはねねの意思によるものらしく、城郭とみられ戦乱に巻き込まれることを避けるためであったらしい。
その頃のねねの立場は、非常に微妙なものであった。
武断派と呼ばれる秀吉恩顧の武将たちはいずれもねねを慕っており、家康もまたねねを丁重に扱っていた。そのため、淀殿と対立したねねは東軍びいきとみられることが多いようであるが、単純に判断することは出来ない。
石田三成はじめ文治派と呼ばれる武将たちも、秀吉に可愛がられていた武将たちであり、ねねとの関係が悪かったわけではない。
また、淀殿との関係を極めて悪かったように伝えられることも多いが、現代人の感覚で正室と側室の関係を見るのは正しくないし、第一、夫と築き上げてきた豊臣の家をねねがそうそう簡単に見捨てられるものではないはずである。

そして何よりも、石田三成との関係は、養女を迎えるほどであるから悪い関係であるはずがない。さらに、ねねの側近である孝蔵主は、石田氏とは縁戚にあたる女性なのである。
孝蔵主は、秀吉存命中から北政所ねねの執事といった立場にある女性であった。蒲生氏家臣の川副勝重の娘であるが、伊達政宗に対する詰問や、関白秀次への謀反の疑いに関する使者など、重要な役目を担っていて、「表のことは浅野長政、奥のことは孝蔵主」と言われたほどの器量の持ち主なのである。

さて、関ヶ原の戦いにおいて西軍が大敗を喫した後、ねねの養女とはいえ三成の三女である辰姫も決して身の安全が保障されていなかったはずである。
その後の動向については、引き続きねねの保護下にあったという説と、秀頼の小姓として仕えていた陸奥弘前藩主津軽為信の嫡男信建(ノブタケ)に助けられて津軽に逃れた次兄の重成と行動を共にしていたとも伝えられている。
どちらが真実が決めかねるが、辰姫の身を守るため故意に幾つかの噂が流された可能性も考えられる。

いずれかの形で身を隠していた辰姫は、慶長十五年(1610)の頃、津軽信枚(ノブヒラ)に嫁いだ。辰姫十九歳の頃のことで、当時の女性としてはむしろ遅い結婚である。すでに高台院となっていたねねの養女としての嫁入りと思われるが、辰姫を嫁がせるには相応の時間を必要としたのかもしれない。
津軽信枚は、弘前藩主津軽為信の三男で、前述の信建の弟で辰姫より六歳年上であった。
関ヶ原の戦いにおいて津軽家は、藩主と三男は東軍に付き、嫡男は秀頼の小姓をしていたこともあって西軍方に付いていた。真田家などと同様に、御家を守るために両軍に別れたともいわれているが、敗軍となった嫡男信建は同じく秀頼の小姓であった石田重成らを助けて、津軽に逃げ帰っている。
その後も、信建は独立した家臣団を有していたようで、江戸幕府の許しを得た上と思われるが、ほどなく上洛し弘前藩の外交面を担っていたようである。

しかし、信建は慶長十二年(1607)十月十三日に三十四歳で死去しており、藩主である父為信も同年十二月五日と相次いで亡くなったのである。
次男の信堅はすでに十年ほど前に亡くなっており、三男の信枚が家督を継ぐことになった。
この家督相続の御礼言上に江戸に参府した折に、信枚は天海僧正と出会い、その弟子となって天台宗に帰依している。かつては兄弟ともキリシタンであったようであるが、このあと藩内に天海の弟子を迎えたり天台宗の寺院を建立するなど布教に務めている。

慶長十三年、といっても信枚が家督を継いだ直後のことであるが、長兄信建の遺児熊千代を擁立しようとする一派との対立が表面化し、御家騒動に発展する。一時は、津軽家の弘前藩取り潰しという危機に瀕したが、多くの犠牲を出しながら信枚が藩主の座を固めることが出来たのには、天海の支援があったと想像される。
辰姫を正室として迎えたのは、これらの騒動が解決した後のことである。
弘前城が完成したのが慶長十六年(1611)のことであるから、辰姫は新装なった弘前城に正室として入ったのであろう。

関ヶ原の戦いの後も高台院ねねの保護を受けていたとすれば、陸奥弘前の地はいかにも遠い最北の地であったことであろう。
しかし、二人の仲はとても睦まじいものであったらしい。
信枚と父為信は関ヶ原の戦いにおいては東軍に属していたが、石田三成に憎悪を感じるような戦いをしたわけではなく、また津軽家は豊臣家とは親しい関係にもあったことから、三成の遺児である辰姫に暖かい気持ちで接したのかもしれない。
辰姫も、最北の地とはいえ、むしろ上方を遠く離れることによって、安住の地を得た思いであったかもしれない。

しかし、弘前城も辰姫の安住の地とはならなかった。
慶長十八年(1613)、外部からの攻撃に備えて、本州最北部の弘前藩を重視した幕府は、津軽家を徳川体制により強く組み込む政策として、徳川の姫の降嫁を決定した。これには、津軽家の安泰のためも考えた天海の進言があったともいわれる。
花嫁に選ばれたのは、徳川家康の養女満天姫である。この姫は、秀吉死去直後に家康が進めた婚姻政策の一つとして福島正則の養嫡子正之に嫁いでいた姫で、この姫もまた歴史の波に翻弄されて徳川家に戻っていたのである。

