雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  宿敵の姫

2013-12-04 08:00:43 | 運命紀行
          運命紀行
               宿敵の姫

戦国時代を代表する好敵手といえば、やはり、武田信玄と上杉謙信が一番手に挙げられるのではないだろうか。
甲斐と越後を本拠として、信濃などの争奪をめぐって激しい戦いを繰り返している。あの有名な川中島の戦いでも五回に及び十二年間に渡って繰り広げられているのである。また、好敵手といえば聞こえはよいが、長年にわたる戦乱は、両家ともに多くの死傷者を出していて相手を憎む気持ちは尋常なものではない。
そうした中で、信玄・謙信という両雄が没した後とはいえ、宿敵ともいえる家同士の婚姻は、同盟という名のもとであったとしても、嫁ぐ方も迎える方もそれなりの軋轢があったものと考えられる。
その難しい中を花嫁として嫁いでいった女性が菊姫である。

菊姫は、永禄六年(1563)、武田信玄の六女として誕生した。信玄が四十三歳の時の誕生で、没する十年前のことである。
母は、油川夫人である。油川氏は武田氏の支流にあたる。同母の兄には、後の仁科盛信・葛山信貞がおり、姉には、松姫がいる。なお、木曽義昌に嫁いだ真理姫も同母姉の可能性が高い。
松姫は、本稿ですでに紹介させていただいているが(荒波の陰で)、後の信松尼で波乱の生涯を逞しく生き抜いた女性である。

信玄没した後の武田家は、国力に陰りが見られるようになっていった。後継者の武田勝頼が、特別凡庸であったわけではないと思われるが、何分信玄という傑物の後となれば線の細さはどうすることも出来なかった。
天正三年(1575)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、勢力の衰退は明らかになり、長年の宿敵である越後の上杉氏と同盟を結ぶことで打開を図ろうとした。
信長の台頭に危機感を抱いていたのは上杉氏とて同じで、両家は積年の恨みを押さえて同盟に至った。
ただ、武田氏にとってまことに不運であったのは、上杉謙信という信玄と長年戦ってきた英雄が、天正六年(1578)に四十九歳で急死したことであった。今しばらく謙信が健在で、強力な越後軍が武田氏を支援していれば、武田家のその後は違う展開を見せていたかもしれない。

菊姫が甲越同盟の証として上杉景勝のもとに嫁いだのは、謙信が没した翌年の天正七年のことと思われる。
菊姫が十七歳の頃で、景勝は七歳年上である。
つい最近まで干戈を交えていた敵国に嫁いでいく菊姫の心境は、相当の覚悟を必要としたことは想像に難くない。さらに、この頃は、上杉家中では激しい後継者争いによる内紛が続いていた。
謙信には実子がおらず、二人の養子による後継者争いは家中を二分するもので、同盟を結んだ武田氏への支援どころか、家中が大きく揺れ動いていたのである。

この御館の乱と呼ばれる内紛は、謙信の二人の養子、一人は一族の長尾政景の子である景勝と北条氏康の子である景虎による後継者争いである。
景勝がいち早く春日山城を本拠としたのに対し、景虎は謙信が城下に関東管領上杉憲政を迎えるために建てた居館を本拠としたことから御館の乱と呼ばれる。
争いは、天正六年三月に謙信が急な病で没すると、その翌日からそれぞれを擁立しようとする武将たちが動き出し、当初は景虎陣営の方が有利に展開していた。当然北条氏の支援もあったと考えられる。

七月になって、同盟関係にある武田勝頼が両者の調停に乗り出し、一旦は和議を結ばせることに成功した。しかし、八月になると、徳川軍が武田領に侵攻したため勝頼は急遽甲斐に戻った。
すると、和議はたちまち破綻し、九月には北条軍がこの内紛に本腰で介入すべく越後に向けて進軍を開始するなど、さらに激しさを増した。
結局戦いは、名将直江兼次らの活躍により、天正七年三月に景虎を自刃に追い込み、景勝側の勝利となる。
菊姫が嫁いだのは、この年の十二月の頃で、国内の秩序が回復されたことで実現したと思われるが、なお抵抗勢力は活動していて、完全に鎮圧されるのは翌年になってからのことである。

しかし、菊姫にとっては、辛い新婚時代であったと考えられる。
夫は上杉氏の当主とはいえ、重臣たちの中には武田氏に対して恨みを抱いている人物は少なくなかったはずである。さらに、同盟の証としての婚姻のはずが、その背景となる実家武田氏は二年ほど後に滅亡してしまうのである。
上杉家にとって、政略結婚としての菊姫の価値は無いに等しい状態になってしまったのである。


     * * *

しかし、残された記録を見る限り、上杉家は菊姫並びに滅亡した武田氏に対して好意的に接しているように見えるのである。
菊姫自身が、武田信玄の娘という大大名の姫でありながら、質素倹約を旨とする生活ぶりだったようで、家中の人々から好意的に見られていたようである。甲州夫人、あるいは甲斐御寮人と呼ばれ、夫・景勝はもとより家臣たちが粗略に扱うことはなかったらしい。

天正十年(1582)三月に、勝頼が自刃に追い込まれて武田氏が崩壊してしまった時、異母弟の武田信清が菊姫を頼って上杉家に逃れてきた時、景勝は彼を助けて厚く遇しているのである。信清は米沢武田家の初代当主として一家をなし、子孫は上杉一門・高家衆筆頭として家名を後世に伝えている。
また、二代藩主となる定勝は、側室の出生であるが、菊姫を大切にしていたという。

天正十七年(1589)九月、豊臣秀吉は、小田原征伐出陣にあたって、一万石以上の諸大名に対して、妻女を三年間在京させることを命じた。
菊姫も、同年十二月に景勝と共に上洛し、以後京都伏見の上杉邸で人質生活を送ることになる。
上杉家は、慶長三年(1598)に越後から陸奥会津百二十万石へと転封となり、さらに、関ヶ原の戦いでの西軍敗北により米沢三十万石へと大幅減封の上移されているが、菊姫はいずれの領国にも入ることなく京都での生活となった。

京都での生活では、諸大名や公家衆の妻女などと交流を図っていて、上杉家のこの関係の外交面での貢献は小さくなかった。特に、准三后である勧修寺晴子や晴豊とは親しい交際を持っていたようである。
この勧修寺晴子という女性は、時の帝である御陽成天皇の生母で、後に院号を得て新上東門院となる人である。そして、晴子の兄である勧修寺晴豊は、権大納言まで上っており、また武家伝奏を務めていて秀吉などとも交流があった。
晴豊は、景勝と朝廷の取次に尽力するなどしており、菊姫の存在は上杉家にとって決して軽いものではなかったのである。
また、文禄四年(1595)の頃からは、重臣直江兼次の妻お船の方も同じ屋敷で生活しており、上杉家中の重臣たちとも接する機会は少なくなかったのかもしれない。

菊姫は、慶長八年(1603)の冬の頃から病床に臥し、翌年二月に伏見屋敷で亡くなった。享年四十二歳であった。子供を儲けることはなかった。
菊姫が病をえた慶長八年、景勝は豊臣秀頼と千姫の婚儀のため上洛し、そのまま翌年八月に帰国の途につくまで伏見に滞在した。
結婚以来別居の生活が長い二人であったが、菊姫の最期の時を二人はどのように過ごしたのであろうか。
また、上杉家の家臣となっていた異母弟の武田信清は、急遽米沢から呼ばれて、菊姫の最期を看取ったという。

信玄の娘には、見性院や信松尼のように信玄を彷彿させるような凛々しい生き方をしている女性がいる。
その人たちに比べると、菊姫の生涯はいかにも地味なように見えてしまう。
しかし、上杉家の記録には、菊姫死去の報に接した景勝や家臣たちの悲しみの様子を、「悲嘆カキリナシ」と、伝えている。
宿敵の家に嫁ぎ、しかも実家は滅亡するという厳しい環境の中で懸命に生きた菊姫。この「悲嘆カキリナシ」という記録に、菊姫の人柄と努力の結果が示されているように思われるのである。

                                    ( 完 )


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