昭和28年発行の帯解町郷土誌では「池田のタイマツ」行事と紹介されています。
そのタイマツに付随して行われていたのが太鼓踊り。
昭和9年に復興したあと昭和15年に途絶えています。
太鼓踊りは雨乞い踊りでその昔柴屋町の奥の院こと龍象寺の天井に描かれている龍の絵が関係しているという。
夜な夜な抜け出した龍は広大寺池水を飲みにいってたそうな。
知った和尚は出ていかんように金網を張った。(※ 釘を挿したとか鱗を三枚塗りつぶした説もある)
ところがその祟りか死人がでたので供養のためにタイマツ行事をはじめたとされる。
あるいは池には龍が住んでいて村人を殺したので松明をたいて龍にヤイトをすえたとか、タイマツの煙で雨雲がついてくるので雨乞いしたとも。
土地ではタイマツ行事は池の水難者の供養、雨乞い、五穀豊穣、悪疫退散祈願の意味合いがあるそうで。
9年に発刊された太鼓踊りの歌本には「勇踊之歌 大字池田」(いわゆるなもで踊り)と書かれているそうで、近隣の山村町のヒデ踊(シデとも)歌を参考にした可能性があるという。
タイマツ行事の際に講の方がカセットで流していた(と思われる)のはその太鼓踊りの歌ではなくお念仏だったと後に知人から教わった。
(H20. 8.15 Kiss Digtal N撮影)
そのタイマツに付随して行われていたのが太鼓踊り。
昭和9年に復興したあと昭和15年に途絶えています。
太鼓踊りは雨乞い踊りでその昔柴屋町の奥の院こと龍象寺の天井に描かれている龍の絵が関係しているという。
夜な夜な抜け出した龍は広大寺池水を飲みにいってたそうな。
知った和尚は出ていかんように金網を張った。(※ 釘を挿したとか鱗を三枚塗りつぶした説もある)
ところがその祟りか死人がでたので供養のためにタイマツ行事をはじめたとされる。
あるいは池には龍が住んでいて村人を殺したので松明をたいて龍にヤイトをすえたとか、タイマツの煙で雨雲がついてくるので雨乞いしたとも。
土地ではタイマツ行事は池の水難者の供養、雨乞い、五穀豊穣、悪疫退散祈願の意味合いがあるそうで。
9年に発刊された太鼓踊りの歌本には「勇踊之歌 大字池田」(いわゆるなもで踊り)と書かれているそうで、近隣の山村町のヒデ踊(シデとも)歌を参考にした可能性があるという。
タイマツ行事の際に講の方がカセットで流していた(と思われる)のはその太鼓踊りの歌ではなくお念仏だったと後に知人から教わった。
(H20. 8.15 Kiss Digtal N撮影)