満天姫を迎えた信枚は、幕府を憚って正室として迎えることとして、辰姫は側室に降格されることになった。
そして、決して追い出されるという形ではなかったのであろうが、辰姫は弘前城を離れることになるのである。
安住の地と思った弘前での生活はおそらく二年程ではなかったろうか。僅かな供に守られて、弘前城を出立する辰姫の心境はどのようなものであったのか。


     * * *

辰姫が向かった先は、上野国の大舘であった。
この地は、津軽家が関ヶ原の戦いにおける恩賞として与えられた二千石の領地であった。
東軍に与した外様大名の恩賞としては極めて少ないが、それは、嫡男が秀頼の小姓であったとはいえ西軍に与しており、一家を東西に分けて行き残りを図ったとみられたようである。

大舘に移された辰姫ではあるが、粗略な扱いを受けることはなく、大舘御前と称せられ、藩主夫人として遇せられたようである。夫の信枚も、参勤交代など江戸と行き来する時には必ず大舘に立ち寄り、ひとときを過ごすのを常としていたという。
そして、元和五年(1619)、信枚の長男となる平蔵(のちの信義)を出産したのである。
しかし、辰姫は、四年後の元和九年に三十二歳で亡くなった。
波乱の生涯の中で我が子を得た喜びの中とはいえ、若すぎる死であった。

辰姫の生涯を尋ねる過程で不思議に感じたことがある。
関ヶ原の戦いの西軍の実質的な大将ともいえる石田三成の子孫は、さぞかし厳しい処断がなされたのではないかと漠然と思っていたのだが、厳しいものとはいえ、それぞれの生涯を全うしているように見えるのである
徳川幕府にとって、石田一族となれば、たとえ女性であっても決して安心できる存在ではなかったと思われるが、子供たちに対する対処は何かほっとさせてくれるもののように思われるのである。

三成の子供の数には諸説があるようであるが、正室の子供である三男三女について紹介しておきたい。
長男重家は、関ヶ原の戦い時は十八歳の頃である。
三成の盟友となる大谷吉継からは、家康の上杉討伐軍に加わることを進められていたが、準備が遅れ豊臣家への人質として大坂城に留め置かれたという。この頃三成は領国に謹慎していたが、豊臣家との関係は人質を必要とするものであったらしい。
重家は、西軍大敗の報を知ると密かに大坂城を脱出して、京都妙心寺の塔頭寿聖院に入り剃髪、仏門に入り諸説あるも百四歳までの生涯を全うしたという。

次男重蔵は、関ヶ原の戦いを十二歳の頃に迎えている。
秀頼の小姓であった重蔵は、津軽信建の支援を受けて津軽に逃れている。
その後、杉山源吾と名乗り、津軽家の保護下で隠棲生活を送り慶長十五年(1610)に没したとも、その後津軽の地を離れ、藤堂高虎に仕え、寛永十八年(1641)に五十三歳で没したともいわれている。この説に従えば、杉山源吾の長男吉成は、弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職となり、子孫の杉山氏は弘前藩重臣として続いたという。

三男佐吉は、佐和山城にいたが、まだ五、六歳の頃であったと考えられる。
三成の居城佐和山城は、三成の兄正澄と父正継らが守っていたが、関ヶ原で西軍が破れた後東軍の大軍に包囲された。
この時開城の交渉に立ったのは、津田清幽という人物である。この人は、織田一族ともいわれ、最初信長に仕えていたが十八歳の頃に故あって浪人し、その後岡崎に行き家康に十年ばかり仕えた。その後に再び信長に仕え、本能寺の変の後には再び浪人となり、また家康に出会い、その斡旋で堺奉行をしていた石田正澄に仕えるようになっていた。
この時の攻防戦でも小早川隊などと激しい戦闘を繰り広げたが、西軍大敗を伝えられ、正澄が自刃すればその他の全員を助命する条件で開城交渉役となったのである。
ところが、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切って小早川秀秋や田中吉政らの軍勢を城内に引き入れたため、正澄や正継らが自刃するという悲劇が起こってしまった。
これに激怒した津田清幽は、脇坂隊の旗奉行を人質として、佐吉ら少年十人ばかりを連れて敵陣の真っ只中を突っ切って家康に違約を責め、その他の将兵たちの助命を約束させたという。
佐吉は、高野山に送られ、父三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家している。

長女の某は、石田家家臣山田隼人正に嫁いでいた。
家康の側室茶阿の局が隼人正の叔母にあたることから、石田家崩壊後その縁から、松平忠輝に二万五千石という大碌で仕えている。忠輝が改易された後は、津軽藩から助けを受け、江戸で余生を送り子孫は津軽藩士になったともいわれている。

次女の某は、蒲生家家臣の岡重政に嫁いでいたが、重政が御家騒動に関与して切腹処分となると会津を離れ、後に若狭に住み小浜で没したという。子の岡吉右衛門の娘は、三代将軍家光の側室お振の方となり、家光の長女千代姫を産んでいる。千代姫は、尾張徳川家に輿入れし血縁を繋いでいる。

そして三女が辰姫である。
関ヶ原の合戦で敗れ、何かと悪役扱いされがちな石田三成であるが、その子供たちのその後の生涯は、誇り高い父の遺志をついで、胸を張って生きていたように思われるのである。

さて、辰姫の忘れ形見である幼い平蔵は、江戸藩邸に引き取られて育てられた。
そして、満天姫にも男児が誕生していたが、信枚の強い願いによって平蔵が三代藩主に就くのである。
遥々と北の果ての地に輿入れし、その地からも追われた辰姫ではあるが、その子が三代藩主に就いたことで何か嬉しくなってしまうのである。

                                   ( 完 )


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする